負け確ヒロインって後だし設定すぎません?
麦色の髪を縦ロールにしてみょんみょん揺らし、まつげバシバシ碧眼をきらきら輝かせ、小さな唇には不敵な笑み。真っ赤な扇を片手に、小さな体で胸を張り、高らかに愛を謳う。
「ミュシェッド様~! ごきげんよう! 本日もお慕い申してます!!」
鳴り響く声に、正門を抜けて学舎に向かう学友たちがひそひそと笑ったりまたかと呆れた顔をしたりするけれど、ちっとも気にならない。
だって、それらに気を割くよりも夢中になれるものが目の前にある。
その人しか見えてません! と言わんばかりに、彼のもとへ一直線。たたたーとレンガ道を軽やかに蹴って、律儀に立ち止まり振り返ってくれたその人の腕に、ぎゅむっと体を巻き付ける。
「ごきげんよう、マユリカ。今日も良い朝のようだな」
「もちろんです! ミュシェッド様にお会いできましたもの」
偶然にも、なんて言い方をするが、二人とも寮暮らしなので毎日だいたいは遭遇できる。ただの朝の挨拶だ。
「お借りしたデアル公国の詩集でいくつか気になる表現がありましたの。辞書を引いてもなかなか読み解けなくて……恐れながらミュシェッド様の解釈をお伺いしてもよろしいですか?」
「ああ。あれも古いものだから、難解なところがある。放課後の時間はとれるか。私も一言では終わらせがたい」
「嬉しい! 放課後も一緒にいられるのですね。せっかくですから、中庭のガゼボをお借りしましょう。ほら、白き花の詩がありましたでしょう? ちょうど白い花が咲く花壇が近くにあります。その香りに包まれながら読めば、より味わい深いはずです。それに、風にそよぐミュシェッド様のお髪も美しいし」
うっとりとした私を、ミュシェッド様はやや垂れ目なペールグリーンの目を細めながら、形の良い唇の端を持ち上げて見ていてくださる。
眩しい。彼は美しい。
朝日を跳ね返す銀糸の髪がさらさらと額を流れ、ペールグリーンの瞳は底まで透き通る。白磁の肌にすっきりと通った鼻筋は、これから迎える夏でもさらりとしていそう。
さらに、常に浮かべられている笑み、雄々しい眉や思慮深き瞳の輝き、すこし厚めの唇なんかが、彼に大人びた余裕を持たせていた。
王道王子様系な顔立ちだ。
実際、ミュシェッドは西の小国、デアル公国の統治者たる公爵家の後継なので、王子と近しい身分である。異文化交流と外交の目的で、一年間だけ王国が誇るこのユエニ学園へ留学に来ている。
たった一年しかいない美貌の公爵。しかも頭も性格も良い、となれば、それはもう好奇の入れ食い状態。誰も彼もが様子をうかがい話したがる中、私は悠々と腕なんか組んじゃう。
どうしてそんなことができるのかって?
