戦う女学生
手のひらに、ささっと三回、『人』と書く。
それをすかさず飲み込んで、桜左久夜は、小さく息を吐き出した。
この場所へ来て、一時間くらいは経ったはず。その間に何人、『人』を飲み込んだことか。
日曜の午後。見上げた空は青天。春の陽気も相まって、行楽日和といえる。
しかし。
視線を元に戻せば、そこは帝都の外れの森の中。目の前の光景に、一気に現実へと引き戻される。
左久夜は今、茶褐色の軍服を着て、薄暗い草むらに潜んでいるのだった。
お役目を、うまくこなせるだろうか。
不安がまたも頭をよぎる。その途端、緊張をほぐすおまじないは、効果が切れてしまった。心臓はまた、ドンドコドンドコ、祭りばやしを奏で始める。
大きなため息が、こぼれ落ちた。
「大丈夫ですか?」
側にいた東条明彦が、前方から視線を外し、左久夜を見た。彼は、この三班を任されている若い士官だ。
そう広い場所ではない。先ほどのおまじないを東条に見られていたのかもしれない。
「緊張してしまって」
正直に答えた左久夜に、東条は「そうですよね」とうなずく。
「ただ、『戦場で緊張しないやつは、生き残れない』」
「え?」
「僕が橘少佐から、言われたことです。ちなみに、少佐も未だに緊張するらしいですよ。ついでに僕も緊張しています」
東条が小さく笑った、その直後。前方から警笛が響いた。
「来ましたね」
「はい」
左久夜は東条と顔を見合わせ、うなずいた。
少しして、森に野太い声が響く。
「一気に追い込め!」
その声から、前方から来たのが二班だと、左久夜にも分かる。
ガサガサ、ザザザ。
音がする木立の奥へと、左久夜は目を凝らした。木々の間から姿を現したのは、黄緑色の葉を茂らせた大木。枝葉を揺らし、何本もの根っこをくねらせて、地面をはうように進んでいた。
「あれが、樹霊。木の魔物です」
その姿を初めて目にした左久夜に、東条が言った。
身の丈は、軍人の三倍以上、あるだろうか。図録では見ていたものの、想像以上の大きさだ。
二班に追われた樹霊は、派手な音を立てながら、こちらへ向かって来る。
「左久夜さん」
東条が、準備はいいかと尋ねてきた。左久夜は、うなずいて答える。この樹霊を仕留めるのが、左久夜に与えられた任務。
「僕たちが全力で支援します。桜家ご当主といえど、無茶は禁物です」
「はい」
左久夜は深呼吸をしてから、後ろを振り返る。そこには今回、自分を支援してくれる屈強な軍人が十数人。
「みなさん、よろしくお願いします」
一同を見回して、頭を下げた。それが部外者としての礼儀だ。その場にいた軍人は、敬礼でもって返してきた。
しかし、出陣間際。
こちらへ向かっていた樹霊が、あと少しの所で、進路を変えたではないか。
「おい、そっちじゃない!」
「進路をふさげ!」
すぐさま、数人が追いかけたが、うまく引き戻せないようだ。
左久夜はその様子を見ながら、手をぎゅっと握りしめた。このままでは、逃げられてしまうかもしれない。
「少尉、追いかけましょう」
意を決して、左久夜は言った。けれども、東条は煮え切らない。
その理由は、左久夜も分かっている。
彼は左久夜の《《保護者》》から、『勝手をしないように見張っておけ』などと、言われているに違いない。
だからと言って、左久夜も傍観しているわけにはいかない。女学生の左久夜が、軍の討伐作戦に加わっているのは、それが花の家名を持つ、華族十三家の当主に課せられた義務だから。
そして今回、左久夜が招集された本当の理由は力試し。桜の当主として試されているのだ。だとしたら、自分が使えることを示さなければならない。
「追いかけます」
左久夜は、先ほどよりも強めにくり返した。
この樹霊は、危険度の高い魔物でもある。取り逃がすわけにはいかない。
東条とのわずかなやりとりの間にも、樹霊は枝をムチをのようにして、立ちふさがった軍人をなぎ払い、どんどん遠ざかっている。
「臨機応変に。そう言ったのは、橘少佐じゃないですか」
渋る東条に、左久夜は保護者のあげ足を取って、走り出した。
左久夜だって、決して怖くないわけではない。けれど、これ以上、グズグズしていたら、足が動かなくなってしまいそうだった。
「あとに続け!」
すぐに東条が追いついて来た。
左久夜を先頭とした一団は、すぐに二班と合流する。二班の班長は左久夜を見て一瞬、申し訳なさそうな顔をした。
「支援、お願いします」
左久夜は班長にそう言って、追い抜いて行く。あと少しで樹霊に追いつこうかという、その時。
リーンと、かすかに鈴の音が響いて。
「おい、桜っ。何をしてる!」
続けて、よく知る声が聞こえてきた。
左久夜の右の奥から姿を見せたのは、一班を率いている橘宗右真。この作戦の責任者でもある。
彼は左久夜より、ずっと強いし、場数も違う。けれど、こちらはすでに、樹霊の目と鼻の先にまで迫っていた。考えるまでもない。
「待て! 桜っ!」
左久夜は、怒鳴る宗右真を無視して走った。




