第65話:言葉の壁と、認識の壁(再) 〜ナメクジには塩が効く〜
S区・相葉邸の二階。
俺、相葉湊は、PCデスクから立ち上がり、窓ガラスにへばりついている「それ」を凝視していた。
「……うわぁ、気持ち悪っ」
大きさは人間くらいあるだろうか。
真っ黒で、ヌメヌメしていて、不定形な泥の塊。
それが窓ガラスにベッタリと張り付き、這いずり回っている。
俺の脳内データベースが、瞬時に検索結果を弾き出した。
【検索結果:巨大ナメクジ(S区変異種)】
「雨上がりだからか? にしてもデカすぎだろ……」
S区の自然環境は豊かすぎる。
先日は巨大な蛾が出たし、今日はナメクジだ。
このまま放置しておくと、隙間から侵入されて部屋が粘液まみれになるかもしれない。
「駆除、するか」
俺はヘッドホンを外し、ボイスチャットに向かって言った。
「ソーリー、ジャック。部屋にバグ(虫)が出たから、ちょっと退治してくる」
『Bug? OK, Master. Be careful.(虫? 分かった。気をつけてくれ)』
ジャックさんが心配そうに答える。優しい人だ。
俺はヘッドセットを置き、洗面所へと走った。
ナメクジの弱点。それは古来より決まっている。
俺は棚から「盛り塩」の残りを掴んで戻ってきた。
【聖印の浄化塩】
【残弾数:小皿一杯分】
「ふふふ……。塩分濃度で脱水してやるぜ」
俺は窓の鍵を開けた。
ナメクジ(泥人形)が、ビクッと反応したように蠢く。
ガラッ!!
俺は素早く窓を開け、網戸越しに塩をぶちまけた。
「くらえ! 浸透圧アタック!!」
バサァッ!!
真っ白な結晶が、黒い粘液の体に降り注ぐ。
その瞬間。
ジュワアアアアアアアアッ!!!!
ナメクジの体が、まるで熱したフライパンに水をかけたように激しく沸騰した。
白い煙が上がり、強烈な閃光が走る。
『ギャアアアアアアアアッ!?(浄化サレルゥゥゥッ!!)』
断末魔のような音がした気がしたが、俺は「空気が抜ける音かな?」と解釈した。
黒い泥は、塩に触れた部分から急速に乾燥し、白く風化してボロボロと崩れ落ちていく。
「おぉ……。すごい効き目だ」
俺は感心した。
やっぱり昔の人の知恵は偉大だ。
ナメクジはあっという間に砂のようになり、風にさらわれて消滅した。
「よし、駆除完了」
俺は窓のサッシに残った塩を払い、再び窓を閉めた。
手についた塩を払いながら、PCの前へと戻る。
「ただいまー。処理完了」
『Welcome back. Was it a big bug?(おかえり。デカい虫だったか?)』
「うん、超デカいナメクジ(Slug)。塩かけたら溶けたよ」
『Hahaha! Salt is strong weapon!(ハハハ! 塩は最強の武器だな!)』
俺たちは笑い合い、再び戦場へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
——その頃。S区の境界線、監視所。
「な、なんだ今の光は!?」
双眼鏡を覗いていた観測員が、悲鳴を上げた。
相葉邸の二階から、突如として神々しい閃光が放たれたのだ。
モニターの数値が異常な値を叩き出す。
「せ、聖属性エネルギー反応! 数値計測不能!」
「窓に張り付いていた『深淵の泥人形(Aランク)』が、一瞬で消滅しました!」
「物理攻撃ではありません! あれは……『存在の浄化』です!」
指揮官がガタガタと震えだした。
Aランクの魔物は、戦車砲でも倒せない怪物だ。
それを、窓から身を乗り出して「何か」を振りかけただけで、この世から消し去った?
「彼は……一体何を使ったんだ?」
「か、解析班によると……成分は『塩化ナトリウム』に近い反応が……」
「塩だと!? ふざけるな! 塩で悪魔が祓えるなら、教会はいらんわ!」
指揮官は怒鳴ったが、事実は動かない。
あの家に住む男は、調味料で怪物を殺せるのだ。
「……だが、マズいぞ」
指揮官は、モニターの広域レーダーを見た。
泥人形は、まだ数千体残っている。
そして、それらが互いに融合し、より巨大な「何か」になろうとしている。
「奴ら、個体での侵入は不可能と悟ったか……。融合して、家ごと飲み込むつもりだ!」
ズズズズズズ……ッ!
相葉邸の庭で、黒い泥が渦を巻き始めた。
ポチの炎も、植物の棘も、もはや効かない。
泥は津波のように膨れ上がり、家の屋根よりも高くそびえ立った。
【融合魔獣:ギガ・スライム(泥)】
推定ランク:S+。
それは、S区の廃墟を飲み込みかねない、質量の暴力だった。
◇ ◇ ◇
家の中。
「ん? なんか部屋が暗くなったな」
俺はふと、モニターから目を離した。
窓の外が真っ暗だ。
さっきまで雷が光っていたのに、今は漆黒の壁のようなものが窓を覆っている。
「……雨戸、閉まってたっけ?」
いや、閉めていない。
じゃあ、なんだ?
ミシッ、ミシシッ……。
家全体が軋む音がする。
まるで、巨大な蛇に締め上げられているような。
「……ジャック、ちょっと待って」
俺はゲームの手を止めた。
嫌な予感がする。
これは、ただの自然現象じゃない。
その時。
バチッ、という音と共に、部屋の電気が消えた。
PCのモニターも、プンッといってブラックアウトする。
「あ」
静寂。
暗闇。
Wi-Fiのルーターのランプも消えている。
「停電……?」
俺は呆然とした。
いいところだったのに。
あとワンキルで勝利だったのに。
俺の中で、ナメクジの時とは比べ物にならない怒りが込み上げてきた。
ゲームを中断されること。
それは、ゲーマーにとって最も許されざる大罪だ。
「……誰だ」
俺は立ち上がった。
暗闇の中で、俺の目が(魔力で)青白く光る。
「俺の回線を切ったのは、どこのどいつだ……!」
外を覆う「黒い壁」。
それが原因であることは明白だ。
電線を切ったのか、電波を遮断したのか。
どちらにせよ、万死に値する。
「掃除だ。大掃除の時間だ」
俺は、部屋の隅に立て掛けてあった『ダイソン(掃除機)』を掴んだ。
もう手加減はしない。
ジャックさんとの戦いで充電は減っているが、マックスパワーで吸い尽くしてやる。
俺は窓の鍵に手をかけた。
ガララララッ!!
窓を開けると、そこには家の壁にへばりつく、山のような泥の壁があった。
生臭い。汚い。そしてデカい。
「汚ねぇんだよッ!!」
俺は掃除機のスイッチを入れた。
キュイイイイイイイイイイイッ!!
最強の吸引力が、S区の夜に唸りを上げた。