単純明快。人並み以上の度胸が私にあったから。
一応、私だって貴族だけれど、国の中枢を担うような家柄ではない。
国の食糧庫とも呼ばれる西の方で、延々と黄金の麦畑が広がるのどかな領地を与えられ、のんびりと過ごしてきた子爵の家系。さらにいえば次女だから、貴族社会のなかでも軽い存在感しかない。
けれども、私は人と違うことがひとつだけあった。
私は、この世界とは成り立ちの異なる世界を知っている。異世界の記憶があるのだ。
どうか笑うでなかれ。
私もこれが正しい表現なのか迷うところではある。
だって異世界の記憶といってもなにかをはっきり覚えているというのではなく、なんとなく、他者が持たない概念が私には生まれながらにして多く備わっているようだ、くらいのものだから。
子どもとは往々にして、脈絡のない不可思議なものを見たり聞いたり口にしたりするけれど、私は昔からそれが人の倍ある子どもだった。
どこにも存在しない「ひらがな」なんて独自文字を書いてみせたり。
誰も知らない「じぇいぽっぷ」を口ずさんだり。
「おこめ」とか「らーめん」とかを食べたいと泣き出したり。
自我のはっきりしだした今にして思えば、かなり奇異な娘だったと思う。
両親がおおらかで、姉兄弟もすこぶる健全な育ちをしてきたおかげで、マユリカは面白い子ね、せっかくだからマユリカ語録を作ってみようか、お姉さまたくさんお話ししてと、上から下からほのぼのした愛情を注いでもらい、本当に良かった。
本来なら子爵の次女には不相応な高等教育機関であるユエニ学園に入学してみたらと勧められたのも、「名門に通う貴族から良き伴侶を見つけてこい」というより「マユリカは豊かな発想ができるから、多くの人と触れあい勉学に励むと良いのではないか」と父母が相談して決めてくれたのだ。
度量の深き判断に、頭が下がる。
そうやって、私は、家族という安定した社会基盤の上で、この世界のものではない何かを引きずったまま生きてきた。
そしてこの学園に入学して、ミュシェッド様に出会った。
その暴力的なまでの美しさを前に平伏すると共に、ふと思う。
「この人に、私の全力を捧げてみたい」
だって、この出会いは奇跡よ。
ミュシェッド様が私よりひとつだけ年上で、たまたまこの国に留学に来て、偶然にも生活圏が一年間だけ重なった。
そうでなければ、一生をこの国から出ずに終わるだろう子爵家の次女である私が、デアル公国の貴公子を間近にする機会なんて、あり得ない。
生涯に一度だけの大いなる恵み。
遠巻きに眺めるだなんて、もったいない。
ミュシェッド様がこちらに来られてすぐ、在籍なさる教室まで押し掛けた。
最高学年にいらっしゃるこの国の第二王子やその周りを固める貴族たちが挨拶された後、暗黙の了解で爵位の順に挨拶をするようになっていたので、私の順番が回って来るのは放課後になった。
身分関係なく学友との交流を望まれていたミュシェッド様は、押し寄せてくる一人一人に非常に丁寧な対応をなされ、それがなおのこと素敵だった。
「一年間、この学園で世話になるミュシェッド・キュラーだ。一年生の方で来られたのは、あなたが初めてだよ」
私の制服のリボンの色をご覧になってすぐ、ミュシェッド様は興味深そうに目を細められた。
私より爵位の高い子女たちなんて一年生の過半数だ。ただ彼ら彼女らにはまずは自分の地盤がためを優先したりとかいろいろと画策があったのだと思う。
一年しかいない他国の公爵より、同国の有力貴族への挨拶や三年間を共にする学友を見繕うほうが優先されるのは、当然といえば当然のことだ。
しかし知見を広げよとのお達しで親に入学を許された私は好奇心の赴くままミュシェッド様に一直線。
