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ワタシは天国に行けないけれど、天使みたいなアナタに逢えたから良かった。

イスラリアン帝国の城の地下の牢の中、赤い髪をした端正な顔の女が手首を天井からぶら下がる形で鎖に繋がれて立っている。


炎を思わせる癖のある背中まである髪も、今は血と泥で汚れていた。


その姿は凄惨な拷問により身体中から血を吹き出し石の床を血溜まりに染めていた。


イスラリアン帝国の第3王子、アクターが表情の薄い顔で淡々と女の身体を拷問用の針で貫いていく。


「女、貴様が我が国に潜り込んだ密通者なのは調べがついている、そろそろ口を割らぬなら死ぬ事になる。」


両腕をアクターの身体から出た影に貫かれながらも少女は言う。


「…っくっぅ…お…ワタシは…知ら…無い…ぐぅっ!」


何度もアクターにより身体を針で串刺しにされても未だ少女は、情報を口にしない事に苛立ち、更に腕に突き刺す針を太くする。


「ぐっぅっ!」


密通者の嫌疑を掛けられた少女は悲鳴を上げずにアクターから与えられる苦痛を押し殺そうとする。

その口も血で染まっている。


自力で立ち上がる事も出来ず鎖で繋がれた手首から先は鬱血して紫色に変色し始めていた。

もうとっくに気絶しても可笑しく無い、そんな状態の中でも少女は意識を保っていた。


「余程、訓練されていると見た。仕方ない、もう死ね!」


アクターの痩躯の身体を包む黒衣から新たな針が取り出されると、少女の心臓を突き刺そうとした時に声が響いた。


「密通者の尋問も碌に出来ないなんて本当に、私は出来損ないの兄弟に囲まれて幸せ過ぎて自害したくなるねえ。」


その声の冷たさにアクターの身体が硬直した、白い表情の薄い顔を微かに歪ませて振り返る。


「ジル兄様…。」


松明の灯りしかない薄暗い牢の外に、闇と同化した様な男が立っていた。


やけに整った白い顔だけが浮かんでいる。


佇む姿は悪魔か死神の様に見る者に恐怖と不安を与える、イスラリアン帝国第二王子ジルが其処にいた。


「他国との密通者を捕まえて君が直接尋問していると報告を受けて来てみたら、…此れはどう言う事だい?尋問と拷問の区別もつかないもなんて本当に君は考えなしの狂犬だね。もう少し勉強してくれないと兄の私が恥ずかしいな」


