第10話:インターホン越しの攻防 〜魔王城の扉は重すぎる〜
ピンポーン。
電子音が鳴った瞬間、銀条レイナの心臓は早鐘を打った。
押してしまった。
もう後戻りはできない。
目の前にあるのは、何の変哲もない、少し錆びた鉄製のドア。
表札には『相葉』の文字。
どこにでもある一般家庭の玄関に見える。
だが、Sランク探索者であるレイナの『危険察知』は、警報を鳴らし続けていた。
このドア一枚隔てた向こう側に、「世界の理を外れた何か」がいる。
(息が……できない……)
ただ立っているだけで、精気が吸い取られていくような圧迫感。
レイナは膝が笑うのを必死に堪えながら、応答を待った。
1秒が、永遠のように長い。
出てくれるだろうか。
それとも、「不敬な虫ケラめ」と、ドアごと吹き飛ばされるのだろうか。
ガチャッ。
スピーカーから、ノイズ混じりの音がした。
通話状態になったのだ。
『……はい』
聞こえてきたのは、若々しくも、どこか気だるげな男の声。
低く、抑揚のないそのトーンは、レイナの鼓膜を震わせた。
(なんという……覇気……ッ!)
ただの「はい」という二文字に込められた、圧倒的な無関心。
それは、俗世の全てを見下ろす王者の風格に他ならない。
レイナは姿勢を正し、震える声で名乗りを上げた。
「あ、あのっ! 私、先日この庭先で助けていただいた者です! その節はありがとうございました!」
「今日はお礼に伺いました! どうしても感謝の気持ちを伝えたくて……!」
言った。
噛まずに言えた。
しばしの沈黙。
モニターの向こうの主は、沈考しているのだろうか。
あるいは、我が身を呈してここまで来た私の覚悟を、値踏みしているのか。
『……あー』
スピーカーから、困惑したような吐息が漏れた。
『……ウチ、間に合ってるんで』
プツッ。
通話が切れた。
「えっ……?」
レイナは呆然とした。
間に合っている?
つまり、「貴様のような小娘からの礼など不要」ということか?
あるいは、「我は全てに満ち足りている。供物など要らぬ」という拒絶か?
ここで引き下がるわけにはいかない。
それでは、ただの命知らずの侵入者で終わってしまう。
「お、お願いします! お顔だけでも! 一目だけでもお会いして、直接お礼を!」
レイナは必死にドアに向かって叫んだ。
この声が届いている保証はない。
それでも、叫ばずにはいられなかった。
——ガチャリ。
願いが通じたのか、金属音が響いた。
鍵が開く音だ。
続いて、ドアノブがゆっくりと回される。
キィィィィ……。
重い鉄扉が、わずか数センチだけ開いた。
チェーンロックがかかったままだ。
その細い隙間から、室内の空気が「フワッ」と漏れ出してくる。
「ひっ……!?」
レイナは反射的に後ずさった。
ドアの隙間から溢れ出たのは、絶対零度の冷気。
肌を刺すような冷たさと、濃密すぎて白く霞むほどの魔素の奔流。
(これが……魔王の住処の空気……!)
(深淵の瘴気をさらに凝縮したような……吸えば即死レベルの冷気だわ!)
レイナはガタガタと震えながら、本能的な恐怖で身をすくませた。
こんな空間で暮らしているなんて、やはり人間ではない。
そして、その隙間の闇から、一対の瞳がこちらを覗き込んでいた。
死んだ魚のような、光のない瞳。
隈の濃い、生気のない顔色。
——死神。
レイナの脳裏に、そんな単語が浮かんだ。
◇ ◇ ◇
一方その頃。死神(湊)の心中。
(うわぁ……帰らないタイプかよ……)
俺はドアの隙間から外を覗き、心底うんざりしていた。
モニターで見た通り、ボロボロのコスプレねーちゃんが立っている。
しかもなんか、顔面蒼白でガタガタ震えてるし。
やっぱり熱中症か?
それとも、何かヤバい薬でもやってるのか?