「マユリカ・バジュラと申します。西の麦畑から来て、あなたに一目惚れしました。ぜひ、私と仲良くしていただけませんでしょうか」
ミュシェッド様はたいそう驚かれていた。
見開くペールグリーンの瞳に私がうつり、ゆらゆら揺れていたのを覚えている。
そして、ミュシェッド様は口に手を当て、声をあげて笑われた。
笑う姿も美しかった。
初対面で告白してくるような不躾な真似が物珍しかったのだと思う。
「もちろんだとも。仲良くしてくれ」
握手をかわし、その御手が、手入れの行き届きながらもしっかりと固くあるのに、私の心臓はおおきく高鳴った。
故郷で農具を扱う民に触れたのと、近しい感触だったのだ。
ミュシェッド様が農具を持つことはないから、それは剣などの武芸を磨いてきた証なのだとすぐにわかった。
この方は、穏やかな容姿だけが素晴らしいのではない。
きちんと地道な努力をなさる方だ。
「ミュシェッド様の生活が落ち着かれたら、お茶にお誘いしてもよろしいですか。私の故郷の小麦を使ったお菓子をご用意いたします」
「それは、こちらからお願いしたいくらいだ。この国の西方でとれる小麦は特に良質だと聞いている。いつでも言ってくれ。必ず時間をあける。楽しみにしているよ」
トドメといわんばかりの殺し文句。
領地の特産品を褒められ、私の体温がさらに上がった。
すぐにお菓子を用意し、ミュシェッド様をお誘いしたら本当に来てくださって、パウンドケーキを召し上がられて、美味しいと微笑まれた。
空から次々に宝石が降り注いでくるみたいだった。
それからというもの私は毎朝ミュシェッド様を見つけては駆け寄ってお話しをして、ミュシェッド様のお時間が許すときには昼や放課後を共に過ごし、こちらの国では入手できないデアル公国の詩集を貸してもらえるまでの仲になったのだ。
「放課後、中庭の噴水前でお待ちしてますね」
「待たせて申し訳ないな」
「学年が違うのだから仕方ありません。それに、ミュシェッド様をお待ちしている時間も楽しいですよ」
ミュシェッド様は待ち合わせ場所に来るときに、いつもすこしだけ息を乱している。
それを喜ぶなんて性根が卑しいとも思うけれど、そう感じてしまうのだから仕方ない。
「あまり許してくれるな。あなたにばかり負担をかけてしまう」
「そういう誠実なところも好きです」
「マユリカ」
たしなめる声音も素敵なのだから手に終えない。呆れたように微笑むミュシェッド様も、麗しいな。
手を振り別れて、私は教室にスキップして入室する。
ミュシェッド様と話すと血行促進になって肌艶が良くなるし、活力も得られる。全人類がこうすべきかもしれない。ミュシェッド様が人類分いてくださったならいいのに。
そう夢想するくらいなので、私はこうしたことも大歓迎な質だ。
「ねえ、マユリカ様。ミュシェッド様とはどのような方なのかお聞きしてもよろしいかしら」
三人ほど束になって身を寄せてきた令嬢たちに、私は胸をはって答える。
「素晴らしい方よ。それにとても気さく。気になさるくらいなら、お声かけなさったらいいわ。あの方は、そうした勇気を無下にしたりなんて絶対にしないから」
「あら、でも……良いのかしら?」
彼女たちは顔を見合わせる。
というより、一歩奥に潜んでいるご令嬢のお顔をうかがっているようだ。
私も存じ上げている。同学年のラルマ伯爵家の姫、エダッド様。たおやかな黒髪と神秘的なペリドットの瞳が美しいと評判である。
いつもすこし困ったように微笑まれているのがなんとも庇護欲をそそり、いつも誰かのそばにひっそりとしていらっしゃる。
かくいう私もなにかあれば声をかけるぞと常々思っていた。たいていは近くの方が先に手を貸していて、それが叶ったことはないけれど。
もしかして、今が好機?