アクターと似た冷たい表情の無い整った顔で、侮蔑を言葉に含ませて言い放つ姿には弟を気遣う情は皆無で、言葉と同様に美しい声さえ冷たいく鋭い刃物のようだ。


「僕は…っぐっぅ!!」


反論しようとしたアクターを、無言で蹴り上げる。薄いまだ少年の身体は壁まで吹き飛んだ。


悪魔王子と呼ばれる優秀過ぎる兄に、兄弟愛など存在しない。


あるのは、主従関係のみである。


「言い訳は許さないと、いつも私は君に教育している筈だよ。アクター」


ジルはそう言って悪魔の様に歪で美しい笑みを浮かべたが、視線は鎖に繋がれた女にと移行する。


炎みたいに赤い髪をした痩躯の女…血と泥で汚れているが、破れた服から覗く身体は女にしては鍛えら過ぎていた。

腕や足をアクター愛用の無数の針でズタズタにされて、今は赤く血で染まっていた…。


此の儘では後半刻もすれば死んでしまうだろうと、ジルは推測する。


その時、赤い髪の女と太宰の視線が絡み合った。


こんな状態でもまだ端正な顔で太宰を見つめている…睨むのでも恐怖に怯えるでも無い、へり下る事の無い、知性を宿した凪いだ海の様な静かな青い瞳で。


年齢的には、まだ少女といった頃合いらしい。


ズクリ…


ジルは心臓を素手で掴まれた、そんな強い衝動を覚えた。


此の赤い髪の少女は只の密通者では無いとジルは確信する。


側に仕えていた秘書官のサルートに指示を出す。


「サルート、この男を医師の元へ連れて行く。絶対に死なす事は許さないよ。」


冷徹に命令しながら上着のポケットから鍵を取り出して、血塗れになった手負いの獣みたいな少女の拘束を解いた。


崩れる様に男が倒れるのを、ジルが容易く受け止める。


「直ちに医師に連絡を。」


サルートは護衛の者に指示を出し、少女を抱きかかえたジルに声を掛けた。

血だらけの少女を抱えて、ジルの首や手の白い絹のシャツは赤く染まっている。


「ジル殿下、其の少女は他の者に運ばせましょう。」


サルートの言葉を聞いて、兵士がジルから赤い髪の少女を受け取ろうとして、睨まれ立ちすくんだ。


「必要ないよ、彼は私が運ぶのだから。さて早く行こうか。」


そうジルは言ってサルートと兵を従えて、牢から出る。


その後ろ姿に、残されたアクターは手を伸ばして聞いた。


「何故、ジル兄様はそんな女を…。」


然し其の手を取る事も質問の返事も無い。


兄のジルは地下牢から姿を消してしまったのだ。


痛みに耐える様に、アクターは唇を噛みしめた。


ジルは自分の服が血で汚れるのも構わずに、赤毛の少女を細い腕に抱きながら医師の元へと歩みを速める。


幼き頃から他の兄弟よりも飛び抜けて優秀なジル•イスラリアンは、10歳の歳には軍事の一端を担い、内政にも席を置いていた。


神童と言うには余りに聡明で冷酷すぎて、人から悪魔と恐れ恐怖される存在だ。


事実、今までジルの存在を抗うか媚びるか怯えるか…そんな目でしか見られた事など無かった。


だからなのか、此の今にも死にそうな少女の孤高なる瞳を見た時に初めて胸が締め付けられ、魂が震えた。


この赤い髪と血に塗れた少女を欲しい。


そうジルの魂が告げるだから助ける。


聡いイスラリアン帝国の第2王子の勘は、外れた事が無い。



 人の肉を断つ感触、噴き出す血潮の鉄の錆びた様な臭いと熱さ。


其れがアサミの全てだった。

世界は死が全てだった。

其れ以外の生き方を選択する自由も、可能性も与えられる事も考えた事も無かった。



アサミは暗殺を生業としていた。