(怖い怖い怖い。目が合ってるよ。めっちゃ見てくるよ)
俺の対人恐怖スキルが発動し、冷や汗が止まらない。
とりあえずドアは開けたけど、チェーンロックは必須だ。
いきなり押し入られて壺を買わされたらたまらない。
「……あのー」
俺は精一杯の勇気を振り絞り、低く掠れた声を出した。
「ウチ、そういうの(宗教とかセールスとか)やってないんで。帰ってもらえます?」
さっきインターホンで断ったのに、しつこいなぁ。
それにしても、外は暑そうだ。
部屋の冷房(設定温度18度)の冷気が逃げるのがもったいないから、早く閉めたいんだけど。
俺は冷気を逃さないように体を隙間に寄せた。
すると、ねーちゃんが「ひっ」と悲鳴を上げて後ずさるのが見えた。
(え、なに? 俺の顔見て悲鳴上げた? 傷つくわー……)
俺は少しムッとした。
確かに引きこもりで肌は白いし、寝不足で目の下に隈はあるけどさ。
化け物を見るような目で見なくてもいいじゃないか。
「あ、あのっ……!」
ねーちゃんが震える手で、持っていた桐箱を差し出してきた。
「こ、これを……! つまらないものですが……!」
隙間から強引にねじ込んでくる。
俺は反射的にそれを受け取ってしまった。
ずしりと重い。
(……受け取っちゃったよ)
これ、受け取ったら契約成立ってやつか?
後から「代金請求しますね」って言われるパターンか?
クーリングオフできるかな……。
でも、このまま突き返して揉めるのも面倒くさい。
相手はどう見ても情緒不安定(震えてるし泣きそう)だ。
刺激して暴れられたら、警察を呼ぶハメになる。
——そうだ。
俺は玄関の隅に置いてあった「あれ」を思い出した。
(何かお返しをして、貸し借りをナシにすればいいんだ)
(ちょうどいいのがあったな)
俺は足元にあった黒いビニール袋を掴んだ。
昨日出しそびれた、燃えるゴミだ。
中身は、昨日倒したトカゲの剥がれたウロコとか、庭の雑草(枯れ葉)とか、飲み終わった栄養ドリンクの瓶とか。
まあ、ゴミだけど、袋に入ってるし。
これを「お返し」として渡して、「処分しといてください」って言えば、相手も嫌がって二度と来なくなるんじゃないか?
我ながら完璧なライフハックだ。
「……じゃあ、これあげるんで」
俺はゴミ袋をドアの隙間からニュッと突き出した。
「等価交換ってことで。それじゃ」
相手が呆気にとられている隙に、俺はゴミ袋を押し付け、素早くドアを閉めた。
バタンッ!!
ガチャン、ガチャン(鍵をかける音)。
「ふぅぅぅ……」
俺はドアに背中を預けて座り込んだ。
やった。撃退したぞ。
心臓バクバクだ。もう一生分のコミュ力を使った気がする。
俺は手元の桐箱を開けてみた。
中には、高級そうな羊羹が並んでいる。
「お、マジでただのお菓子だったのか? ラッキー」
俺は羊羹を一つ取り出し、口に放り込む。
甘い。脳に染みる。
これが勝利の味か。
——ドアの向こうで、俺が渡した「ゴミ袋」の中身を見た彼女が、腰を抜かして泡を吹きそうになっていることなど、知る由もなく。
◇ ◇ ◇
ドアの外。
銀条レイナは、渡された黒い袋を抱きしめたまま、石化していた。
隙間から漏れ出た冷気(瘴気)は止まった。
だが、震えは止まらない。
あの方は言った。
『等価交換』と。
レイナは恐る恐る、袋の口を開けた。
中に入っていたのは、黒く輝く硬質なプレート。
そして、虹色の光を放つガラス瓶。
「……ッ!?」
鑑定スキルが、勝手に発動する。
【黒竜王の逆鱗(S級素材)】
【世界樹の雫(神級ポーションの残滓)】
レイナの脳が沸騰した。
羊羹一箱(五万円)のお返しが、国家予算(数千億円)クラスの素材?
いや、違う。
あの方の言葉を思い出せ。
『等価』だと言ったのだ。
「つまり……あの方にとっては、この神話級の宝具など、羊羹程度の価値しかないということ……?」
レイナは戦慄した。
そして同時に、深い深い崇拝の念が湧き上がってくるのを感じた。
欲がないのではない。
次元が違うのだ。
神が、路傍の石に価値を感じないように。
あの方にとって、ドラゴンも、世界樹も、ただの日常の風景に過ぎないのだ。
「……一生、ついていきます」
レイナは、閉ざされた鉄の扉に向かって、涙を流しながら深く頭を下げた。
彼女の中で、相葉湊は「恩人」から「信仰対象」へと昇華された瞬間だった。




