はじまりはいつも
夕子はあっと声をあげた。でもそれは室内に響き渡るような大声ではなく、あっと軽やかに出たのだった。
しかし周りはそんな夕子に無関心のように見えた。
いや、余裕があれば構いたかったというのが正当だろう。
なんといってもここは会社。しかも夕方は5時10分前を時計の針が指している。定時退社―夕子の勤める会社は夕方5時30分が定時―を目指している者、残業になるとわかりつつも新たな案件に手を出す者、みなそれぞれに仕事を消化していっている。
そんな夕子の声に反応した人間がいた。
夕子からみたら右斜め後ろ、背向かいに座っていた男が顔だけこちらに向けた。夕子も男の顔を見る。
男は目で微笑むとすぐにまたパソコンの画面へ顔を戻す。
もちろん夕子も同じく目で微笑み、すぐにまた仕事へ思考を戻した。
男は耕平といった。夕子の恋人であり、会社では先輩だ。―といっても、仕事上あまり関わらないので気が楽だ。
いわゆる社内恋愛だが、男の方が社内に知れ渡るのを嫌った。理由は
いちいちからかわれるのが面倒
だそうだ。
そういうところは私の方が図太いのよね、と時々夕子は思う。
夕子があっと小さく声をあげたのはもちろん理由があった。
今日は久しぶりに耕平とデート。しかも平日に。
お互いに仕事のペースが違うから、なかなか平日の夜は会えない。
そんな大事なことを今朝振りに思い出してのあの「あ」だったのだ。とはいっても、二人とも最近は仕事は落ち着いてたし、デートの舞台のレストランは6時半に予約をしていた。
夕子と耕平が目で微笑みを交わしたのをふと目撃した者がいた。
夕子の向かいに座る―女というよりはまだ女の子だ―はるかは夕子が声をあげる前から夕子を見ていた。
今日は夕子に話を聞いてもらうために夕食に誘おうとして、タイミングを計っていたのだ。
ところが、意外なものを見た。夕子と耕平がなんだか目配せしたように感じた。
考えすぎかもしれないが、なんだかそんな風に見えた。
「夕子さん、あの…」
「どうしたの?」
「急なお誘いですみません、今晩って空いていますか」
「ごめん。今日は先約があるの。また今度誘ってよ」
「わかりました」
夕子は両手を顔の前に合わせながら申し訳なさそうに、はるかの誘いを断った。
耕平は仕事に打ち込みながらも、考えていた。
「あ」とか言ってたけど、まさか今日の約束忘れていたわけじゃないよな。
でもそんなことはないはずだ、と耕平は確信を持っていた。
夕子はいつもよりはおしゃれをしていたし、お気に入りのピアスもつけている。
さりげなく時計を見ると5時を少し過ぎていた。もうひと踏ん張りだな。
「今日はなんか落ち着きないわよね」
横から意外な感想が入る。
「そうですか?」
なんでもない風を装って答える。今日は時計を見すぎたな。
耕平に指摘したのは隣に座る絢子といった。耕平の3年先輩である。
「なんか予定あるの?」
からかうように聞いてくる。
「まぁそんなところですかね」
さらっと答えておく。あんまり詮索されるのも好きじゃない。
「そう…」
絢子はそう言ってそれからは何も聞いてこなかった。
夕子は6時過ぎには退社をして、念入りに化粧直しをして会社を出た。
待ち合わせ場所は会社から少し離れたコンビニ。本当に耕平は徹底していると思う。
でもたまにあの完璧さ加減についていくことに自信を失いそうになることがある。
図太い上に、大雑把だもんな。繊細になり切れない自分を仕様がないと思いながらも、好きな人のためならどうしてそこまでできないのだろうと悩むこともあった。
そんな事を思いながら少しずつ夏の色を帯びてきた夕暮れを小さなため息をついて眺めた。
「ため息なんかついてどうしたの」
待ち人に自分のため息を聞かれたのを少し後悔した。
「なんでもない。今日もまあまあ働いたなと思って」
「行こうか」
「うん」
冗談めかした風に胸を張って左腕を差し出す耕平。もちろん夕子はその左腕に右腕を絡める。
濃いラベンダー色が広がる空に二人の笑い声は吸い込まれていった。
レストランは人気のフレンチということで平日にも関わらず混み合っていた。
耕平は首尾よく予約をしていたので席はもちろん窓際。
屋内は快適な温度と湿度に保たれていた。外は梅雨が始まる前独特のむっとした空気で、夕暮れの空はなんだか淀んでいるように見えた。
前菜の鯛のカルパッチョを口に運びながら耕平が聞いた。
「今日澤井さんに今晩空いているか聞かれてただろう」
「もう、そんなところまで聞いていたの」
笑いながら夕子は言う。はるかは澤井はるかといった。
「聞こえたんだよ。悩みでもあるのかな」
「話を聞いてもらいたいみたいなんだけど、どうしても最近彼女とタイミングが合わなくて」
このバルサミコを使ったソースは少し酸っぱいと夕子は思った。
「ふうん」
「また改めて時間作って話し聞いてみるよ」
「そうだね。それでさ」
「なに?」
耕平は少しためらってから口を開いた。
「もしかしたら転勤になるかもしれない」
「えっ」
飲もうとしていた白ワインには口をつけずに夕子はまたテーブルへ戻した。