「子爵家の私にも優しくしてくださるのだから、断られたりなんかしないわよ。でもきっかけは大事よね。よろしければ、私が皆様をお誘いする形で場を設けましょう」
エダッド様の眉がかすかに動いた。よし、手応えあり。
「……まあ、ほんとうに?」
「そういうことなら……」
「お願いしましょうか」
「お任せあれ!」
好きな方の布教が出来るのは嬉しい。
さらには、あまり交流のなかった令嬢とお話する機会も得られた。
きっかけをくださったミュシェッド様に感謝せねば。
うきうきした気持ちで一日を過ごし、放課後。噴水前に小走りできたミュシェッド様にそうした場に来てもらえないかと相談すると、彼は珍しく口ごもった。
「あの、どうかなさいましたか? あ、もしかして淑女ばかりだから? そういうことなら、何人か紳士もお呼びしますよ」
「……男子生徒にも当てがあるのか?」
どこか探るような眼差しに、私は根拠もなく胸を拳で叩いた。
「これを機にお知り合いを増やします! ミュシェッド様を気にされていそうな殿方も、目星はつけてますので!」
「……ふふ、そうか。それは頼もしい」
やはり女性に囲まれるのが気になっていたのかな。どことなく、安心されたご様子だ。
けれどまた顎に手を当て、なにごとかの思案をなされる。
「あなたは、そうした場に私を招くのだな」
乾いた呟きに、私は返事を忘れた。
ミュシェッド様は眉を垂らし、気まずげに目を伏せる。
「好意を示されることは多い。なかには、私と過ごす時間を大切にするがあまり、私が他者と交流するのを嫌がる者もいた」
「そうでしたか。私はそうしたことはあまり……ミュシェッド様がこの国との交流を望まれて留学に来られているのが、最初からわかっているからでしょうね」
そのために、いずれこの国を担う貴族たちとの人脈を作るのは大切なこと。
一年しかない時間を、こうして私にだけ割いている現状こそが、恐れ多いことなのだ。
せめて架け橋になるくらいの役目は果たすべきだと思う。
そのようなことを切々に唱えれば、ミュシェッド様は鼻をならすようにして笑われた。
「配慮は嬉しいが、憎らしくもある」
「……私がですが?」
なにかおかしなことでも言っただろうか。
思わず、ミュシェッド様を見つめてしまう。彼からは視線をはずされたままだ。
「私は、マユリカと過ごすこの時間を気に入っている。なにからなにまで、私の都合に合わせてくれる時間だからだな、きっと。あなたがそこに別の人間を招こうとするのが、憎らしい」
ミュシェッド様は自嘲し、憑き物を落とすかのように長く息をついた。
「しかしあなたの言う通り、多くの者と交流を持てる機会はゆくゆくのためとなる。結局は私にとって都合のよい時間となろう。特に下級生との繋がりはほぼなかった」
マユリカには感謝せねばならない、だなんて、もったいなきお言葉だ。
「私にも価値ある時間ですよ。ミュシェッド様と二人で過ごす時間もですし、そこに別の方を招く時間もきっとそうなります」
たどり着いたガゼボは石膏の鳥かごのようだ。一段高いところにあるそれにエスコートを受けながら踏みいる。ひんやりと感じる日陰に、一息つく。
人の目から離れたようで、ほろりと本音が転がるのだ。
「ですが……憎らしいと言われて嬉しいのは、はじめて」
ぱちりと目が合う。
日差しを遮る屋根のあるところまで来て、ミュシェッド様の瞳が陰ってみえた。たぶん、私もそう。瞳孔の開いた瞳を交わすと、細い糸でからめとられるような感覚がする。
その糸を切るように、私は口を開いた。
「ひとまずは本日の時間を楽しみましょう。ミュシェッド様からお聞きするデアル公国のお話しが大好きです」
ガゼボの中にある椅子に腰かけて落ち着くと、ミュシェッド様も嬉しそうに微笑まれ、隣に座ってくださった。
一冊の詩集に頭を寄せ合う。
「お待ちする間にも読み進めてました。ほんとうに花に関する詩が多いのですね」
「デアルは花と妖精の国だからな。季節を問わず、百花繚乱が常に生活に寄り添っている」
