第21話:追跡者 〜その残り香は、死を招く〜
深夜のS区。
かつて住宅街だったその場所は、今は静寂に包まれていた。
……いや、正確には「恐怖による静寂」だ。
先ほど、この道を「王」が通った。
その余韻はまだ色濃く残っており、瓦礫の陰に潜む魔物たちは、捕食者に怯える小動物のように息を潜めていた。
だが。
その静寂を切り裂く、異形の足音が響き始めた。
グチャッ、グチャッ、ベチャッ……。
濡れた雑巾を叩きつけるような、不快な音。
闇の中から現れたのは、生物としての整合性を失った「悪夢」だった。
獅子の頭、山羊の胴体、蛇の尾——という古典的なキメラではない。
全身から無数の腕が生え、複数の猛獣の頭部がデタラメに縫い合わされたような、肉の塊。
【変異種・キメラ】
推定ランク:A+(準S級)。
ダンジョンの深層で、他の魔物を共食いし続け、理性を失って暴走した殺戮マシーンだ。
その怪物が今、鼻をヒクつかせながら、アスファルトに残された「匂い」を辿っていた。
『ア゛ァ……ニオイ……ウマソウナ……ニオイ……』
キメラの複眼が、血走った赤色に輝く。
それは、先ほど湊が持ち歩いていたレジ袋——その中に入っていた『災厄級魔石』の残り香だ。
魔物にとって、高純度の魔石は極上の餌であり、進化のための秘薬。
本来なら近づくだけで焼死するほどのエネルギーだが、理性を失ったキメラには、それが「抗えない甘い蜜」にしか感じられない。
キメラはよだれを撒き散らしながら、猛スピードで駆け出した。
目指すはS区の最深部。
匂いの発生源へ。
◇ ◇ ◇
一方、その発生源である相葉家。
「ふぅー……。カップ麺、最高だったな」
俺、相葉湊は、至福の溜息をついていた。
胃袋がジャンクフードで満たされ、三年間忘れていた「現代人の心」を取り戻した気分だ。
だが、宴はまだ終わらない。
俺は冷蔵庫から、とっておきのデザートを取り出した。
【なめらか極上プリン(3,000円)】
コンビニで魔石払いをしようとした時、店長が「これも! これも持っていってください!」と勝手に袋に詰め込んでくれた高級スイーツだ。
インフレのおかげで値段はバカ高いが、見た目からして美味そうだ。
「デザートは別腹ってね」
俺はスプーンを手に取り、ソファーに座り直した。
深夜三時。
誰もいない静かな部屋で、高級プリンを食べる。
これ以上の贅沢があるだろうか。
「……ん?」
ふと、窓の外が騒がしい気がした。
遠くで、何かが崩れるような音。
そして、微かな振動。
「なんだ? また地震か?」
俺はスプーンを止めて耳を澄ませた。
S区は地盤が緩んでいるのか、最近よく揺れる。
古い家だから、あんまり揺れると屋根瓦が落ちそうで怖いんだよな。
「ま、いっか。どうせ震度1くらいだろ」
俺は気にせず、プリンの蓋を開けた。
黄金色に輝く表面。
甘いバニラの香り。
——その時。
家の外では、とんでもない事態が進行していた。
◇ ◇ ◇
湊の家の庭先。
門柱の陰に、銀色の影があった。
銀条レイナだ。
彼女は帰っていなかった。
湊に「帰れ」と言われたわけではないし(ポテチは貰ったが)、何より「師匠の護衛」という任務を勝手に継続していたのだ。
(……来る)
レイナは愛剣『竜殺し』の柄に手をかけ、暗闇を睨みつけた。
肌を刺すような、異様な殺気。
先ほどのヤンキーたちとは比較にならない、本物の「死」の気配。
ズズズズズ……ッ!
庭の木々をなぎ倒しながら、その巨体が姿を現した。
月明かりに照らされたのは、悪夢を具現化したような肉の塊。
変異種キメラ。
「ッ……! あんな化け物が、浅層に!?」
レイナが息を呑む。
キメラの口からは、腐食性のよだれが滴り落ち、地面の草を溶かしている。
その視線は、レイナを通り越し、真っ直ぐに背後の「家」に向けられていた。
『ア゛ア゛ア゛……!! 魔素……!! 食ワセロォォォ!!』
キメラが咆哮する。
その狙いは、家の中にいる湊——ではなく、湊が持ち帰った「魔石」と、彼が開けたドアの隙間から漏れ出た「極上の魔素」だ。
理性のない獣にとって、ここは最高の餌場。
「ここに入れば死ぬ」という本能すら、食欲が上書きしてしまっている。
「……行かせない」
レイナは剣を抜き放ち、キメラの前に立ちはだかった。
「この先は、神域(師匠の家)。貴様ごとき汚らわしい獣が足を踏み入れていい場所ではない!」
彼女の瞳に、決死の覚悟が宿る。
相手は準Sランク。
今の消耗した状態のレイナ一人で勝てる相手ではない。
それでも。
彼女は一歩も引かなかった。
「師匠の安眠は、私が守る……!」
銀色の剣閃が、夜の闇を切り裂く。
静寂を破る、激突の音が響き渡った。
——家の中で、湊がスプーンを口に運ぼうとした、まさにその瞬間に。




