第76話:ポチが吠える日 〜その穴掘り、封印につき〜
S区・相葉邸。
世界を震撼させた「窓拭き事件(ラスボスの指先消滅)」から一夜明けた朝。
俺、相葉湊は、不穏な空気を感じ取っていた。
「……おかしい」
リビングのソファに座り、コーヒーを啜りながら、俺は足元を見た。
いつもなら、俺が起きると同時に尻尾をブンブン振って、「遊んで! 撫でて! 飯くれ!」とじゃれついてくる愛犬・ポチ(チワワ)が、今朝は寄り付きもしないのだ。
ポチは、掃き出し窓のガラスにへばりつくようにして、庭の一点を凝視している。
『ガルルルルル……ッ!!』
喉の奥から絞り出すような、低く、重い唸り声。
背中の毛は逆立ち、小さな体からピリピリとした静電気が発生している。
「どうした、ポチ? そんなに窓が汚れてるか?」
俺は声をかけた。
昨日の「黒い泥汚れ」は綺麗に拭き取ったはずだ。
またナメクジでも出たのか?
俺が近づくと、ポチはバッとこちらを振り向き、必死の形相で吠えた。
『ワンッ! ワンワンッ!!(来るな主! ここは危険だ!)』
「うるさいなぁ。ご近所迷惑だぞ」
俺は窓を開けた。
ムワッとした熱気が流れ込んでくる。
庭の芝生は、昨日の地割れと、俺がサンダルを投げた時の衝撃でボコボコになっていた。
特に、ポチが睨んでいる中心部には、まだ埋まりきっていない「亀裂」が口を開けている。
その亀裂から、赤黒い陽炎のようなものが立ち上っていた。
「あー……。まだ直ってなかったか」
俺は腕組みをした。
昨日の今日だ。
地面が陥没して、ガス管か何かが漏れてるのかもしれない。
いや、S区にガスは通ってないから、温泉の湯気か?
「ポチは、ここが気になるのか?」
俺がサンダルを履いて庭に出ようとすると、ポチが慌てて俺のズボンの裾を噛んで引っ張った。
『クゥ〜ン!!(ダメだ! 行くな!)』
必死だ。
涙目になっている。
「……ははーん。分かったぞ」
俺はポンと手を打った。
「お前、ここに『おやつ』を埋めたな?」
犬の習性だ。
大事なものを土に埋めて隠すやつ。
ポチは、俺にへそくりを見つけられると思って焦っているに違いない。
「大丈夫だよ、取ったりしないから。……でも、穴が開いたままだと危ないからなぁ」
俺は物置からスコップを取り出した。
DIYの時間だ。
この穴を埋めて、平らにしてやろう。
ポチが「ヒィッ!?」という顔をして後ずさる。
◇ ◇ ◇
——ポチ(ケルベロス)の視点。
(主よ……! 何を勘違いしているのですか!)
ポチは戦慄していた。
目の前の亀裂は、ただの穴ではない。
地下深くに封印された『終焉の王』が、地上へ出るためにこじ開けた**「地獄の門」**の綻びだ。
そこから漏れ出る瘴気は、Sランクの魔物すら即死させる猛毒。
ポチは必死に結界を張って、その毒が家に入らないようにしていたのだ。
(それを……スコップで掘り返すおつもりか!?)
刺激してはならない。
今、この均衡はギリギリで保たれている。
主の強大な魔力が干渉すれば、封印が一気に砕け散り、王が完全復活してしまう!
『ワンッ! ワンワンッ!!(やめて! 世界が終わる!)』
ポチは必死に止めた。
だが、主はニコニコしながら、スコップを構えた。
「よっこいしょ」
ザクッ。
主が、庭の土を掘り返す。
そして、その土を亀裂の上へと被せていく。
「埋めて、埋めて……」
ドサッ、ドサッ。
土が亀裂を覆っていく。
地下からは**『グオオオオオ……(出セェェ……)』**という怨嗟の声が響いているが、主には風の音にしか聞こえていないようだ。
「よし。土は被せた。あとは固めないとな」
主が、片足を上げた。
サンダル履きの右足。
かつて、Sランクモンスターをデコピンで消滅させた、あの足だ。
(ま、まさか……踏む気か!?)
