告白
3日後。土曜日。外は梅雨の予行演習とばかりに雨が降っている。
夕子は水曜日の出来事を頭の中で繰り返していた。転勤か…。
まだどこへ転勤になるかは決まっていないようだが、つい先日打診されたという。
夕子には多少の心の準備をしておいてほしい、とのことで先だっての報告だった。
「ものすごく遠かったりしたらどうしよう…」
ひとりごちてみる。雨が激しく降る。雨で週末の街は煙っていた。
遠くから見守ることができるだろうか。もちろん耕平のことを信じていないわけではなかった。
耕平から転勤の話を聞かされてからは料理もどうやって食べたか、味なんてもってのほか、覚えていなかった。前菜のタイミングで言われたのはなんだか勿体なかった。デザートはなんだったっけ、とひとりで頭の中をめぐらせて、紅茶のシフォンケーキに甘さが控えめの生クリームが添えられていたのを思い出した。
でもまだ正式に決まっていないんだし、と夕子は気持ちを切り替えようと読みかけの雑誌を眺めることにした。
澤井はるかは携帯電話を握り締めて画面を睨んでいた。もうこうして10分は経つ。
携帯電話の画面には夕子の名前と電話番号が表示されている。もう少しで母親が夕食の支度を始めるだろう。そうしたら姉が手伝いを始める。はるかは根っからの末っ子体質で、姉に咎められてから重い腰をあげて家の手伝いを始める。会社ではちゃんとしてるんだからいいじゃない―それがはるかの言い分だがもちろん却下だ。
姉からお呼びがかかる前に夕子に電話してしまおう。深呼吸をして、思い切って通話ボタンを押した。
雨。気がつけばもうすぐジメジメした季節が来る。洗濯物が乾きが悪くなるから嫌だ。
こんな主婦染みたことを思いながらパソコンの画面を眺めていたのは耕平だった。パソコンで写真の整理をしていた。今年会社で花見をしたもの、去年の秋は夕子と紅葉を見に京都へ行った写真。自分が転勤になったらこうやって簡単に旅行へも行けなくなるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた。
数日前に、久々の平日のデートで突然あんなことを言ってしまっては夕子も動揺しただろう、いや、していた。
夕子は元々顔に出やすいタイプだ。自分が言った言葉を何度も反すうしながら、あの日一緒にした夕食を口にしていたに違いない。味もわからなかったかもしれない。帰り道で言えばよかっただろうか。でも今さら遅い。電話してみようか。でも何を夕子に言ってあげられるだろう。話が正式に決まってから言えばよかったのか。でもそれでは急過ぎて夕子が心の準備ができない。
周到過ぎた自分の行動を生まれて初めて悔やんだかも知れない瞬間だった。そのとき、耕平の携帯電話が呼び出し音と共に光る。見た事のない電話番号だった。
昨日会社帰りにコンビニで買った雑誌を眺めてはページをめくる。夕子は気づかないうちに雑誌を読むのではなく、ページをただめくる行為をしていた。やっぱり気づいたら耕平のことを考えている。
そんなとき、夕子の携帯電話が低い唸りをあげて光った。画面を見ると、意外な人物からだった。もちろん澤井はるかである。
「もしもし」
「あ、夕子さん」
「どうしたの?めずらしいじゃない」
「あの…今電話しても大丈夫ですか」
「もちろん。今家だから」
「私、見ちゃったんです」
「…もしもし」
少し訝しげに電話に出たのは耕平。
「もしもし、あの…」
遠慮がちに出たのは女性の声だった。どこかで聞いたことのある声だった。
「あの…もしかして絢子さん?」
「よくわかったね。急に電話してごめん」
「いえ。それよりどうかしたんですか」
電話の向こうは車が水を弾きながら走っていく音がする。絢子は外にいるようだった。
「私、振られちゃった」
「え?」
絢子が言ったことが聞き取れなかったわけではなかったが、なんだか聞き返してしまった。
「男に振られたのよ」
「それで雨に濡れてるわけですか」
「まさか。そんな悲劇のヒロインなんて演じないわよ」
笑いながら絢子は頭から滴り落ちる水滴をずぶ濡れのハンカチで拭っていた。なんだか耕平に今の自分をどこかから見られているような気分になった。図星だったが肯定することは自分のプライドが許さなかった。
「付き合ってる人、いたんですね」
耕平はただ、感想を述べた。
「ねぇ、今から飲みに行こうよ」
耕平の言葉には答えずに、絢子は耕平を誘った。
「今からですか」
「そうよ。都合悪い?」
「悪くはないですけど…」
なんだか歯切れの悪い返事をしてしまった。
「彼女に悪いわよね」
「何言ってるんですか」
夕子の存在を隠したいがために、つい言ってしまった。
「じゃぁいいわよね」
「今どこですか」
耕平はつい絢子の押しに負けてしまった。心の中では大きなため息をついた。
澤井はるかはもう一度言った。
「私見ちゃって…」
「何を見たの」
「私の隣の、田口さんのことなんですけど」
田口美奈子は夕子の会社に10年在籍しているベテランだ。会社でははるかの隣に座っている。
「田口さん?どうかしたの」
意外な名前に夕子は少し驚いた。
「田口さん、社内メールで隣の係の瀬戸さんとメールのやりとりをしているみたいなんですけど」
瀬戸は美奈子の恋人だ。美奈子の方が瀬戸より2歳年上だった。二人が付き合っているのは、みんななんとなく知っている。
「それで?」
「ただやりとりするだけなら何も問題はないと思うんですけど、お金のことで揉めているみたいで」
「でも本人同士の問題じゃないの。あんまり首を突っ込まないほうがいいよ」
「それが…どうもメールの内容見ると、会社のお金みたいなんです。どうも横領しているみたいに感じました」
「どうしてメールを見れたの?」
夕子は早く電話を切ってしまいたいと思いながらも、続きが気になってしまった。
「その…いけないとは思ったんですけど、田口さんが個人メールを開くときのIDとパスワードが見えてしまったので」
「つい見たってこと?」
「はい…」
最後にはるかは罰の悪い返事をした。夕子は犯罪の片棒を担がされたような気がした。
「ねぇ、はるかちゃん」
「はい」
「私以外にそのことを話した人はいるの?」
「いません。夕子さんが初めてです」
「じゃぁ私はその話は聞かなかったことにするから。あなたも忘れて」
「でも…」
「だってもしも会社のお金で揉めていても私たちには解決できないじゃない。それに、変に首突っ込まないほうがいいって」
「そうですか…」
「それにはるかちゃんはもう人の個人情報盗んじゃってるんだし。私黙っておいてあげるからさ」
「それが、私夕子さんにこのことを言ったのはそのお金のことで、西野さんの名前が出ていたからなんです」
「西野…さん」
夕子は一瞬はるかの言葉に反応できなかったが、西野とは耕平のことだ。西野耕平という。
「お二人が付き合っているのは、知っていました」
おずおずとはるかが言った。
「いつから?」
もう隠しても仕方がないと思い、夕子は聞いた。
「つい最近なんです。実はお二人がいつも待ち合わせている場所って私の帰り道なんです」
「それで私に知らせてくれたの」
「最初は興味本位で見ていたんですけど、西野さんの名前が出てきたときには、早く夕子さんに知らせなきゃと思って」
「だから最近ずっと誘ってくれていたのね」
「そうなんです」
「でも、彼の名前はどうして出ていたの」
「それが…どうもそのお金の横領の罪を西野さんに着せようとしているみたいで」




