第85話:静かにしろと言ったはずだ 〜ハエ叩きは神殺しの杖〜
ザァァァァァ……。
S区・相葉邸の二階。
半壊した壁の向こうから、土煙が晴れていく。
地面に倒れ伏していた銀条レイナは、痛む体を起こし、その光景を目に焼き付けていた。
壁が吹き飛び、剥き出しになった部屋の中。
そこに、一人の男が立っている。
灰色のジャージ。
足元はゴムサンダル。
そして右手には——蛍光ピンクの『100均のハエ叩き』。
どう見ても、日曜日のパパが昼寝中に虫を追い払う姿だ。
だが、その背中から立ち昇るオーラは、終焉の王が放つ漆黒の瘴気さえも弾き返していた。
(……怒っていらっしゃる)
レイナは震えた。
かつて、これほどまでに純粋で、鋭利な殺気を感じたことがあっただろうか。
世界を救うための義憤ではない。
もっと個人的で、根源的な——「俺のテリトリーを荒らすな」という、野生の王としての激怒。
◇ ◇ ◇
——湊の視点。
「……ふぅー、ふぅー」
俺は深呼吸をして、沸騰しそうな怒りを鎮めようと努力した。
だが、無理だった。
足元を見る。
砕け散った窓ガラスの破片。
そして、その破片まみれになった、愛しのチョコミントアイス(の残骸)。
顔を上げる。
目の前には、空を覆い尽くすほどの巨大な黒い顔。
そいつの指先が、まだ俺の部屋の鴨居に食い込んでいる。
現行犯だ。
言い逃れはさせない。
「……おい」
俺は、ハエ叩きの先端を巨人の鼻先 (たぶん)に向けた。
「人の家の窓を割って、土足で……いや、泥手で上がり込むとは、いい度胸だな」
『……貴様……』
巨人の身体から、空気が震えるような重低音が響いた。
言葉?
いや、ただの振動音か。
建材が軋む音かもしれない。
「不法投棄ならよそでやれ。ここはゴミ捨て場じゃない」
俺は一歩、縁まで進み出た。
下を見ると、庭もぐちゃぐちゃだ。
レイナちゃんたちが倒れているのも見える。
また巻き込まれたのか。可哀想に。
「それに、お前のせいでアイスが台無しになった」
俺はハエ叩きを握る手に力を込めた。
プラスチックの柄がミシミシと鳴る。
「3,000円だぞ? ガラス代と合わせたら、いくらになると思ってるんだ?」
請求書を叩きつけてやりたい気分だ。
だが、まずはこのデカブツをどかさないと話にならない。
『……我ガ座……』
『……邪魔ヲ……スルナ……!』
巨人が、大きく仰け反った。
その口(と思われる裂け目)が大きく開き、口腔内に赤黒い光が収束していく。
ブレスだ。
あの時、ポチが吐いていたような火炎放射か?
いや、もっと圧縮された、高密度のエネルギー弾。
「し、師匠ッ!! 避けてくださいッ!!」
下からレイナちゃんの悲鳴が聞こえた。
避ける?
なぜ?
俺の家に向かって吐こうとしてるんだぞ?
避けたら、後ろにある本棚が燃えちゃうじゃないか。
「……させるかよ」
俺は逃げなかった。
仁王立ちのまま、ハエ叩きを構える。
ゴオオオオオオオオオッ!!
巨人の口から、極太の閃光——『終焉の咆哮』が放たれた。
触れた物質を原子崩壊させる、死の光線。
それが、俺の顔面めがけて一直線に迫ってくる。
——だが。
俺の目には、それはただの「黒い煙」に見えていた。
「うわっ、息くっさ!!」
俺は顔をしかめた。
生ゴミとヘドロを混ぜて煮込んだような悪臭。
こんなものを家の中に撒き散らされてたまるか。
「あっち行けッ!!」
俺は、迫りくる煙に向かって、無造作にハエ叩きを横薙ぎにした。
手首のスナップを利かせて。
網目の風圧で、煙を吹き散らすイメージで。
ブンッ!!
ただの素振り。
だが、レベルカンストの腕力と、神話級に進化したハエ叩きのコンビネーションは、物理法則をねじ曲げた。
パァァァァァァァァンッ!!!!
空気が破裂した。
ハエ叩きから生じた衝撃波が、迫りくる極太のブレスと衝突する。
拮抗?
いや。
一方的な蹂躙だ。
ジュゴォォォォッ!!
ブレスが、逆流した。
ハエ叩きの風圧に押し戻され、光線がそのまま巨人の口の中へと押し込まれていく。
『!?』
巨人の目が(ないけど)見開かれた。
自分の最強の攻撃が、プラスチックの棒きれ一本で弾き返された?
ありえない。
理解する間もなく、逆流したエネルギーと、ハエ叩きの衝撃波が、巨人の顔面を直撃した。
ズドォォォォォォォンッ!!!!
S区の空に、二度目の太陽が昇った。
巨人の頭部が、内側から弾け飛び、上半身が大きくのけぞる。
『ガアアアアアアアッ!?(痛イッ! 痛イィィィッ!)』
断末魔の悲鳴。
巨体バランスを崩し、ドシーンと庭の向こうの廃ビル群へ倒れ込む。
「……ふん」
俺はハエ叩きを振って、煤を払った。
「口臭ケアくらいしてから出直してこい」
俺は冷たく言い放った。
だが、まだ終わらない。
こいつには、ガラス代とアイス代を払ってもらうまでは、帰さない。
「おい、寝てんじゃねぇぞ」
俺はベランダから飛び降りた。
フワッ。
重力を感じさせない着地(※実際には空気の足場を作っている)。
俺は、倒れた巨人の元へと歩み寄った。
右手にハエ叩き。
左手には、請求書代わりのレシート(心の目)。
——人類最強の取り立て屋が、神を追い詰める。
◇ ◇ ◇
その光景を、衛星軌道上の監視カメラが見ていた。
「……Target silenced. Breath attack... reflected.(目標沈黙。ブレス攻撃……反射されました)」
アメリカ国防総省のオペレーターが、震える声で告げた。
「Weapon used?(使用された兵器は?)」
「...Pink plastic flyswatter.(……ピンク色の、プラスチック製ハエ叩きです)」
司令室が静まり返る。
誰も言葉を発せない。
神話の怪物が、ハエ叩きでシバかれて撃墜されたのだ。
「Update threat level... again.(脅威レベルを更新しろ……再度だ)」
長官が呻く。
日本のS区には、魔王すら裸足で逃げ出す「大家さん」が住んでいる。




