第37話:レイナへの脅迫 〜それは『警告』ではなく『慈悲』〜
S区に夜の帳が下りる少し前。
隣町の繁華街、その裏路地に、一人の少女の姿があった。
銀条レイナ。
彼女は今、スーパーの袋を抱えてご機嫌だった。
中身は、師匠への差し入れ用の高級茶葉と、ポチ(ケルベロス)用のおやつ(最高級ビーフジャーキー)だ。
「ふふっ。師匠、喜んでくれるかしら」
最近の彼女の日課は、湊の家の近くまで行き、結界の邪魔にならない場所にそっと貢物を置いて帰ることだ(※完全に野良猫への餌やり感覚だが、本人は神への奉納だと思っている)。
だが。
その浮足立った足を、無粋な影が遮った。
「よう、銀条レイナ。いいご身分だな」
ドカカッ。
路地の前後を塞ぐように、屈強な男たちが現れた。
全員が武装し、殺気を隠そうともしない。
その中心から、スキンヘッドに蛇の刺青を入れた巨漢——『蛇の牙』のリーダー、木戸が歩み出てきた。
「……何の用ですか?」
レイナの表情から笑みが消える。
瞬時に戦乙女の顔になり、殺気立つ男たちを冷たく見回した。
「用があるのはテメェじゃねぇ。テメェが飼ってる『飼い主』の方だ」
木戸がニヤニヤと笑いながら近づく。
「単刀直入に言おう。S区の廃墟に住んでる、あのジャージの男……相葉湊の情報を吐け」
「家の構造、トラップの位置、そして隠し財産のありか。全部だ」
「…………」
レイナは溜息をついた。
やはり、嗅ぎつけてきたか。
あのゴミ出し騒動で、師匠の存在に気づいたハイエナたちがいることは予想していた。
「お断りします」
レイナは即答した。
「それに、貴方たちのためを思って忠告します。あの方には関わらない方がいい」
「ああん? 俺たちのためだぁ?」
木戸が眉をひそめ、大袈裟に肩をすくめた。
「ナメられたもんだな。俺たち『蛇の牙』を、そこらのチンピラと一緒にするなよ? 俺たちはS区の魔物だって狩れる精鋭揃いだ」
「それに……断ればどうなるか、分かってるよな?」
木戸が指をパチンと鳴らす。
部下の一人が、タブレット端末をレイナに見せつけた。
画面には、レイナの配信チャンネルの管理画面と、実家の住所が表示されている。
「テメェは人気商売だろ? あることないことネットにばら撒いて、炎上させてやってもいいんだぜ? 実家に火炎瓶が飛んでくるかもしれねぇな」
卑劣な脅し。
物理的な暴力ではなく、社会的抹殺と家族への攻撃をちらつかせるやり口。
普通の少女なら、泣いて許しを請う場面だろう。
——だが。
レイナの瞳に宿ったのは、恐怖ではなかった。
それは、深い深い「憐れみ」だった。
「……可哀想な人たち」
「あ?」
「貴方たちは、虎の尾を踏もうとしているのではありません。眠れるドラゴンの口の中に、自ら頭を突っ込もうとしているのです」
レイナは静かに語った。
彼女が守ろうとしているのは、自分の保身ではない。
目の前の、死に急ぐ愚か者たちの命だ。
「あの方は、平穏を愛しておられます。こちらから手を出さなければ、慈悲深い神のように振る舞ってくださるでしょう。ですが……」
レイナの脳裏に、あの光景が蘇る。
Sランクのキメラを、サンダル片方で消滅させた、圧倒的な破壊の化身。
「その領分を侵した瞬間、貴方たちは『塵』になります。比喩ではなく、物理的に」
「ハッ! くだらねぇ!」
木戸は唾を吐き捨てた。
「ビビらせようって魂胆か? あんなマヌケ面のガキが神だ? 笑わせるな!」
「俺たちゃ今夜、総戦力でカチ込む。テメェが口を割らねぇなら、実力行使で奪うまでだ!」
木戸はレイナの肩を乱暴に突き飛ばし、通り過ぎていく。
部下たちも、下卑た笑いを浮かべて後に続いた。
「精々、そこで震えて見てな。明日の朝には、あの家は更地になってるぜ!」
去っていく背中。
死地へと向かう行進。
レイナは彼らを止めることはしなかった。
警告はした。
慈悲は与えた。
それでも進むというのなら、それは彼らの選択だ。
「……南無」
レイナは小さく手を合わせた。
師匠の家には、最強の番犬と、最強の庭(植物群)がある。
彼らが玄関にたどり着くことすら、不可能だろう。
(師匠……。今夜は少し、騒がしくなるかもしれません)
(あとで、お詫びの羊羹をもう一箱持っていきますね)
レイナは夜空を見上げた。
S区の方角。
そこには、嵐の前の静けさを湛えた、不気味なほどの闇が広がっていた。
◇ ◇ ◇
同時刻。S区・相葉邸の庭。
ブゥゥゥゥゥン……。
一機の小型ドローンが、闇に紛れて飛行していた。
『蛇の牙』が先行して放った、最新鋭のステルス偵察機だ。
カメラが、家の構造と侵入ルートを解析しようとレンズを向ける。
その直下。
犬小屋の前で、黒い子犬がアクビをしていた。
『……?』
ポチの耳がピクリと動く。
微かなプロペラ音。
それは、主の安眠を妨げる、不快な羽音。
ポチは面倒くさそうに口を開けた。
狙いを定める必要すらない。
パックン。
空中で、何かが消失した。
ポチは「ガリガリ」と金属を噛み砕く音をさせながら、美味しくなさそうに飲み込んだ。
鉄分補給完了。
ガラッ。
二階の窓が開く。
「こらポチ! また変な虫食べたのか? 腹壊すぞー」
湊が顔を出して注意する。
ポチは「ワフッ(ごめんなさい)」と可愛く尻尾を振った。
「まったく……。夏は虫が多くて困るな」
湊は呑気に窓を閉めた。
それが、敵の偵察部隊の全滅を意味していることなど、知るはずもなく。
——開戦まで、あと一時間。




