第83話:ポチ、散る(気絶) 〜番犬の矜持と、勘違いの飼い主〜
『ワオオオオオオオオオオオッ!!』
S区・相葉邸の庭。
天を衝く巨体『終焉の王』の前に、一匹の小さな影が立ちはだかっていた。
ポチだ。
主が大切にしている庭を、そして主の安眠を守るため、小さなチワワが決死の覚悟を決めたのだ。
ブワッ!!
ポチの影が、爆発的に膨れ上がった。
可愛らしい愛玩動物の姿が崩れ、本来の姿——冥界の番犬としての真の姿が顕現する。
体高50メートル。
三つの首を持ち、全身から地獄の黒炎を噴き上げる魔獣。
Sランクの『レッド・ベア』ですら逃げ出す、食物連鎖の頂点。
「す、すごい……!」
地面に伏していた銀条レイナが、息を呑んで見上げる。
これなら、あるいは——!
『ガァァァァッ!!(消エ失セロ、偽リノ王ヨ!)』
ポチが咆哮し、地面を蹴った。
その巨体が砲弾となって、終焉の王に突撃する。
三つの口が大きく開かれ、王の腕、肩、喉元へと同時に食らいついた。
ガブゥッ!!
牙が突き刺さる。
同時に、口内からゼロ距離で『煉獄の炎』を炸裂させる。
山脈すら溶かす超高熱が、王の体を焼く。
——だが。
『……虫ガ……』
王は、痛痒すら感じていなかった。
その身体は「虚無」そのもの。
炎も牙も、空を切るように透過し、ダメージを与えることができない。
『……邪魔ダ……』
王が、ポチの首元を無造作に掴んだ。
巨大な手が、ケルベロスの巨体をまるでぬいぐるみのように持ち上げる。
『キャインッ!?』
ポチが悲鳴を上げる。
抵抗しようと爪を立てるが、王の腕力は次元が違った。
ブォンッ!!
王が腕を振るった。
ただの裏拳。
だが、その一撃は、ポチの巨体を音速で弾き飛ばした。
ズガァァァァァァァァンッ!!!!
ポチの体が、裏山(サンダルで穴が空いた山)の岩盤に叩きつけられた。
凄まじい衝撃音が響き渡り、土砂崩れが発生する。
ガラガラと崩れる岩石の下で、黒い煙が晴れていく。
そこには、魔力切れで元の姿——手のひらサイズのチワワに戻ったポチが、白目を剥いてピクピクと痙攣していた。
「あ……あぁ……」
レイナの顔から血の気が引いた。
負けた。
あの守護獣様ですら、一撃で。
ポチは気絶している。
幸い、主から与えられた餌(ドラゴン肉)による超回復力のおかげで命に別状はないようだが、戦闘不能は明らかだ。
「終わった……。もう、誰も止められない……」
レイナは絶望した。
ジャックも剛田も、既に意識がない。
最後の砦が崩れ去った今、この聖域を守る者は誰もいない。
『……返セ……』
王が、再び相葉邸に向き直る。
その巨大な手が、ゆっくりと、確実に、家の屋根へと伸ばされた。
◇ ◇ ◇
——家の中、二階の自室。
ドガァァァァン!!
家全体が激しく揺れた。
棚のフィギュアが倒れそうになり、俺は慌てて手で支えた。
「うおっ! びっくりした!」
俺、相葉湊は、心臓を押さえた。
今の音、なんだ?
雷が近くに落ちたのか?
「……ポチ?」
さっきまで外で吠えていたポチの声が聞こえなくなった。
まさか、雷に驚いてどこかに隠れたのか?
「可哀想に。雷が苦手なんだな」
俺は窓の方を見た。
カーテンの向こうで、ピカッと光った気がする。
やっぱり雷雨だ。
S区の天気は荒れ模様らしい。
「よしよし、あとで高いおやつ(ビーフジャーキー)をあげよう」
俺は気を取り直して、テーブルに向き直った。
そこには、完全に溶けきってスープ状になったチョコミントアイスがある。
「はぁ……。これ、どうやって食べよう」
スプーンですくってもこぼれ落ちるだけだ。
コップに移して飲むか?
いや、それはアイスへの冒涜だ。
「……誰のせいだ?」
俺の中で、ふつふつと怒りが再燃する。
停電さえなければ。
冷蔵庫さえ動いていれば。
ミシッ、ミシシッ……。
家の柱がきしむ音がする。
外からの圧力が強まっている気がする。
風圧だろうか。
「うるさいなぁ、もう!」
俺はスプーンを握りしめた。
我慢の限界だ。
さっきは居留守を使ったが、こうもうるさいと文句の一つも言いたくなる。
「……ちょっと、空気入れ替えるか」
俺は立ち上がった。
蒸し暑い部屋の空気を換気するついでに、外の様子を見てこよう。
もし工事の人がまだやっているなら、一言注意してやる。
俺は窓に近づいた。
カーテンに手をかける。
——その時。
俺の目の前で、事態は最悪の展開を迎えた。
バリーンッ!!!!
鋭い破砕音が響いた。
俺の部屋の窓ガラスが、外からの衝撃で粉々に砕け散ったのだ。
飛び散るガラス片。
吹き込む暴風と土埃。
そして、テーブルの上の「溶けたアイス」の中に、キラキラと光るガラスの破片が混入した。
「…………あ」
俺の時間が止まった。
アイスが。
俺のなけなしの癒やしが。
食べられなくなった。
俺の視界が、怒りで赤く染まる。
もはや、恐怖も、コミュ障も関係ない。
許さない。
俺は、ガラス片の混じったアイスのカップを睨みつけ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、終焉の王すら裸足で逃げ出すほどの、底なしの怨念が宿っていた。




