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ラヂヲ一〇〇年

作者: 山谷麻也

 ◆弱者の味方

 視覚障害が進み、ラジオが手放せなくなってきた。

 晩酌時には、テーブルの上にスマホが置いてある。radiko(ラジコ=インターネットでラジオが聴けるアプリ)を聴くためだ。


 お気に入りはニュース、朗読、演芸、スポーツなど。音質もまずまずである。

(結構な時代になって来た)

 と感慨を新たにする。 


 ◆真空管時代

 先日、大相撲を聴いていて

(昔、同じような光景があったなあ)

 と思い出したことがある。


 当時は真空管ラジオだった。

 四国の山奥なので、一、二局しか入らない。しかも、電波状態は悪い。スピーカーに耳を付ける。真空管が熱を持つので、夏などは玉の汗をかいてかじり付いていた。

 若乃花と栃錦の取り組みだったと記憶している。レース漫画『少年№1』(関谷ひさし原作)のラジオドラマにも、胸をワクワクさせたものだった。


 ◆トランジスター 

 これらは淡い思い出である。しかし、強烈に残っているエピソードもある。


 ラジオはトランジスター時代に入っていた。炭焼きをしていた長兄の手伝いに、時々駆り出されていた。長兄は山でラジオを流しながら、仕事をしていた。


 その年、夏の甲子園の優勝校は高知高校だった。

「祖谷口駅(土讃線)に行っとれば、優勝旗持って通るわ」

 と長兄が教えてくれた。

 ラジオの放送が急にリアリティを持った一瞬間だった。 


 ◆お払い箱

 高知高校の優勝は一九六四年(昭和三九)、日本中が東京オリンピックで沸き返り、カラーテレビが急速に普及していた時期だ。ラジオ関係者は危機感を募らせたに違いない。


 新しいメディアが登場するたびに、古いそれは歴史的役割を終えたかのように言われる。「炭焼き小屋論」というのがあり、細々と余命をつないでいく運命とされた。BS放送が始まった時も、ローカル局は戦々恐々とした。 


 ◆したたかもの

 ラジオの話に戻ると、高校一年の冬(一九六八年)、クラスメイトが

「深夜放送で面白い歌がかかっている」

 と情報を入れてくれた。


 筆者は下宿していて、勉強一筋。ラジオはなかった。夜、彼の家に行き、ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』を初めて耳にした。

 どっこい、ラジオは若者に食い込んでいたのである。 


 ◆制作者の立ち位置

 二〇二五年、日本のラジオは放送開始一〇〇年を迎える。

 コンテンツに限って言えば、関係者の努力に敬意を表したくなるものと、安易すぎるものがあるような気がする。


 放送番組審議会のようなことを言っても仕方がないので、ラジオはいろいろな視聴者によって支えられ、発展を遂げてきたメディアであることだけは強調しておきたい。今日の社会において、ラジオの重要性は高まる一方である。くれぐれも、立ち位置を間違えないように願いたい。

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