第60話:深淵からの呼び声 〜窓ガラスの泥汚れは許さない〜
深夜。
S区の庭、その地盤が悲鳴を上げていた。
ズズズズズ……ッ!
不気味な地響き。
犬小屋の前で、ポチ(ケルベロス)は四肢を踏ん張り、地面を睨みつけていた。
その背中の毛は逆立ち、三つの口からは低い唸り声が漏れている。
『ガルルル……(出ルナ……! 主ノ眠リヲ妨ゲルナ……!)』
ポチの本能が告げている。
今、地下から這い上がろうとしている「モノ」は、今までのお客さん(魔物)とは格が違う。
かつて神話の時代に世界を終わらせかけた、災厄の王。
その封印が、先日の「サンダル・インパクト」の衝撃で緩み、ついに解かれようとしているのだ。
ミシッ、メリッ。
アスファルトに亀裂が走る。
そこから漏れ出す瘴気は、触れた草木を一瞬で枯死させるほどの猛毒だ。
『ワンッ!!(主ヨ! 起キテクレ!)』
ポチは必死に吠えた。
普段なら、この声で主は目を覚ますはずだ。
「うるさいぞポチ」と窓を開けてくれるはずだ。
だが。
二階の窓は閉ざされたままだ。
カーテンの隙間からは、安らかな寝息のような静寂しか感じられない。
——主は今、最高級の『ノイズキャンセリング・ヘッドホン』を装着して爆睡中だった。
『クゥ〜ン……(詰ンダ……)』
ポチは絶望した。
こうなれば、自分が食い止めるしかない。
ポチは本来の姿(巨獣)に戻り、亀裂の上に覆いかぶさった。
その体温(地獄の業火)で、這い出る瘴気を焼き払うために。
◇ ◇ ◇
翌朝。
世界はパニックに包まれていた。
【緊急速報:世界同時多発地震】
【各地のダンジョン活性化! スタンピードの予兆か】
【震源地は日本・S区と断定】
テレビのニュースキャスターが、青ざめた顔で原稿を読んでいる。
パリ、ロンドン、ニューヨーク。
世界中の主要都市にあるダンジョンから、魔物が溢れ出しそうな気配を見せている。
空は赤く染まり、太陽が薄暗く翳っている。
それは、まさに「終わりの始まり」。
——だが。
その震源地であるS区・相葉邸の二階では。
「ん〜……。よく寝た」
俺、相葉湊は、爽やかに目覚めていた。
ヘッドホンのおかげで、昨夜の不気味な音は一切聞こえなかった。
文明の利器に感謝だ。
「あれ? なんか外、暗いな」
俺はヘッドホンを外し、カーテンを開けた。
空が赤い。
雲が渦を巻いている。
「うわぁ、すごい夕焼け……いや、朝焼けか? 天気悪いなぁ」
低気圧だろうか。
今日は洗濯物を干すのはやめておこう。
「ポチー、ご飯だぞー」
俺は一階に降り、リビングの窓から庭のポチに声をかけた。
いつもなら、尻尾を振って飛んでくるはずだ。
だが、ポチは動かなかった。
庭の真ん中で、地面に伏せたままピクリともしない。
心なしか、黒い毛並みが白っぽく(灰まみれに)なっている。
「……ん? どうした? 夏バテか?」
俺は心配になった。
昨日の夜、なんか吠えてたし、寝不足なのかな。
後で高級なジャーキーでもあげて、精をつけてやろう。
とりあえず、自分の朝食だ。
俺はキッチンでトーストを焼き、コーヒーを淹れた。
フィギュアのアリスちゃんが、角砂糖を運んでくれる。
「ありがとうアリス。……ん?」
アリスが、窓の外を指差して、プルプルと震えている。
小さなプラスチックの顔が、恐怖に引きつっているように見えた。
「どうしたの? 虫でもいた?」
俺はアリスの指差す方——庭側の掃き出し窓を見た。
そこには。
信じられないものが映っていた。
ズズズズズ……ッ!!
庭の地面が、大きく盛り上がっていた。
いや、割れている。
巨大な亀裂から、真っ黒な泥のようなものが噴き出し、それが「形」を成していく。
それは——「手」だった。
大きさは軽自動車くらいあるだろうか。
漆黒の、巨大な腕。
それが地面からニョキッと生えて、我が家のベランダの柱を掴んでいたのだ。
ミシィッ……!
柱が悲鳴を上げる。
黒い指先が、窓ガラスに触れる。
ベチャッ。
ガラスに、どす黒い泥汚れが付着した。
「…………」
俺はトーストをかじったまま、固まった。
思考が停止する。
なんだあれ。
黒い手。デカい。泥だらけ。
数秒のフリーズの後、俺の脳が導き出した結論は——。
「……モグラ?」
いや、デカすぎる。
じゃあ、タケノコ?
この時期に? 黒いタケノコ?
いや、違う。
問題はそこじゃない。
「おい……」
俺はトーストを皿に置いた。
眉間にシワが寄る。
「ふざけんなよ……」
俺は窓に近づいた。
ガラス越しに、その「黒い手」を睨みつける。
「昨日、アリスと一緒にピカピカに窓拭きしたばっかりなんだぞ!!」
ベチャッ、ベチャッ。
手は、さらに上へ這い上がろうとして、ガラスに新たな泥汚れを擦り付けていく。
許せない。
ガラス掃除の苦労を知らないのか、この不法侵入者は。
「いい加減にしろ!!」
俺は激昂し、窓の鍵を開けた。
逃げる? 隠れる?
違う。
文句を言って、汚れを拭かせなきゃ気がすまない!
ガラララッ!!
俺は勢いよく窓を開け放った。
生温かい腐臭を含んだ風が、部屋の中に吹き込んでくる。
「おいコラ! 人の家の窓に何して——」
俺が怒鳴ろうとした瞬間。
黒い腕の主が、亀裂から顔を出した。
『……オ……オオオオオ……』
地面から現れたのは、巨大な影の巨人。
その顔には目も鼻もなく、ただ「虚無」だけが広がっていた。
世界を終わらせるもの。
終焉の王。
その圧倒的な威圧感の前に、俺は——。
「……うわ、臭っ」
鼻をつまんだ。
生ゴミの臭いだ。
こいつ、風呂入ってないな?
「泥だらけだし、臭いし……。上がり込む気なら、まず足(手)を洗ってこい!」
俺は巨人の指先(窓枠にかかっている部分)を、ペシッと叩いた。
パァンッ!!
ただの平手打ち。
だが、その衝撃は巨人の腕を伝わり、本体へと突き抜けた。
『!?』
巨人の動きが止まる。
世界を絶望に陥れるはずの魔王が、寝起きのエプロン姿の青年に「はたかれた」ことに驚愕しているのだ。
「聞こえないのか? 汚い手で触るなと言ってるんだ」
俺は雑巾(使い古したタオル)を手に取り、窓枠をゴシゴシと拭き始めた。
巨人の目の前で。
「全くもう……。S区はマナーの悪いのが多すぎる」
最強の引きこもりによる、世界一理不尽な「門前払い」が始まった瞬間だった。