「素敵。花畑には憧れがあります。故郷では拓けた場所に植えられるのは麦ですから。もちろんそれも実れば美しい黄金色になりますから好きですけれど」
「黄金の平野か。見てみたいな。反対に、マユリカには我が国の花畑に招待したい」
「ふふ、そうですわね。この目で見られたら、どんな心地がするのやら」
私ごときの身分が国境を越えることなど、おそらくないけれど。
花壇の花を眺めるのとはまた別の、美しき光景なのだろう。
花の詩を指でなぞりながら、私は浴びることなく生涯を終えるのであろう異国の花畑にふく風を想像した。
鮮やかな色彩のにたたずむ銀糸の髪はきっと、夢のように美しい。
「いいなぁ」
憧れは小さな呟きとなって、異国の詩集を手繰る音に染み込んでいった。
※
結果として交流会も成功だった。
ミュシェッド様は多人数の茶会においての気配りも一級品で、参加者の爵位や領地の知識に富んで話題をまんべんなく振るのはもちろん、それとなく参加者の間も取り持ってくれる。
ミュシェッド様が会の中心で、それはずっと変わらないのだけれど、ミュシェッド様の巧みな誘導で隣り合う生徒同士でも会話が弾んでいくのに目が覚める心地がした。
さすがミュシェッド様。
息巻いたところで田舎貴族。こうした大勢の貴族たちの輪に慣れない私としても、学びが多かった。
なにより嬉しかったのは、私の交遊関係に幅が生まれたこと。
入学してからミュシェッド様一直線だったので、正直、同学年かは遠巻きにされてる感覚はあったのだけれど、茶会により距離感の修正がなされた気がする。
「マユリカ様、お聞きになった? 編入生がいらっしゃるのですって」
今ではこうして何気なく話しかけてもらえるのだ。
最初に話しかけてきてくれた三人衆に混ぜてもらい、私は噂話に耳を傾ける。
ブラウンの髪に緑の目を持つシャルロットが、変な時期の編入よね、と首をかしげる。
「入学式から二ヶ月よ。中途半端な気がするわ。遠方にお住みで入学式には間に合わなかったのかしらね」
「なら辺境伯のお家がら?」
金髪に青みがかった灰色の目のルシエルが声を潜める。
「私は男爵とお聞きしたわ」
「そうなの?」
「なんにせよ、二ヶ月分だけでも私たちのほうが学舎に慣れてますから、お困りなら手を貸して差し上げたいわ。私もたくさんの方に助けていただきましたもの」
エダッドが意気揚々と頬を赤らめていた。
入学当初は困ったような笑みが目立っていたけれど、今の彼女には明るい自信のようなものが感じられる。
曰く、彼女もまた茶会でのミュシェッド様の振るまいに感化されたらしい。引っ込み思案だった己を省みて、伯爵家の姫たる意識が強まったのだとか。
誘ってくれたマユリカやそばにいてくれたシャルロット、ルシエルのおかげと、私たちにまで感謝してくださるその謙虚な姿勢に、仲良くなれて良かったと心より思う。
彼女たちの洗練されたたたずまいは日々の潤いだ。この箱庭でなければ、お話しするのも叶わぬ人たちに、私はいまだに不可思議な気持ちになる。
「お茶会にも誘えたら嬉しいですね」
遅れて入学してくる新たな学友に、私も胸を高鳴らせる。
けれど、編入生の姿はなかなか捕まえられず、ただ賑やかな噂ばかりが広がっていった。
「組はわかれているとはいえ同じ寮生活のはずですのに、不思議ですわ。とてもお忙しくされてるみたい」
本日も寮から学舎に向かうミュシェッド様の横を陣取り、他愛のない世間話に花を咲かせる。
二年生であるミュシェッド様の耳にも、編入生の男爵令嬢の噂は届いていたらしい。
それどころか、会話されたこともあるのだとか。
「図書館で手にした本に押し花の栞が挟まれていてね。司書に届けに行くのと、彼女が探し尋ねてきていたのが運良く重なって、話をしたよ」
「素敵な偶然。恋物語の始まりみたい。たとえばその栞も、デアル公国の花が使われていたりして、ミュシェッド様がそれに気づいて会話が弾んだりして」
