第9話:Sランク探索者、聖域に挑む 〜ただの庭がラストダンジョン〜
数日後。
東京都S区の境界線——通称『生と死の境界』に、一人の少女が立っていた。
銀条レイナ。
日本最強と謳われるSランク探索者である彼女は、今、決死の覚悟を決めた顔をしていた。
「……装備、よし。ポーション、よし。手土産……よし」
彼女が身に纏っているのは、全財産をはたいてメンテナンスしたばかりの『聖銀のフルプレートアーマー』。
腰には予備を含めた三本の魔剣。
背中のリュックには、最高級の回復薬が満載されている。
周囲にいた一般の探索者たちが、どよめきながら道を空ける。
「おい、あれ『銀の戦乙女』だろ?」
「なんだあの重装備……深層への遠征か?」
「いや、向かっている方角はS区の中心部だぞ……あそこは人が住める場所じゃない」
「自殺志願か? 死ぬぞ……」
ひそひそ話が聞こえてくるが、レイナは意に介さない。
彼女の目的は、ダンジョン攻略ではない。
ただ、「近所の人にお礼の品を渡しに行く」。
それだけだ。
だが、その相手が『S区の魔王(相葉湊)』である以上、それは人類未踏のラストダンジョン攻略と同義だった。
「行きましょう。あの方に……師匠に認めてもらうために」
レイナは一歩、封鎖ゲートの向こう側へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
ズシッ……。
S区に入った瞬間、レイナの肩に鉛のような重圧がかかった。
重力ではない。
空気中に充満する、圧倒的な魔素の密度だ。
「っ……くう……!」
呼吸をするだけで、肺が焼けるように熱い。
一般人なら即死、Cランク探索者でも数分で発狂するレベルの瘴気。
だが、レイナは歯を食いしばって耐えた。
(これが、あの方の住む世界の空気……!)
数日前よりも、明らかに濃度が上がっている。
まるで、家主が「誰も入れるな」と拒絶しているかのような、物理的な壁を感じる。
——実際、湊が昨日「戸締まり」をしたせいで結界強度がMAXになっているのだが、レイナはそれを「私への試練」と解釈した。
「拒絶されても、行きます。私は羊羹のお礼がしたいだけですから!」
レイナは泥のように重い空気をかき分け、廃墟と化した住宅街を進む。
やがて、目的の場所——『相葉家』の敷地が見えてきた。
「……ここからが、本番」
レイナはゴクリと唾を飲み込んだ。
錆びついた門扉の向こうに広がる、荒れ果てた庭。
湊にとっては「草むしりが面倒な庭」だが、レイナのスキル『危険察知』は、そこを「地雷原」と表示していた。
一歩足を踏み入れる。
カサッ。
足元の草が揺れた。
レイナは反射的にバックステップで回避する。
シュッ!!
一瞬前まで彼女の足があった場所を、鋭利な蔦が槍のように貫いていた。
「……ッ! 『吸血蔦』の群生地!?」
本来ならダンジョンの地下深くにあるはずの凶悪植物が、ここでは雑草として繁茂している。
それだけではない。
足元に生えている可愛らしい白い花。
あれは踏んだ瞬間に即死級の悲鳴を上げる『マンドラゴラ』だ。
(道がない……どうやって玄関まで行けばいいの!?)
レイナは冷や汗を流しながら、庭を見渡す。
わずかな隙間。
マンドラゴラと吸血蔦の群れの間にある、わずか数センチの安全地帯を見極めるしかない。
(あの方は、サンダル履きでここを歩いていた……)
(つまり、これくらいの動体視力と足運びは「できて当たり前」ということ!)
「……シッ!」
レイナは舞うように走った。
Sランクの身体能力をフル稼働させ、死の庭をバレリーナのようにすり抜けていく。
一歩間違えれば死。
だが、その極限の集中力が、彼女の探索者としてのレベルを強制的に引き上げていく。
そして、庭の中腹までたどり着いた時だった。
——グルルルルル……。
地獄の底から響くような唸り声。
レイナの全身が、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
目の前には、古びた犬小屋。
そこには一匹の、黒い子犬が寝そべっていた。
相葉湊の愛犬、ポチ。
湊にはチワワに見えている。
しかし、極限状態にあるレイナの『真眼』には、その真の姿がハッキリと映っていた。
(……ケルベロス……!)
子犬の影が、三つの首を持つ巨獣の形に揺らめいている。
吐き出す息は、陽炎のように空間を歪める地獄の炎。
Sランクモンスターであるギガント・オーガすら、この番犬の前では餌に過ぎないだろう。
ポチが、ゆっくりと顔を上げ、レイナを見た。
『……』
金色の瞳。
それは、「主の敵か? それとも餌か?」と値踏みする捕食者の目だ。
戦ってはダメだ。
武器に手をかけた瞬間、灰にされる。
レイナは即座に、持っていた桐箱(高級和菓子)を頭上に掲げ、その場で深く平伏した。
「と、通らせてください……! 守護獣様!」
「私は敵ではありません! 主様への貢物を持ってきた、ただの飛脚です!」
プライドなどない。
今はただ、この命と羊羹を玄関まで届けることだけが使命。
ポチが鼻をひくつかせた。
桐箱から漏れ出る、甘い香り。
そして、レイナから漂う「主(湊)の残り香(前回の接触時の魔素)」を感じ取ったのか。
『ワフッ(通れ)』
ポチは短く鳴くと、興味なさげに欠伸をして、再び寝転がった。
地獄の門が開いた。
「……ありがとうございます……っ!」
レイナは涙目で立ち上がり、震える足で犬小屋の横を通り抜けた。
寿命が十年縮んだ気がした。
そして、ついに。
彼女はたどり着いた。
人類未踏の地。
S区最深部、相葉邸の玄関前へ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
距離にしてわずか十メートル。
けれど、レイナの体力と魔力(MP)は、すでに枯渇寸前だった。
全身汗だくで、ミスリルの鎧が重い。
目の前には、変哲もないインターホン。
ここを押せば、あの方に——『魔王』に繋がる。
(帰りたい……お母さん、怖いよぅ……)
本能が警鐘を鳴らしている。
けれど、ここで帰れば、私は一生、あの方の背中を追う資格を失う。
レイナは震える指を伸ばした。
「……銀条レイナ、参ります!」
ピンポーン。
そのチャイムの音は、彼女にとって、運命の審判のゴングのように聞こえた。
◇ ◇ ◇
——家の中。
「ん?」
PCの前でポテチを食べていた俺は、ヘッドホンを少しずらした。
今、チャイムが鳴ったような?
「……気のせいか?」
モニターを見る。
誰も映っていない……いや、待て。
カメラの死角、玄関のドアのすぐ下に、何かがうずくまっているような?
「うわ、なんかボロボロの人がいる」
金属製のコスプレ衣装を着た女性が、肩で息をしながら倒れかけている。
汗だくで、顔面蒼白だ。
「……熱中症か?」
最近、暑いからなぁ。
あんな厚着して外歩いてりゃ、そりゃ倒れるよ。
庭に入ってきた不審者だけど、さすがに家の前で倒れられると寝覚めが悪い。
「はぁ……仕方ない」
俺は渋々立ち上がった。
対人恐怖症だが、緊急事態なら話は別だ。
とりあえず、冷えたコーラでも渡して帰ってもらおう。
俺は冷蔵庫から、飲みかけの『神霊水』を掴み、玄関へと向かった。
これが、世界最強の探索者と、世界最強の引きこもり(俺)の、二度目の邂逅となる瞬間だった。




