第十話 夜の邂逅
静かな夜の帳が王城を包み込んでいた。天頂には蒼白い月が浮かび、穏やかな風が涼やかに吹き抜ける。遠くで虫の音がかすかに響く中、王城の一角にあるテラスには、ひとりの男が姿を現した。
クフ―リは大きく息を吐きながら、夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。昼間の熱気がすっかり和らぎ、心地よい冷気が頬を撫でる。彼は欄干にもたれかかり、眼下に広がる闇の景色をぼんやりと眺めた。
「まったく、宰相殿の勉強会は厳しすぎる……。」
小さく呟き、こめかみを揉む。ウォーレン宰相による講義は、政治・外交・国政のあらゆる分野に及び、今日の内容は特に難解だった。文字通り頭が煮詰まり、もはや言葉さえもまとまらなくなってしまったのだ。
気分転換をしようと、夜風に身を任せていると、不意に誰かの気配を感じた。微かな衣擦れの音とともに、柔らかな声が静寂を破る。
「……貴方も、涼みに?」
その声に振り向くと、月明かりの中に佇む一人の女性の姿があった。
「フィーネ殿……こんな時間にどうしたんだ?」
クフ―リは少し驚いたが、彼女の穏やかな表情に警戒を解いた。フィーネはゆったりとした足取りで近づき、優雅な仕草で欄干に手を添えた。
「眠れなくてね。夜の空気を吸えば、少しは気が晴れるかと思って。」
彼女の横顔は月光を浴びて、淡い銀の輪郭を描いている。クフ―リはその静かな美しさに、ふと目を奪われた。
「そちらこそ、夜更けに王がうろついていていいのかしら?」
「はは、勉強会を抜け出してきたんだ。頭がいっぱいになってしまってね。」
クフ―リは苦笑しながら答えた。フィーネは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐにくすりと笑った。
「王様が勉強を嫌がるなんて、少し意外ね。」
「嫌がってるわけじゃないさ。でも、覚えることが多くてなかなか大変だよ。」
彼は空を仰ぎ、しばしの沈黙が流れる。夜風が二人の間を優しく撫でるように吹き抜けた。
「……そういえば、フィーネ殿は王宮に来る前に、どんなことを学んできたんだ?」
「そうね……狼邪国では、使者としての務めを果たすため、歴史や文化、武術、戦略の基礎を学んできたわ。」
「武術まで?」
「ええ。護身のためにね。」
フィーネは袖の下から小さな短剣を取り出し、見せるように軽くひねった。刃が月光を受け、鋭く煌めく。彼女はそれを滑らかな動作で収めると、クフ―リを見つめた。
「……すごいな。」
クフ―リは素直に感心した。
「貴方はどう? 王として、何を学ぼうとしているの?」
フィーネの問いに、クフ―リはしばし考えた。
「……俺はまだ、自分がどんな王になるべきかも分かっていない。でも、民が安心して暮らせる国を作りたいとは思っているよ。」
「ふふ……いい答えね。」
フィーネは柔らかく微笑んだ。
「貴方は、不思議な王ね。凡庸だと聞いていたけれど……本当にそうかしら?」
「さあ、どうだろうな。」
クフ―リは冗談めかして肩をすくめたが、フィーネの言葉がどこか嬉しくもあった。
「貴方と話していると、意外と退屈しないわ。」
「俺もだよ、フィーネ殿。」
二人は静かな夜の風に吹かれながら、しばらく共に夜空を眺めていた。
──王と使者の間に、ほんの少しの親しみが芽生えた夜だった。