何気なく口にしつつ、それは妙に私に馴染んだ。そうした光景を、どこかで目にしたような気がする。前世の記憶で似たことがあったのかもしれない。
夕焼けの射し込む図書館で、花の栞を介し始まる恋物語。
あまりにも詩的な始まりにぼんやりしていると、頬に視線が刺さった。
見ればミュシェッド様のペールグリーンの瞳が丸くなっている。
「どうかなさいましたか」
「……いや。まるで見てきたかのようだと思っていた。マユリカの言う通り、デアル公国の花も使われていたものだから」
「まあ! 本の栞くらいのサイズなら、ジュダやパルリの花でしょうか? 小花だけれど鮮やかで、花言葉もよろしいから、押し花にして持ち歩く方も多いと、本で読みました」
濃い紫や赤の花弁を広げるそれらはデアル公国が原産だ。それぞれ、褪せぬ記憶、知性といった花言葉を持つ。
ミュシェッド様がふわりと綻んだ。
「我が国での花言葉まで……よく学んでいるな」
「詩集を読み解くうちに、登場する花のことも知りたくなったのです。ミュシェッド様がお好きなものですから、熱も入りますわ」
「そうしたことなら遠慮せずに言ってくれ。私もいくつか押し花の小物を持ってきている。私の名がついた花もあるよ」
「生誕の花ですね。私が見てもよろしいのですか」
デアル公国では統治する公爵家に新たな子が生まれると、その子の名を冠した花を品種改良によって生み出す文化がある。それが生誕の花。その子の証になる特別な花だ。
「そう畏まることもない。秘しているわけでもなく花は花だ。マユリカが気に入るといいのだが」
「もう大好きですよ。ミュシェッド様の花ですもの。きっと土に深く根差し、茎が太くて、葉が大きくて、可憐ながら大胆に目を引くような……」
まるで、あじさいのような、と花が頭に浮かぶけれど、どうもその花はこの世界のものではないように思う。
なんだか今日は、前世の記憶がやたらと頭を過るようだ。成長するにつれてこうしたことは減ってきていたのに。
……胸騒ぎがする。
「マユリカ?」
心配げな声に微笑みで応じながら、私はどこか落ち着きなく心をさ迷わせる。
ミュシェッド様の前にいて気がそぞろになることなんて、なかったのに。それがまた私を混乱させる。
「マユリカ。顔色が優れないようだ。救護室に行こう」
優しいミュシェッド様が私の肩に触れる。
それには及ばないと、答える前に、柔らかな春の日差しのような声が私たちの間に滑り込んできた。
「ミュシェッド様。ごきげんよう」
振り返れば、越間である薄紅色の髪を揺らした赤い瞳の少女が立っていた。
猛烈な既視感に襲われる。誰だろう。
知らない子。でも、制服のリボンが私と同じ色だ。
「……編入生の……?」
「ごきげんよう。無礼を承知で言うのだが、私たちは先を急ぐ。挨拶ならまた後で」
焦った様子のミュシェッド様に、その方はちらりと私を見た。
可愛らしい顔立ちのすべてを使って不思議そうにされているのに、私は慌てて言った。
「大したことはありません。すこし日差しにやられただけですから」
彼女に向かって私は淑女らしい礼をする。エダッドを真似た優美な仕草になったと思う。
「ごきげんよう。私はマユリカ・バジュラと申します。ミュシェッド様にご用なら、私は先に学舎に向かいますから、お好きに」
「マユリカ。そのような顔色の時にまで私に気を遣う必要はない。共に行こう。あなたが心配だ」
「ふふ、平気ですよ。ミュシェッド様はお優しいのだから……そういうところも好きですけれど。……ああ、ほら。あちらにエダッド様がいらっしゃるわ。私、挨拶してきます」
するりとミュシェッド様から距離を取り、心配そうにこちらを見ていたエダッドの方に駆け寄る。
「マユリカッ」
ミュシェッド様の声が追いかけてきてくださったけれど、どうしてだか、はやく彼女とミュシェッド様を二人きりにしなくてはいけない気がした。
「どうなさったの?」
私を抱き止めるようにして迎えてくれたエダッドに、なんでもないと答える。
けれど彼女の不安は払拭されなかったらしく、私の後ろのミュシェッド様の様子をうかがう。
