7話
屋上に足を踏み入れると、冷たい風が悠真の頬を撫でた。午後の日差しが校舎の古びた手すりに影を落とし、どこか懐かしさを誘う。
悠真の視線の先には、ぽつんと佇む春花の姿があった。
彼女の長い黒髪が風に揺れ、光を受けてきらめいている。
遠目にはまるで彫刻のように美しく、だがその表情はどこか硬かった。
悠真は胸の奥にざわめきを感じながら、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄った。
春花は気づいていた。悠真が近づいてくる音がするたび、彼女の肩が微かに震えた。だがその動きはすぐに消え、代わりに彼女は悠真を真っ直ぐに見つめた。悠真はその視線を受け止めきれず、ふいに目を逸らした。
視線の交差があまりにも重く、彼の心を縛り付けたのだ。
「何でここに呼んだんだ?」
悠真が最初に口を開いた。その声は少し硬く、どこかよそよそしさを含んでいた。
春花はしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「特別な話をするには丁度いいと思ったの。」
「特別な話?」悠真は眉をひそめ、春花の言葉の裏を探ろうとした。その途端、彼女がほんの少しだけ笑った。
「てか、屋上なんて入れたんだな」
「ええ、今日は特別よ。四条家の力を使えば、このくらいはね。」
彼女はさりげなく言ったが、その言葉にはどこか含みがあった。
悠真は息を飲んだ。四条家――彼女の家の影響力を改めて感じさせられた瞬間だった。どこか現実離れしたその環境を、自分とは違う世界のものだと頭では理解していたはずなのに、目の前の春花の姿は妙に現実感を持って迫ってくる。
「本題に入るわ。」
春花はそう言うと、一歩悠真に近づいた。その動きには緊張が感じられたが、彼女の瞳には強い意志が宿っていた。悠真は息を詰め、彼女の次の言葉を待った。
だが、次の瞬間、彼女が見せた行動は悠真の予想をはるかに超えていた。春花は深々と頭を下げたのだ。
「先日は危ないところを助けてくれて、本当にありがとう。」
彼女の声は静かで、だがはっきりと響いていた。
「先日?」
悠真は思わず問い返した。記憶をたどるうちに、ふとある場面が浮かんだ。夕暮れの路地裏、数人の男たちに絡まれていた気品のある女子高生。その姿が頭に蘇る。
「まさか……あの時の高校生ってお前だったのか?」
悠真の声には驚きが混じっていた。
春花は少し頬を赤らめながら顔を上げた。
「ええ、そうよ。まさか気づいていなかったなんて…」
悠真はしばし呆然とした。確かにその場の記憶は鮮烈だったが、彼女がその人物だとは全く考えもしなかった。
「あの時は必死だったし、それには春花さん、パーカーのフードを深く被っていたから。」
悠真は照れ隠しのように言葉を紡ぎ出した。
「そうだったわね。」
春花は少し笑った。続けて、
「本当にありがとう。助けてもらったからお礼をちゃんと伝えたかったの。ここからが本当の本題なのだけど、お礼をさせて欲しいの。」
春花はそのまま、真剣な眼差しで悠真を見つめた。彼女の表情にはどこか照れくさい感じもあった。
悠真は少し困ったように首を横に振った。
「お礼が欲しくて助けたわけじゃないよ。」
「それでも、私としては、何もお返しせずにいるのは気が引けます。」
春花は少し困ったように微笑んだ。
「お礼って、そういうものでしょ?」
その言葉に、悠真は少し考え込む。春花は四条家の娘だが、今の彼女は普段の威厳を崩して、まるで一人の女の子のように見える。
悠真は脳みそをフル回転させて思考を巡らせた。そこで、一つだけいい案を思いつくことができた。
「じゃあ、春花を呼び捨てで呼んでもいいか?」
悠真の提案に、春花は驚きの表情を浮かべたが、すぐに軽い笑みを浮かべて頷いた。
「え?それだけ?」
「いや、そんなに大したことじゃないけど… 春花さん”って呼んでるのもなんだか堅苦しくて。」
春花はちょっと考え込み、やがて軽く肩をすくめた。
「まあ、別にいいけど…それでお礼になるなら、どうぞ。」
悠真は少しホッとしたように、軽く笑いながら言った。
「ありがとう、じゃあ、春花。」
その言葉を口にした瞬間、春花の顔が一瞬だけ驚きに変わり、すぐに照れたように笑った。
「ふふ、なんだかちょっと新鮮ですね。」
「まあ、少しは距離が縮まった感じだろ?」悠真は少し照れながら言うと、春花は軽く笑って、頷いた。
「それじゃ、私も悠真って呼んでいい?」
春花は少し遠慮がちに言うと、悠真はすぐに答えた。
「もちろん、全然構わないよ。」
春花はその答えに嬉しそうに笑い、少し小さな声で言った。
「じゃあ、悠真。」
その名前を呼ばれると、悠真の胸の中で何か温かいものが広がるのを感じた。春花がまるで普通の友達のように接してくれるその瞬間が、なんだか不思議な気分だった。
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、二人の間に流れていた穏やかな空気が少しだけ崩れる。
「もうこんな時間ですか。授業が始まってしまうので早く行きましょう、悠真!」
春花は弾けるような笑顔を見せた。悠真はつい笑ってしまった。
「うん」
悠真はその後ろを歩きながら、心の中でふと、春花が少しだけ普通の女の子に戻ったような気がした。普段の威厳や家のしきたりから解放された瞬間を見たようで、なんだか心が温かくなった。
――これが、春花が初めて心を開いてくれた瞬間だった。