第24話:サンダル・インパクト 〜音速のゴム草履〜
「……シッ! あっち行け!」
俺、相葉湊は、二階の窓から身を乗り出し、眼下の庭に向かって右腕を振りかぶっていた。
手にあるのは、たった今脱いだばかりの『便所サンダル(ゴム製)』だ。
色は地味な茶色。
ホームセンターで500円くらいで売ってる、あの安いやつだ。
眼下には、ボロボロになったコスプレねーちゃん(レイナ)と、その前に立ちはだかるデカい野良犬。
野良犬は、口からヨダレを垂らして、こちらの家を睨んでいる。
どうやら、俺の部屋から漏れたエアコンの冷気か、あるいは食べ物の匂いにつられて来たらしい。
(まったく……。躾のなってない犬だな)
俺はため息をついた。
さっきのプリンを落とした恨みもある。
ここは一つ、痛い目を見せて懲らしめてやろう。
石を投げるのは危ないけど、ゴムサンダルなら怪我もしないだろうし、当たれば「キャン!」と鳴いて逃げていくはずだ。
「ほらよッ!!」
俺は野球のピッチャーのようなフォームで、腰の回転を使ってサンダルを投擲した。
狙うは野良犬の鼻先。
ストライクゾーンど真ん中だ。
俺の手から、サンダルが放たれる。
手首のスナップを効かせた、会心の投球。
——パシュッ。
軽い音がして、サンダルが空を切った。
◇ ◇ ◇
——その瞬間。世界(レイナの視界)が、スローモーションになった。
(……投げた?)
銀条レイナは、頭上を見上げていた。
神の手から放たれた、茶色い物体。
それは、ただの履物に見えた。
だが。
手から離れたコンマ一秒後。
その物体の周囲の空気が、異常な圧縮を起こした。
ドォォォォォォンッ!!
鼓膜を破らんばかりの衝撃音。
サンダルが音速の壁を突破したのだ。
大気との摩擦熱で、ゴム製の履物は瞬時に赤熱化し、プラズマの尾を引く流星と化した。
それはもはや履物ではない。
神が地上に落とした、裁きの鉄槌。
『ア゛ッ……?』
変異種キメラが、空を見上げる。
その複眼に映ったのは、迫りくる「死」そのものだった。
回避? 不可能。
防御? 無意味。
再生? 細胞が残ればの話だ。
ズドォォォォォォォォォォォンッ!!!!
着弾。
キメラの頭部に、サンダルが直撃した。
カッ!!
S区の夜空が、真昼のように白く染まる。
キメラの悲鳴はなかった。
悲鳴を上げるための声帯はおろか、肉体、骨格、魔石に至るまで、サンダルの持つ運動エネルギーによって瞬時に分子レベルで分解されたからだ。
衝撃波が放射状に広がる。
庭の雑草が根こそぎ吹き飛び、地面のアスファルトがめくれ上がる。
レイナはとっさに身を伏せたが、それでも暴風に煽られて数メートル転がった。
そして、サンダルの勢いは止まらない。
キメラを貫通した茶色い流星は、そのまま背後の裏山へと突っ込んだ。
ズガアアアアアアアアンッ!!
山が、消えた。
正確には、山の中腹が円形にえぐり取られ、土砂が蒸発して巨大なトンネルが開通した。
土煙が舞い上がり、パラパラと小石が降ってくる。
静寂。
圧倒的な、破壊の後の静寂。
「…………」
レイナは、砂埃にまみれながら顔を上げた。
目の前にいたはずのSランクモンスター、キメラ。
その姿は、影も形もない。
ただ、地面に巨大なクレーターが穿たれ、そこから焦げ臭い煙が立ち上っているだけだ。
そして。
そのクレーターの中心に、湯気を立てて鎮座している「それ」があった。
半分ほど溶けて形が変わっているが、間違いなく——便所サンダル(右足用)だ。
「う、そ……」
レイナの唇が震える。
サンダルだ。
ゴム草履だ。
Sランクの怪物を消滅させ、山まですっ飛ばした兵器の正体が、ホームセンターで売っているサンダルだというのか。
(これが……神の武具……!)
(『神の鉄槌』……いや、『サンダル・インパクト』とでも呼ぶべきか……!)
レイナは戦慄し、そして理解した。
あの方にとって、Sランクの怪物など「スリッパで叩き潰す害虫」に過ぎないのだと。
格が違うどころの話ではない。
次元が、生態系が、物理法則が違う。
◇ ◇ ◇
——二階の窓辺。
「……ありゃ?」
俺は目をぱちくりさせていた。
土煙でよく見えないが、野良犬はいなくなっていた。
どうやら、サンダルが当たって驚いて逃げたらしい。
やっぱり動物には、大きな音と痛みが一番効くな。
「あーあ。サンダル、片方投げちゃったよ」
俺は自分の右足を見た。
裸足だ。
これじゃあトイレに行く時に困るじゃないか。
回収しに行こうかとも思ったが、外は真っ暗だし、庭がなんかボコボコになってて歩きにくそうだ。
「……ま、いっか。百均だし」
また今度、Amazonで新しいのを買えばいい。
それよりも、今はもっと大事なことがある。
俺は部屋を振り返った。
床に飛び散った、無惨なプリンの残骸。
そして、カーペットに染み込んだ黄色いシミ。
「はぁ……。掃除しなきゃ」
怒りは収まったが、徒労感が押し寄せてくる。
3,000円の損害は痛いが、家が無事だっただけマシと思うしかない。
「あー、腹減った。カップ麺、もう一個食うか」
俺は窓を閉めた。
ピシャッ。
ガチャリ(施錠)。
世界を揺るがす一撃を放った男は、何事もなかったかのようにカーテンを閉め、再び引きこもりの城へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
庭に残されたレイナは、閉ざされた窓を見上げ、呆然としていた。
「……助かった、の……?」
命拾いした。
あの方が、私を守ってくれたのだ。
「うるさい」という言葉は照れ隠しで、本当は私の危機を察知して、大切な武具を投じてくれたに違いない。
「ありがとうございます……師匠……!」
レイナは涙を流しながら、クレーターの中心へと這いずった。
そこには、まだ高熱を帯びているサンダルがある。
「熱っ……!」
触れるだけで火傷しそうな熱量。
だがレイナは構わず、それを大切に両手で包み込んだ。
これは聖遺物だ。
神が奇跡を起こした証拠だ。
野ざらしになどできない。
「私が……家宝として、末代まで守り抜きます」
レイナは黒焦げになったサンダルを、最高級のシルクのハンカチで包み、胸に抱いた。
その姿は、聖杯を見つけた騎士のように神々しく——そして、端から見ればゴム草履を抱いて泣いている変人だった。
こうして。
S区の夜は、爆音と共に更けていった。
だが、この一件は、単なる害虫駆除では終わらなかった。
翌朝。
日本の政府機関と、世界の裏社会が、同時に動き出すことになる。