「あなたがミュシェッド様から離れるなんて」
「やだわ。ずっとミュシェッド様とご一緒できるわけではないのよ」
「少なくとも朝のこの時間はあなたとミュシェッド様の時間なのだって、私たちは思っているわ。入学してからずっとそうだったのだもの。彼女、編入したてでわからなかったのね」
「慰めてくれてありがとう。ほら、行きましょう」
エダッドはまだなにか言いたげに口を開いていたけれど、すぐさまそれを笑みに変えた。
「平気だと思っているのはあなただけみたいよ」
「え?」
後ろから肩を叩かれる。
振り向けば当然のようにミュシェッド様がいた。珍しく、怒ったような顔をして。
「なんで」
「エダッド、マユリカは私が預かる。他のものにもそう伝えてくれ」
「喜んで承ります。友人をよろしくお願いいたします」
恭しく礼をするエダッドから引き剥がされて、私は肩を抱かれたままミュシェッド様に連れていかれる。その足は、教室のある棟ではなく、救護室のある方向に向かっていた。
「……拗ねた態度になってましたか」
気を遣わせてしまった。
肩を落とす私に、ミュシェッド様の声は明るい。
「違う。私が拗ねた」
思わずお顔を見上げると、眩しいほどの相貌がまだわずかに怒っていた。
「弱るあなたを放っておくような薄情ものだと思わないでほしいよ」
「そ、それは、申し訳ありません。なかなか姿を見せられない編入生様がいらしたから、ただ事ではないかと思って」
「栞を拾った礼をと言われたので後日に改めて時間をとる約束をしてすぐに別れた。それだけのことだ……気分は悪くないか」
「むしろいつもより元気になってきてしまいました。ミュシェッド様のせいですよ」
申し訳ないと思いつつ、私を優先してくれたミュシェッド様に、頬が熱くなる。
彼は体調が悪い人を放っておけない、ただそれだけのことなのに。
「このまま救護室に向かっては困らせますね。恋の病に効く薬はありません」
「……恋、か」
ぽつりと呟かれた言葉は雨粒のように私の頬を叩いた。火照りが、そこだけ消え失せる。
「ミュシェッド様?」
ミュシェッド様が、ペールグリーンの瞳を細め、歌うように言う。
「それが本当に恋ならば良いのにな」
柔らかな旋律は私の胸を深く刺した。
「……恋ですよ。私はあなたをお慕いしています」
どうして急に、そのようなことを言うのだろう。それも、すこし楽しげに。
ミュシェッド様は星に手をのばす子どものように笑いながら、私の肩をぎゅっと抱き寄せる。歩調が乱れ、立ち止まった私に彼の影がさした。
「だとしたら、私を置いて去っていこうとしないでくれ」
私の髪に、肌に、含ませるように囁かれ、私はうまく頷けなかった。体が石のように重たく感じる。
私が置いていくなんて、そんな言い方はずるい。
「置いて去るのは、あなたでしょう」
たった一年。
たったそれだけの恋慕。
そうであるはずなのに、彼は美しく笑うのだ。夢をばらまくように。
「やはりそこが気がかりだったか? けれど、私のやり方とは違うな。別れるくらいならば、拐っていくよ」
鐘の音が遠く聞こえる。授業が始まってしまった。私たちは取り残されている。救護室でも教室でもない道半ばに、二人で。
「マユリカ」
ミュシェッド様が言葉だけで私を揺るがす。
「表立った発表はまだだが、私がこの国での一年を平和に過ごせば、来年はこの国からデアル公国への留学生を募ることになっている」
「……もう一年、ミュシェッド様と過ごせるということですか? ミュシェッド様の母校で?」
「そうだ。選考基準はいくつかあるが、デアル公国の文化に興味を持ち、自ら進んで学ぶような生徒ならば歓迎しよう」
一年後。私はなにも考えていなかった。
ただミュシェッド様といられる一年を大事にしよう。大事にしてもらおうと、そんなことを考えるばかりで。
「……いいの?」
両親に学園への入学を勧められた時とも違う感情が私の胸に渦巻いている。
「花畑に招きたいと言っただろう?」
「でも、どうして私を?」
