epilogue-1:無職、やめてみた。
あれは、やけに寒く感じる春の日だった。
サイレンの音、飛び交う人々の声。
そのどれもが遠のいていくように感じた。
意識も、視界も、記憶も。
そのどれもに霧がかかっていくように見えた。
1つだけ、おぼろげに理解している事があった。
『俺、何も成し遂げられないまま死ぬんだな…』
時は2025年、雪も溶け、桜の木も新たな季節に期待と蕾を膨らませるようなある日の密室から。
俺は鶴屋 将生。
30歳、無職、天涯孤独。自分の部屋という城に住む王である。
働く気はまだない。
いや、未だ無いと言うのが正しいのかもしれない。
社会から隔絶された、掃溜め以下の王である。
普段通り昼前に目を覚まし、決まったプログラムのようにPCの電源を入れて、モニターに目を向けた。
そして気づく。
「うわー…オンライン潜れねえじゃん」
最近のゲームはインターネットに接続する権利を買う必要があるのだ。無論、俺も買っているわけだが…
不運なことに、昨日付で期限切れらしい。
更に気づく。
我が城で唯一手にする事を許された剣、煙草を切らしていたのだ。
そして決断する。いや、させられたとでも言うべきか。
「コンビニ行くかあ…」
外はまるで別の世界だった。
最後に城を発った1年前から見ても全く別の街かと思うような景色と柔らかな春風が頬を掠める。
幼い頃に通った駄菓子屋は鉄骨の骨組みとフェンスに変わり、公園の遊具には使用禁止の張り紙と黄色いテープ。
変わる世界に置いてかれた男が1人、唯一不変の汚点なのは言うまでもない。
我が城を一歩出た途端、ゲームで積み上げた実績も権威も意味を成さぬものとなるのだ。
裸の王の完成である。
息も絶え絶え、自身の運動不足とアスファルトの硬さを嘆きながら目当てのコンビニへ辿り着く。
「用だけ済ませてすぐ帰ろう…」
無職という生き物は人目を怖がる習性があるものだ。
俺然り。
徒歩10分の重労働に誇りを見出すような劣等感の塊にとって、長居する事はリスク以外の何物でもないのである。
男鶴屋、いざ入店。
強烈な後押しを受けて。
王の凱旋は、ド派手な騒音と共に。
一瞬の無重力、舞い上がるガラス片と棚、値引きされた菓子。
俺は見知らぬ天井と邂逅した。
体は動かず、節々に伝う液体の感覚だけが鮮明だった。
そして俺は呟く。最早声にすらならないような魂の叫びを。
「あ、俺…こんな形で無職やめるんだな…」