第73話:ポチの警戒 〜悪食の番犬が、飯を食わない〜
S区・相葉邸に、賑やかな朝が訪れた。
「師匠、おはようございます! 朝食のご用意ができております!」
エプロン姿の銀条レイナちゃんが、元気よく挨拶してくる。
テーブルには、焼きたてのパン(世界樹酵母使用)と、彩り豊かなサラダ、そしてふわふわのスクランブルエッグが並んでいる。
「おはよう、レイナちゃん。……最高だ」
俺、相葉湊は、感動に打ち震えながら席に着いた。
これまでは「カップ麺にお湯を入れる」のが朝の重労働だったのに、これからは座っているだけで三ツ星ホテルの朝食が出てくるのだ。
家政婦(Sランク探索者)を雇って本当によかった。
「いただきまーす」
俺はパンをかじった。美味い。
コーヒーを啜る。香りが違う。
これが、QOLの向上というやつか。
「……あれ?」
ふと、足元に違和感を覚えた。
いつもなら、俺が食事を始めると、愛犬のポチが「僕にもくれ!」と足元でジャンプしたり、ズボンの裾を引っ張ったりしてくるはずだ。
だが、今日は静かだ。
「ポチ? どうした? ご飯だぞ」
俺は、部屋の隅にある専用の餌皿を見た。
そこには、レイナちゃんが用意した『特上骨付き肉』が、手付かずのまま残されている。
「……食べない?」
俺は首を傾げた。
ポチといえば、ドラゴンの骨はおろか、敵の偵察ドローン(金属)までバリバリと食べる悪食……いや、健啖家だ。
そのポチが、大好物の肉を残すなんて。
視線を追うと、ポチはリビングの掃き出し窓の前に座り込み、じっと庭の方を睨みつけていた。
『グルルルル…………』
喉の奥から、低く、重い唸り声を上げている。
その背中の毛は逆立ち、尻尾はピンと張っている。
完全に、警戒モードだ。
「どうしたんだ、ポチ」
俺はパンを置いて、ポチのそばにしゃがみ込んだ。
「お腹痛いのか? 昨日、変なもの拾い食いしたか?」
そういえば、ここ数日、庭に変な虫や、変な泥が湧いていた。
あいつ、俺が見てないところでつまみ食いしてたからなぁ。
金属とか消化に悪そうだし、胃もたれでもしてるのかもしれない。
『ワンッ!(違う! 来るぞ!)』
ポチが短く吠え、鼻先で窓ガラスをツンツンとつついた。
その先にあるのは、庭の芝生……の真ん中に残る、小さな亀裂。
先日、黒い巨人が出てきた穴だ。
俺が雑巾掛けのついでに埋め戻しておいたはずだが、また少し開いているような?
「……あー、モグラか?」
俺は推測した。
地面の下にモグラがいて、その気配に興奮してるんじゃないか?
犬って、地面の下の音に敏感って言うし。
「大丈夫だよポチ。モグラくらい、放っておけばいいさ」
俺はポチの頭を撫でようとした。
だが、ポチは頑として動かず、唸り声を上げ続けている。
体温が高い。
小刻みに震えている。
「……熱があるな」
俺は心配になった。
これは、ただの興奮じゃない。体調不良だ。
ペットの不調は飼い主の責任だ。
「レイナちゃん。この辺に、動物病院ってあったっけ?」
俺が振り返ると、片付けをしていたレイナちゃんが手を止めた。
彼女の表情もまた、険しいものに変わっていた。
「……動物病院、ですか?」
「うん。ポチの様子がおかしいんだ。なんか怯えてるっていうか、殺気立ってるっていうか」
レイナちゃんは、ゆっくりとポチに近づき、その視線の先——庭の亀裂を見つめた。
「……いえ、師匠。これは病気ではありません」
レイナちゃんの声が、少し低くなる。
「守護獣様は、感じ取っておられるのです。この大地の底から響く、不協和音を」
「不協和音?」
「はい。魔素の流れが……異常です。空気が、重い」
レイナちゃんが胸を押さえる。
言われてみれば、なんとなく部屋の気圧が下がったような気がする。
耳がキーンとするような、台風の前のような感覚。
「気圧のせいかな? 『頭痛ーる』見たら爆弾低気圧だったし」
俺はスマホの天気アプリを確認した。
気圧グラフが急降下している。
「なんだ、やっぱり天気のせいか。ポチは敏感なんだな」
俺は納得した。
動物は地震や雷を予知するって言うし、低気圧で不調になるのも人間と一緒だ。
「よしよし、辛いよな。今日はゆっくり寝てろ」
俺はポチを抱き上げようとした。
だが、ポチは踏ん張って動こうとしない。
『ガウッ! (離れろ主! ここを離れるわけにはいかない!)』
ポチの瞳は真剣だった。
自分がここを退けば、主の平穏が脅かされる。
その小さな体で、必死に「蓋」になろうとしているのだ。
「……頑固だなぁ」
俺は苦笑いして、手を離した。
番犬としてのプライドがあるのかもしれない。
モグラごときにムキにならなくてもいいのに。
「分かったよ。気が済むまで見張ってていいぞ」
俺は諦めて、ソファに戻った。
レイナちゃんが、不安そうにポチと庭を交互に見ている。
「師匠……。念のため、ギルドに問い合わせてみましょうか? 地殻変動の予兆かもしれません」
「大げさだなぁ。まあ、気になるなら調べてみて」
俺は軽く許可を出した。
どうせ、ちょっとした地震の前触れだろう。
この家は耐震構造もしっかりしてる(はずだ)し、心配ない。
——だが。
俺の楽観を嘲笑うかのように、事態は急速に悪化しようとしていた。
ズズン……。
微かな振動。
コップの水面に、波紋が広がる。
「お、揺れた?」
俺が顔を上げた、その時。
リビングのテレビが、突然緊急速報のチャイムを鳴らした。
『緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください』
『震源地は、東京、S区……』
「えっ、ここ?」
ニュースキャスターの声が、裏返っていた。
『ただいま、世界各地の観測所より、同時多発的な異常振動が報告されています!』
『ニューヨーク、ロンドン、パリ……世界中のダンジョンが一斉に活性化しています!』
画面に映し出される世界地図。
その全ての大陸に、赤いアラートマークが点灯していく。
ポチが、天に向かって遠吠えを上げた。
『ワオオオオオオオオオオオッ!!』
それは、野生の獣が仲間に危険を知らせる合図。
あるいは、来るべき「終わりの時」への開戦の狼煙。
俺たちの平和な朝食の時間は、唐突に終わりを告げようとしていた。