全てが過去形なのは、アサミは暗殺稼業から足を洗って、このイスラリアン帝国に密入国して来たからである。


アサミは異能力の持ち主だった。数分後の出来事を予見する事が出来る能力は暗殺と非常に相性が良かった。


だから、アサミは裏の世界では優秀な暗殺者として有名であった。

しかし心は常に虚しさを抱えて生きていたのだ。


アサミは偶然、とある本に出会う。


文字の読み書きと簡単な算数だけは、単身で旅をするのに必要だからと教えられていたから。


言葉も上手く使えないアサミには本が唯一の趣味で娯楽だったのだ。


其の本はアサミの世界を広げてくれた。


渇いた心の虚しさに、一粒の夢を齎らす。


『何時か陽の当たる世界で生きる』


その時は幼い仲間と共に、何処か景色の良い所で家を借りて平和な日々を送りたい。だから、幼い仲間の為にもどんな人間も殺した…自分達の未来の為に人を殺す。



その度に、アサミの名前は有名になっていく。


いつの間にか、どんな要人でも暗殺出来る「予見のアサシン」との不本意な二つ名迄付いていた。


ある国の大臣の暗殺に出掛けたアサミは、アジトに戻ると大切な幼い仲間達が無残に殺戮されていたのだ。

そして幼い屍体を、全て木に吊るされ風に揺られていた。


耳を鼻を削がれ、手足も捥がれた幼い仲間達の変わり果てた姿にアサミは何が起きているのか現実を受け止められず、然し誰かが叫んでいる声は聞こえた。


獣の咆哮の様な叫び声は自分の声だった。


大切な仲間達の残酷すぎる躯を目の当たりにして、狂乱し嘆き悲しむアサミの姿を一人の老人が見ていたのだ。


アサミに同情した老人は、幼い仲間達を殺戮した相手を教えてくれる。


身寄りのないアサミ達を引き取り、暗殺者として育て上げた親玉であると…。


アサミが敢えて、殺しの仕事を一身に引き受けていた事が裏目に出た結果の事だった。


幼い仲間達は役に立た無い穀潰し、そう親玉の目には映ったのだろう。


アサミが依頼を受けた仕事で、仲間達を養っても充分すぎる…それ程に贅沢な暮らしをしていたのに、其れでも欲深い親玉は足りなかったのだろう。


だからアサミは其の足で、親玉の屋敷に乗り込み全てを殺戮した。


親玉だけで無く、見張りも用心棒も召使いも愛人も妻も子供も全て殺戮した。


また虚しさが胸を支配する。


敵を討ち、血に染まった身体で仲間達を葬い国を出た。


だけどもう、アサミには行きたい場所など無かった。


イスラリアン帝国に潜り込んだのも理由など無かったのだ。


其処で目的も無く小さな部屋を借りると、日々を虚を抱え何もせずに生きていた。


すると、憲兵に乗り込まれたのだ。


他国との密通者の容疑で連行された、アサミの身分証明書は出鱈目過ぎて入国された時から怪しまれていたらしい。


尋問されても密通などしていない、知らないものは答えられる筈も無いから知らないとしか言わない。


ならば、この国の前は何処にいて何をしていたのか?そう訊かれても答えられる訳が無かった。


アサミは暗殺者で、親玉とその関係者を皆殺しにして密入国したのだから。


皮肉にもアサミの態度を、訓練された密通者だと受け取られてしまう。


城の地下に連れて行かれて、腕を鎖で繋ぎ天井から吊り下げられた。

アサミが足を着けられるギリギリの位置にと調整されて…尋問と云う名の拷問が始まった。


イスラリアン帝国の第三王子だと名乗った、豪奢な黒衣に身を包んだ痩身の少年の面影を残す若い青年は、アサミを様々な拷問器具を使用しながらジワジワと嬲るように傷付けていく。