ポチは目を覆った。
主の「踏みつけ」。
それは、大陸プレートを揺るがすごとき質量兵器。
そんなことをすれば、封印ごと地面が砕け散る——。
「えいっ」
ドォォォォォォォォォォォンッ!!!!
世界が揺れた。
S区全体が、震度6相当の縦揺れに見舞われた。
——だが。
ポチの予想とは裏腹に、地面は割れなかった。
『ギャアアアアアアアッ!?(痛ェェェェッ!!)』
地下から、王の断末魔の悲鳴が聞こえた。
主の踏みつけによって発生した衝撃波が、亀裂を通じて地下へ一直線に伝わり、這い上がろうとしていた王の顔面を直撃したのだ。
さらに、踏み固められた土は、主の魔力によって**「アダマンタイト以上の硬度を持つ蓋」**へと変質していた。
【物理封印:完了】
漏れ出していた瘴気が、ピタリと止まる。
赤黒かった空気が、一瞬で浄化される。
「ふぅ。こんなもんか」
主は、ペタペタと地面を踏み鳴らし、満足げに額の汗を拭った。
「綺麗になったな。これでつまづく心配もない」
ポチは、口をあんぐりと開けていた。
神話級の封印術式(物理)。
主は、DIYのついでに、世界の崩壊を「踏み止めた」のだ。
「どうしたポチ? 安心したか?」
主が屈託のない笑顔で撫でてくる。
ポチは、へなへなと座り込んだ。
勝てない。
このお方には、逆立ちしても勝てない。
『クゥ〜ン……(一生ついていきます)』
ポチは主に腹を見せ、絶対服従のポーズをとった。
◇ ◇ ◇
——家の中。
その一部始終を、窓越しに見ていた人物がいた。
家政婦として住み込み中の、銀条レイナだ。
彼女は、フライパンを持ったまま石化していた。
「……今、師匠は……」
彼女の『真眼』には見えていた。
湊が足を踏み下ろした瞬間、庭全体に黄金の幾何学模様(魔法陣)が展開され、地下の悪意を物理的に圧殺した光景が。
「大地の怒りを、足裏ひとつで鎮められた……?」
レイナは震えた。
あれは、「鎮魂」の儀式だ。
荒ぶる土地神を、自らの覇気でねじ伏せ、従わせる。
古の皇帝が行ったとされる「国生み」の神業そのものだ。
「朝飯前の運動が、世界救済……。やはり師匠は、規格外です」
レイナは感動のあまり、フライパンの上の目玉焼きを焦がしかけた。
◇ ◇ ◇
「ただいまー。いい運動になった」
湊がリビングに戻ってくる。
その顔は晴れやかだ。
「レイナちゃん、朝ごはんまだ? 腹減ったよ」
「は、はいっ! 今すぐに!」
平和な朝食の時間が始まる。
だが、湊の「封印(物理)」は、あくまで一時的なものに過ぎなかった。
テレビのニュース速報が、不穏なチャイムを鳴らす。
『緊急速報です。先ほど、S区直下を震源とする局地的な地震が発生しました』
『これに伴い、世界各地のダンジョン活性化指数が、計測不能レベルまで上昇しています』
湊が蓋をしたことで、行き場を失った地下のエネルギーが、世界中の他のダンジョンへと逆流し始めたのだ。
それは、さらなる大規模な「世界同時スタンピード」の引き金となる。
「ん? また地震か? 最近多いなぁ」
湊はトーストをかじりながら、他人事のようにテレビを見ていた。
自分の足踏みが地球を揺らしたことなど、微塵も気づかずに。
平穏な日常の崩壊は、もうそこまで迫っていた。
次に起こるのは——「ライフラインの断絶」という、引きこもりにとっての本当の地獄だ。




