第89話:最後の一撃:スリッパ・メテオ 〜ブラックホールは割れ物です〜
S区の上空。
終焉の王が掲げた両手の間に、絶対的な「闇」が顕現した。
【擬似ブラックホール(ミニチュア・ヴォイド)】
直径数十メートル。
光すら脱出できない重力の檻。
周囲の瓦礫、空気、そして音さえもが、その漆黒の球体へと吸い込まれていく。
『……無ニ……還レ……』
『……世界ヨ……閉ジロ……』
王が宣告する。
この球体を地上に叩きつければ、相葉邸はおろか、S区を含む関東平野ごと空間がえぐり取られ、消滅するだろう。
回避不能。防御不能。
正真正銘の「詰み」だ。
「あ、あぁ……」
地上で空を見上げていた銀条レイナは、目から光を失った。
ジャックも、剛田も、言葉を失って立ち尽くすしかない。
人の身で抗える領域を超えている。
——だが。
ただ一人、その絶望の只中にいる男だけは、全く違う感想を抱いていた。
◇ ◇ ◇
——相葉湊の視点。
「うおっ、吸い込み強っ!?」
俺は、巨人の胸板の上で踏ん張っていた。
頭上で回転する黒いボール。
あそこから発生する風圧(重力)が、俺のジャージを激しく引っ張っている。
「ダイソンより吸引力強いんじゃないか? 業務用の掃除機か?」
俺は目を細めた。
あの黒いボール、よく見ると周りの景色が歪んで見える。
きっと、超高速で回転するファンか何かが入っているに違いない。
「……ていうか、危ないだろ」
俺はイラッとした。
あんな強力な掃除機を振り回されたら、家の屋根瓦が剥がれるかもしれない。
庭の土も吸い上げられて、更地になってしまう。
「おい! やめろって言ってるだろ!」
俺は叫んだが、巨人は聞く耳を持たない。
ボールを俺——いや、俺の家に向かって投げつけようとしている。
「……話が通じないなら、壊すしかないか」
俺は、右手に握りしめた『スリッパ』を見つめた。
茶色いゴム底。
長年、俺の足元を支えてくれた相棒。
少し踵がすり減っているが、グリップ力と打撃力(硬さ)は十分だ。
「機械ってのはな、調子が悪い時は叩けば直るんだよ」
俺は深く腰を落とした。
巨人の胸板を足場にして、全身のバネを溜める。
狙うは一点。
頭上の黒いボール(ブラックホール)の中心核。
「二度と来るな!!」
俺は跳躍した。
ドンッ!!
巨人の胸板が陥没するほどの踏み込み。
俺の体は砲弾となって空へ舞い上がり、黒いボールの目の前へと肉薄する。
重力が俺を押し潰そうとする。
だが、俺の「筋肉」は、事象の地平線すらねじ伏せる。
「必殺——!!」
俺は右手のスリッパを、鞭のようにしならせて振りかぶった。
手首のスナップ。腰の回転。肩の入ったスイング。
全てが完璧に連動した、渾身の一撃。
「スリッパァァァッ……叩きィィィィッ!!!!」
パァァァァァァァァァァァンッ!!!!
乾いた音が、世界に響いた。
◇ ◇ ◇
——その瞬間。
宇宙の法則が乱れた。
ゴム製のスリッパの底が、ブラックホールの表面に直撃した。
本来なら、スリッパが原子レベルで分解されて終わるはずだ。
だが。
湊の放った一撃には、物理的な運動エネルギーだけでなく、「ここはお前の居場所じゃない(出ていけ)」という、家主としての絶対的な拒絶の意思(概念)が乗っていた。
ピキッ。
黒い球体に、亀裂が走った。
『!?』
王が、声なき叫びを上げる。
馬鹿な。
虚無が。穴が。
物理攻撃で「割れる」だと?
パリーンッ!!
盛大な音がして、ブラックホールがガラス細工のように砕け散った。
圧縮されていたエネルギーが逆流し、行き場を失った衝撃波が、ゼロ距離で王の本体を襲う。
『ガアアアアアアアアッ!?』
スリッパの一撃は止まらない。
ブラックホールを突き破った茶色い流星は、そのまま王の「核」——胸の中央にある赤黒い結晶体へと突き刺さった。
ズドォォォォォォォンッ!!!!
核が粉砕される。
王の存在を維持していた魔力が、霧散する。
『我ハ……終焉……! コ、コンナ……ゴム草履ゴトキニィィィィッ……!』
断末魔。
それが最後の言葉だった。
500メートルの巨体が、光の粒子となって崩れ落ちていく。
S区を覆っていた分厚い雨雲が、衝撃波で円形に吹き飛び、ポッカリと穴が空いた。
そこから差し込むのは——美しい、夜明けの光。
◇ ◇ ◇
スタッ。
瓦礫の上に、湊が着地した。
右足は裸足。
右手には、ボロボロになり、煙を上げるスリッパが握られている。
「ふぅ……。硬い機械だったな」
湊は額の汗を拭った。
目の前では、黒い巨人が朝日の中に溶けて消えていく。
まるで、悪い夢が覚めるように。
「……お? 晴れたか」
湊は空を見上げた。
綺麗な青空だ。
嵐は去った。
「やっと静かになったな。これでゆっくり眠れる」
湊は大きく伸びをした。
世界を救ったという自覚はゼロ。
あるのは、「騒音トラブルを解決した」という達成感だけ。
——その背中を、レイナ、ジャック、剛田の三人が、涙を流しながら見つめていた。
「……神話だ」
「伝説だ」
「……スリッパだ」
彼らは見た。
一人の人間が、履物一つで世界の終わりをひっくり返す瞬間を。
それは、どんな英雄譚よりも荒唐無稽で、どんな奇跡よりも圧倒的な現実だった。
「……あ」
そこで、湊が声を上げた。
彼は、手の中にあるスリッパを見た。
激しい戦い(掃除)の末、ゴムが裂け、鼻緒が切れてしまっていたのだ。
「壊れちゃったよ。お気に入りだったのに」
湊は悲しげに呟いた。
そして、ふと思い出したように、家の窓ガラスを見た。
「……ガラスも割れてるし、スリッパも壊れたし。散々な一日だったな」
彼はため息をつき、壊れたスリッパを放り投げようとして——思いとどまり、ポケットに入れた。
長年の相棒だ。
ちゃんとゴミの日に出してやろう。
「さて、帰って寝よ」
湊は、半壊したベランダ……ではなく、玄関の方へと歩き出した。
その背中は、人類の守護者には見えない。
ただの、疲れた大家さんだった。
こうして。
S区の、そして世界の命運をかけた戦いは、あっけなく幕を閉じた。
だが、物語はまだ終わらない。
湊の「事後処理」——すなわち、壊れたガラスと、世界中からの注目という「代償」をどう支払うかという問題が残っていた。




