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トマリギの水

決別のアメリカーノ

作者: 松本遊心

3杯め

 イタリアを代表するリキュールに”カンパリ”がある。

 オレンジ果皮・キャラウェイ・コリアンダー・カルダモン・シナモン・ナツメグなど30種類以上のハーブ類を主として作られている。農村生まれで貧困な家庭環境で育ったガスパーレ・カンパリという人が、14歳という弱年齢から酒屋へ丁稚奉公し、十数年の試行錯誤の上、自身が営む現在でいうカフェで30歳過ぎに販売し始め、口コミ評判を呼び、瞬く間にイタリア全土に広まったという。


 L字型のカウンターの角でずいぶん早い時間帯から男がしきりにバーテンダーにくだを巻いていた。

「おれは彼女のためをおもって、なけなしの金でこんどのライブチケット取ったんだ。あの子が好きだっていうから・・・、なのにミアと先約があるって、・・・冗談もほどほどにしてくれよ。なぁ、聞いてんのかよマスター。おれはどうしたら正解だったんだよ。ううっ、この怒りのこぶしはどこにぶつけたらいいんだっ!」

 静と動の関係を映すように、カクテルグラスをバーライトへ掲げて、曇りがないかチェックしつつタオルで磨きながら、この一時間ほどで似た台詞を何度も聞かされてきた老バーテンダーは静かにいった。

「すこしばかり飲みすぎじゃないか。今日はそろそろ引き上げたらどうだい」

 ベネチアの夜はまだはじまったばかりだったが、男の足取りは少々怪しいものへとなっていた。客は他になく、彼の愛飲するドライマティーニの杯数もずいぶんと重なっていた。

 男が何かの拍子に身体のバランスを崩し、あやうくカクテルグラスを倒しそうになったとき、店の扉が開き、すらりと高身長でショートヘアの女がひとり入ってきた。彼女を包む残光が店内の一部を照らした。

「マスター、ドンゾイロくれる」女はバーテンダーにシェリーを頼むと、男から少し距離をとってカウンター席へ腰を下ろし彼を横目に見た。

「こんばんは。あなた大丈夫?もうずいぶんご就寝が近いように見えるけど」

 男はキッと女を睨むと、オリーヴがピンに刺さったままのカクテルグラスを勢いよく口元へ持っていった。半分ほどが彼の顔と服をぬらし、オリーヴはどこかへ転がっていった。「うるさい!ほっとけ」

 バーテンダーがドライシェリーのちいさなグラスを女へ差し出した。

「ミア。彼は今日気が立っている。静かに楽しまないか」

「マスター、いいから」女はそういってシェリーを一口味わって、ふたたび男へ顔を向けた。

「アーネスト・ヘミングウェイ、さすがに知ってるでしょ。わたしさぁ、ちいさいころから本が好きで、彼の本も当然すべて網羅してるの。でさ、彼の晩年の作品にここベニスが舞台の作品があるのって知ってる?」

「はぁ?おまえ何がいいたいんだ。さっきからわけのわかんないことばっかいって。ピカソくらい誰でも知ってる」男はまどろんだ視線を女がいるらしき方向へ向け、一転して酒のボトルがずらりと並ぶバックバーへ視線を返した。「マスター、次はボンドマティーニにして。ダニエル・クレイグが映画で飲んだやつ。なんだっけ、えっと・・・あれ、彼のボンド1作目のあれ」

 バーテンダーは聞こえぬふりでグラスを磨いていた。

「あの子から、あなたが無類のマティーニ好きって聞いて、映像が重なってもう笑っちゃうよ。『河を渡って木立の中へ』って作品なんだけど、記憶に残ってたら読んでみてよ。ヘミングウェイね」

 話の流れは無視して女はいうと、くいっとシェリーを飲み干しスツールから降りた。そしてバーテンダーに、「この人にわたしから最後の”アメリカーノ”をプレゼント。マスター、お願い」と、男を横目に紙幣を数枚カウンターに置いた。そのまま、まるで役者のように両手を広げた。「ここはベニスのホテル。わたしは給仕、彼は大佐」と男を指さし、「カンパリのビターとゴードンジンをひと瓶持ってまいりました。ジンとソーダでカンパリを一杯おつくりしましょうか?」

 こいつなんなんだ、という表情でバーカウンターに寝そべりながら、だが吐き気が催すのか時折口をうぷうぷさせながら朦朧もうろうとした意識の中、男はなんとなく女を見ていた。口を開くともどしそうだった。

 一転して女は手を打った。

「あっ、そうだ。あの子、あなたにつきまとわれて迷惑だって」男の反応を見るようにのんびりいって、「しつこい人って世界中どこにでもいるんだろうけど、ほとんどの人は嫌われるよね。というより、押し引きの加減がわかんないんだろうね。相手の身になって物事が考えられないんだよ。6歳の子とまじめに話しをするのにかがまない人。それがあなた。これ以上あの子につきまとったらわたしももっとエスカレートするから」

 それだけいうと、女は踵を返しさっそうと扉を開いて出ていった。

 バーテンダーはアメリカーノを作っていたが、男へ差し出すことはしなかった。彼はぼんやりと焦点の合わない視線を扉へ向けていた。


 くだんの小説には、”彼は飲みたくはなかったし、またそれが自分のからだにわるいことも知っていた”とある。

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