第90話:戦い終わって 〜英雄の第一声は謝罪だった〜
S区・相葉邸の庭。
ほんの数分前まで世界の終わりが顕現していた場所には、今はただ、穏やかな朝の光が降り注いでいた。
チチチ……。
小鳥のさえずりが聞こえる。
黒い巨人は消え、空を覆っていた瘴気も霧散した。
残されたのは、ボコボコに穴が空いた庭と、半壊したベランダ。
そして、瓦礫の上に佇む一人の男——相葉湊だけだった。
「…………」
湊は、動かなかった。
右足は裸足。ジャージは煤で汚れ、髪はボサボサ。
彼は、割れた二階の窓ガラスを見上げ、深く、重く沈黙していた。
◇ ◇ ◇
——その姿を、世界中が見つめていた。
上空の衛星カメラ。
遠くから望遠レンズを構える報道陣。
そして、ネット配信の画面に釘付けになっている数十億の人々。
『勝った……のか?』
『あの巨人を、スリッパで叩き割ったぞ』
『神だ……』
『彼は何を思っているんだ?』
『世界を救った感慨に耽っているのか?』
誰もが、固唾を飲んで待っていた。
人類を救済した英雄の、最初の一言を。
それはきっと、勝利の凱歌か、あるいは平和への祈りか。
歴史に残る名言になるはずだ。
◇ ◇ ◇
——湊の視点。
「…………はぁ」
俺は、心の底から深いため息をついた。
終わった。
不法投棄業者(巨人)は追い払った。
静かな朝が戻ってきた。
だが、現実は非情だ。
俺は、自宅の惨状を冷静に査定していた。
まず、窓ガラス。完全に割れている。サッシも曲がっている。
次に、外壁。ススだらけだ。
そして庭。クレーターだらけで、もはや更地に近い。
「これ……修理代いくら掛かるんだ?」
俺は頭の中で電卓を叩いた。
ガラス交換で数万。外壁塗装で数十万。造園工事で……考えたくもない。
貯金(親からの仕送り)なんて、とっくに底をついている。
そして何より、最大の問題がある。
「……母さん(大家)に、なんて言おう」
この家は、実家の離れだ。
名義は親父だが、管理しているのは母さんだ。
今は避難しているとはいえ、いつか戻ってきた時、この惨状を見たらどうなるか。
『湊! あんた何やったの! 家を壊すなんて!』
『庭いじりもいい加減にしなさい!』
カミナリが落ちる未来しか見えない。
「巨人が来て戦ったんだよ」なんて言っても、信じてもらえるわけがない。「ゲームのしすぎで幻覚を見たのね」と病院に連れて行かれるのがオチだ。
「……怒られるなぁ」
俺は、膝から崩れ落ちそうになった。
世界を滅ぼす魔王よりも、実家の母ちゃんの方が百倍怖い。
それが、ニートの真理だ。
俺は、割れた窓枠に手を置き、うなだれた。
そして、絞り出すように呟いた。
「はぁ……。これ、母さんに怒られるやつだ……」
その声は、静まり返ったS区の空気に乗り、集音マイクを通して世界中へ届けられた。
◇ ◇ ◇
——地上、銀条レイナの視点。
『……母さんに怒られるやつだ……』
その言葉を聞いた瞬間、レイナの目から涙が溢れ出した。
「し、師匠……ッ!」
レイナは震えた。
なんてことだ。
あの方は、世界を救ったというのに、自分の功績を誇ることも、報酬を求めることもしない。
あの方が気にしているのは、「親に心配をかけないか」「家を傷つけてしまった」という、子としての情愛。
そして、己の力で解決してしまったことへの、慎ましやかな反省。
「神ごとき力を持ちながら、その心はどこまでも『人の子』……!」
「世界よりも、家族(母)への義理を重んじる……これぞ、究極の親孝行!」
ジャック・バーンも、サングラスを外して涙を拭った。
「Oh... Family comes first.(ああ……家族が第一か)」
「He is not just a destroyer. He is a guardian of love.(彼はただの破壊者じゃない。愛の守護者だ)」
剛田猛も、トラックの陰で号泣している。
「うおぉぉっ! 俺も母ちゃんに電話しよぉぉぉ!」
世界中が、感動の渦に包まれた。
圧倒的な力と、庶民的な倫理観。
そのギャップが、人々を熱狂させた。
【速報】ジャージの英雄、第一声は家族への謝罪
【感動】世界を救った男の正体は、心優しき孝行息子だった
SNSでは『#母さんに怒られる』が世界トレンド1位になり、なぜか「親孝行キャンペーン」が各地で巻き起こることになるのだが、それはまた別の話。
◇ ◇ ◇
——湊の視点。
「……なんか、外野がうるさいな」
俺は涙を拭い(修理代への恐怖で泣いていた)、下を見た。
庭の隅で、レイナちゃんたちが泣いている。
また何かに感動しているようだ。
「あ、そうだ。レイナちゃんたちも巻き込まれたんだった」
俺は思い出した。
彼女たちも、あの巨人に襲われて怪我をしたかもしれない。
家主として、お見舞いくらい言わなきゃ。
「おーい! 大丈夫かー!?」
俺が手を振ると、レイナちゃんたちはビシッと敬礼を返してきた。
元気そうで何よりだ。
「さて、とりあえずガラス修理の業者を探さないと」
俺はポケットからスマホを取り出した。
『ガラス修理 即日 S区』で検索だ。
——プンッ。
画面が真っ暗だった。
ボタンを押しても反応しない。
「……あ」
充電切れ。
昨夜からの停電で、バッテリーが尽きていたのだ。
「詰んだ……」
俺はスマホを握りしめ、天を仰いだ。
電気がない。ネットがない。連絡手段がない。
世界は救われたかもしれないが、俺の生活は崩壊したままだ。
「誰か……誰か助けてくれぇ……」
俺は力なく、家の中へと戻っていった。
その背中は、人類最強の英雄には見えない。
ただの、ライフラインを断たれて途方に暮れる若者だった。
ガチャリ。
玄関の鍵を閉める音。
それが、長い長い「S区防衛戦」の終結の合図だった。
こうして、世界は平和を取り戻した。
だが、湊の物語はここで終わらない。
世界を救った「対価」として、国が、世界が、彼に恩返し(という名の迷惑な干渉)をしに来るからだ。
翌朝。
彼の家の前に、黒塗りの高級車と、政府のヘリコプターが集結することになる。