「どうしてと言われても弱るな。あなたが輝いて見えるのだ。平たく言えば、懸命に好意を告げてくる相手には絆されるものということなのだろうが……ああ、そうか。私の落ち度だな、肝心なことを伝え忘れていた」
ミュシェッド様は深く息を吸い、細く吐き出して、緊張したように瞬く。
「私もあなたが好きだよ。……マユリカが嫌でなければ、私の国に来てほしい」
照れた顔を恥ずかしそうに歪めて、本当ならこういう時にも花を渡すものなのに、と呟くミュシェッド様が、私にはなんとも意地らしく思えた。
けれど私は、どこか、冷静なままでいた。
「私、即答はできませんよ。子爵の次女だし、成績が特別に良いわけではないし。ミュシェッド様が推薦してくださっても、留学生の形をとる以上は学園に認められねばなりません」
下手をすれば外交問題になりかねないのだから、学園側も慎重になるはずだ。
しかしそれで選ばれたのなら、この国の最高教育機関であるユエニ学園の後ろ楯を得てデアル公国に行き、交換留学生の立場で君主の血筋たるミュシェッド様の近くにいることができる。
「あなたのその冷静さもまた私は美点だと思っている。存分に迷ってくれて良い」
「ありがとうございます。……私が選んでもらえるかはわからないけれど、できる限りのことはしたいとは思ってます。……だから、まずは授業に行かなくちゃ! サボタージュなんていけません!」
「ははは、そのとおりだな。ところで、マユリカは三半規管に自信はあるか?」
「え、どうでしょう。領地では馬にも乗りますから、そう弱くはないかと」
「では、これを腰へ」
ミュシェッド様はご自身の上着を私に手渡した。訳もわからず、腰に巻いてみる。
「こうですか?……うわっ」
体が浮いた。
ミュシェッド様に抱き抱えられている。
「ミュシェッド様!?」
「これくらいはさせてほしいな。これでも、気が動転している。告白したのなんて初めてだ」
「そんなの! 私もです!」
その首に腕を回す。
告白。そうだ、今、私は告白された。
留学の話に気を取られかけていたけれど、それってすごいことじゃない?
「あ、あ、だめ。今さら汗がでてきちゃって、だめです、私、汗……!」
「遠慮せずに身を任せてくれ。ほら、揺れるよ」
私を抱えたままミュシェッド様が歩きだす。
混乱が最高潮に達して、なんだか可笑しくなってきた。
「わ、……ふふ、あはははは。すごい! ミュシェッド様、すごいです」
私は声をあげて笑いながら、ミュシェッド様にすがりつく。
「……ほんとうに目指しますからね」
「待ってる」
私に、学園での新たな目標ができた。
※
私の前に編入生が立ちはだかったのは、その日の放課後のことだった。
図書室に向かう間に、薄紅色の髪を持つ彼女は花咲くように立っている。
「ちょっと来て」
言われるがままについていって、人気のない校舎裏につく。
そこで唐突に彼女は切り出した。
「あなた、転生者?」
「てんせい……?」
「この物語の記憶があるのかってきいてるの」
「すみません、どの物語だかもわかりません……」
彼女は、ふっと息をついて、私をまっすぐに睨んだ。子猫の威嚇のようだ。
「ならいいわ。ミュシェッドの優しさに勘違いしないでよね。あなたは正ヒロインじゃない、負け確ヒロインなんだから。体調には気をつけなさいよ」
「ありがとうございます。もう元気になりましたよ」
「そうなの? 良かったじゃない。……別にあなたの心配なんてしてないけど!」
「え!? す、すみません!」
戸惑う私を残して、彼女は颯爽と去っていった。わざわざ体調を心配しに来てくれたのか、そうでないのか。複雑な方なのかもしれない。
それにしても、正ヒロイン。負け確。
なんだか、馴染みがあるような、ないような。記憶の蓋が開きそうで開かない。
まあ、大事なことならそのうちに思い出すだろう。
気を取り直して、私は図書室へと足を向けた。安直だけれど、まずは成績良好をアピールすべく、勉学に励むことにしたのだ。
そうして一年後。
私は彼の国に行く。