第88話:掃除機による殲滅……ではなく? 〜頑固な汚れは叩いて落とす〜
S区・相葉邸の庭。
倒れ伏した巨人『終焉の王』の胸板の上に、俺、相葉湊は着地した。
スタッ。
足裏に伝わる感触は、ブヨブヨとしていて気持ち悪い。
まるで、腐った泥の上を歩いているようだ。
「うわ、靴下が汚れそう……」
俺は顔をしかめた。
サンダル履きとはいえ、隙間から泥が入ってきそうだ。
さっさと用件を済ませて、また風呂に入り直そう。
「おい、起きろ。狸寝入りは通用しないぞ」
俺は、再生しつつある巨人の顔面に向かって声をかけた。
頭部はモヤモヤとした黒い霧が集まり、急速に元の形を取り戻しつつある。
しぶとい奴だ。
『……貴様……』
『……許サヌ……!』
王の体から、怒りの波動が噴き出した。
同時に、俺の足元の「泥」が、ボコボコと沸騰し始める。
ズルッ、ズルルッ……。
巨人の体表から、無数の「黒い手」や「人の顔」が浮かび上がってきたのだ。
それは、王がこれまでに飲み込んできた怨念の集合体であり、王の体を構成する細胞そのもの。
【深淵の泥人形・増殖形態】
数千、数万という泥の眷属が、俺の足を掴もうと這い上がってくる。
『……飲ミ込メ……』
『……同化セヨ……』
王の命令一下。
泥人形たちが津波のように俺に殺到した。
逃げ場はない。全方位からの包囲攻撃だ。
◇ ◇ ◇
——地上、レイナの視点。
「師匠ッ!!」
レイナは悲鳴を上げた。
巨人の上に飛び乗った湊が、黒い泥の奔流に飲み込まれそうになっている。
あれは物理攻撃ではない。
触れた瞬間に精神を汚染し、肉体を腐らせて取り込む「捕食」だ。
「Shit! Get away!(クソッ! 離れろ!)」
ジャックが叫ぶが、今の彼らに援護する力はない。
湊の姿が、黒い波に消えていく——。
◇ ◇ ◇
——湊の視点。
「うわっ、なんだこれ!?」
俺は後ずさった。
足元から、泥だらけの手がいっぱい生えてきた。
しかも、俺のジャージを掴もうとしてくる。
「やめろ! やめろって!」
俺は焦った。
このジャージ、お気に入りなんだぞ。
泥汚れって、洗濯してもなかなか落ちないんだ。
繊維の奥に入り込んだら、漂白剤を使ってもシミが残る。
「くそっ、掃除機を持ってくればよかった!」
俺は舌打ちした。
さっきの泥掃除でバッテリーが切れて、充電器に挿したまま置いてきてしまった。
文明の利器に頼れない今、俺に残された手段は一つ。
——人力。
「へばりつくな! シッ! シッ!」
俺は、右手に持っていた『スリッパ』を構えた。
本来は室内履きだが、適度な硬さと弾力を持つゴム底は、汚れを「叩き出す」のに最適だ。
俺は、迫りくる泥の手に向かって、スリッパを乱れ打った。
パパパパパパパパパパンッ!!!!
高速の連打。
目にも止まらぬスリッパの残像。
布団叩きで培った手首のスナップを応用し、一秒間に百発の打撃を繰り出す。
『ギャアアアアッ!?』
『痛イッ! 痛イッ!』
泥人形たちが悲鳴を上げる。
俺のスリッパがヒットするたびに、泥の腕が弾け飛び、霧散していく。
「寄るな! 汚い! あっち行け!」
俺は必死だった。
ジャージを守るために。
洗濯の手間を省くために。
パンッ! パァン!!
乾いた音が、S区の夜空にリズムよく響き渡る。
右、左、後ろ、足元。
全方位から迫る泥を、俺はスリッパ一本で完璧に迎撃していた。
「布団のホコリも、泥汚れも、叩けば落ちるんだよォッ!!」
俺の気迫(という名の潔癖)が、王の殺意を上回った瞬間だった。
◇ ◇ ◇
——王の視点。
『……ナ、ナゼダ……』
王は戦慄していた。
自分の体の一部である眷属たちが、次々と消滅させられている。
あの「茶色い履物」に叩かれた箇所から、存在を維持する魔力が霧散し、強制的に浄化されているのだ。
魔法ではない。
ただの打撃。
だが、そこには「穢れを払う」という、強烈な意思(概念)が込められている。
『痛イ……熱イ……』
王の巨体が痙攣する。
スリッパで叩かれるたびに、魂が削り取られるような屈辱と激痛が走る。
このままでは、身体が持たない。
『……エエイス……』
王は、泥による物理攻撃を諦めた。
小手先の技では、この人間には通じない。
ならば、残された手段は一つ。
王は、再生した上半身を起こし、両手を天に掲げた。
周囲の空間が、グニャリと歪む。
『……消滅セヨ……』
王の両手の間に、漆黒の球体が生成される。
それは泥でも魔力でもない。
光さえも脱出できない、重力の特異点。
【擬似ブラックホール(ミニチュア・ヴォイド)】
全てを吸い込み、圧壊させる、王の切り札。
◇ ◇ ◇
——湊の視点。
「はぁ、はぁ……。だいぶ片付いたな」
俺はスリッパを止め、周囲を見回した。
群がってきていた泥人形たちは、あらかた弾け飛んで消えていた。
ジャージも無事だ。よかった。
「……ん? なんだあれ」
俺は上を見上げた。
起き上がった巨人が、頭の上で何か黒いボールのようなものを作っている。
バスケットボール?
いや、もっと大きい。バランスボールくらいか。
そのボールの周りだけ、景色が歪んで見える。
そして、猛烈な風が吸い込まれている。
「……掃除機?」
俺は直感した。
あれは、吸引機能だ。
俺がさっき掃除機で吸ったのを根に持って、真似してきたに違いない。
「へぇ、やるじゃん。でもな」
俺はスリッパを構え直した。
ダイソンの吸引力を知っている俺に、そんなパチモンの掃除機が通用すると思うなよ。
「電化製品だろうが何だろうが……」
俺は深く息を吸い込み、腰を落とした。
右手のスリッパに、全身全霊の力を込める。
「調子が悪いなら、叩いて直してやるよ!!」
昭和のテレビを叩いて直す理論。
最強の大家さんは、ブラックホールすらも「物理」で解決するつもりだった。