鋭く磨かれた鉄の針で身体を貫かれる痛み痛み痛み痛み痛み…。


だがアサミは闇の世界ではトップクラスの暗殺者であったから、拷問などで自失しない訓練を施されている。


皮肉だと思ったが散々、人を殺した自分の末路に相応しいとも思った。

この苦痛は今迄の罰なのだと、甘んじて受け入れた。


逃げようと思えば幾らでも逃げられたのに、この牢に来ればどうなるか分かっていたのに、逃げなかったのはそう云う事だ。


アサミは自分が死に場所を探していた事を知り、受け入れたのだ。


もう目の前の男が業を煮やしてトドメを刺そうとした、その時に若い身なりの良い男が現れた。


気配を消しながら突如、現れたその男は非常に美しい顔をしていた。


その身を第三王子と同じ豪奢な黒衣を纏った、男の目は…暗殺をしていた頃のアサミと同じ目をしていたのだ。


虚と絶望に満ちた瞳を、何処か醒めた気持ちで眺めると男の瞳が揺れる。


アサミの腕の戒めていた拘束を解くと、もう自力では立てずにいたアサミは崩れ落ちながら、意識を喪失してしまった。


以前の自分と同じ、地獄の深淵の様な男の名前はジルと呼ばれていた…。



 王宮内の医務室に薄汚れた赤髪で血塗れた少女を、イスラリアン帝国第二王子ジルが自らの手で抱きかかえ運び込む。

その異常事態に、皆がザワついたのは仕方が無い話である。

ジルは幼少期から利発と呼ぶには、余りにも無情で冷酷な人間だったのだから。


顔色も変えること無く、自分を産んだ母親を殺した話は有名である。


頭の良い人間が、必ずしも頭の良い子供を産む訳では無い。その見本の様な女性だったのが、ジルの母親であったのだ。


妃は政略結婚で、文豪帝国の王であるモーリス・イスラリアンの元に輿入れして来た。

悲劇はそこから始まっていたのだ。何せ王は十二歳以下の少女しか愛せない幼女趣味だから、正常な夫婦生活など当然ある筈も無かった。


仕事の一環として三度の夫婦の営み三人の王子を産んだ妃は、王には「用済み」の邪魔者でしかなく城の奥にと追いやり自分は美しい美少女を側に置き溺愛していた。


生まれてからは皆に愛されて育てられた妃を、構うものなど王宮には存在しなかったのだ。

夫は自分に興味を抱かずに幼女にしか関心を示さない…そんな現実に妃は次第に心の病を患っていく。


寂しさを埋める様に生んだ子供には興味を持たず、国の国母としての役割りさえも果たさない。ドレスや宝飾品を買い漁り遊行に耽る母親を「不経済だ」と言ってジルが切り捨てたのである。


ジルが8歳の時の出来事だった。


自分を産んだ母親の返り血に染まるジルを、責めるどころか父である王はその王子の判断を手放しで褒め称えた。


浪費家の妃を疎ましく思っていたのだから。


その出来事からよりジルの適正にあった、帝王学を施して一人の悪魔が造り上げられたのだ。


悪魔王子と呼ばれる様になった、ジルの策略や手で数えきれない程の人の血が流れてきた。


そんな悪魔王子が血相を変えて、医務室に飛び込んで少女を絶対に殺すなと医師達に命令したのだった。


「彼女を助けられない様な無能は要らないよ?命が欲しかったら精々頑張り給え。」


そう告げて医務室を後にした。


ジルは自分の執務室に戻り、席に座ると秘書官のサルートに話しかける。


「サルート、最近「予見のアサシン」の話を聞かないね。」


「…元締めの屋敷が何者かに先月、襲撃されています。」


有能で察しの良い秘書官は信じられないという表情になるが、ジルは構わずにあの静かな凪いだ海の様なの青い瞳をした炎みたいな赤い髪の少女の入国記録を眺める。


「偶然にしては…余りにも合致しているねえ。」


上流階級を騒がしていた暗殺者。


どんな警備の厳しい屋敷や城でも、関係なく対象者を仕留めると評判で、暗殺者は噂では予見する異能力の持ち主だと、まことしやかに噂されていたのだ。


何時しか「予見のアサシン」と呼ばれるようになり、ジルも何度か依頼した事がある。


先月も不穏な動きをする大臣を始末するために元締めの男に連絡を取った所が、男の屋敷は死体の山が積まれていたと報告を受けていた。


ジルの弟であるアクターの苛烈な拷問にも屈することなく自分を保ち続けていた、あの端正で静かに死を待つ獅子の様な少女の姿を思い出す。


赤い髪炎みたいな髪を持つ少女の、美しいあの瞳を、もう一度見たいとジルは仄暗い熱情を感じながら強く想う。


「うふふふ…まさか、件の暗殺者があんな美しい花だったとはねぇ…」


自然と緩む顔を…側近達は青を超えて白くなった顔で必死に身体ごと見ない様にと震えているのは、ジルには関係ない話である。





 目を開けると、天国の鮮やかで美しい光景が華やかな色彩で広げられていた。


澄み渡る真っ青な青空に金の髪、銀の髪をした美しい天使達と薄い衣と装飾付けたベールを纏う女神…。


アサミは、其の艶やかなる光景に見惚れていた。


産まれてから、此の様な美しい物を見た事が無かったのだから。


闇と血と薄汚れ埃の舞う、洞窟みたいな寝ぐらしか知らなかった。


「全く、此の部屋の天井画を描いた画家は皮肉屋だよねぇ。

天国は地上に在らず、私達の元には決して訪れない、そう表現しているのさ。」


不意に暢気な男の声が聞こえて、其方に身体を向ける。


その時、アサミの身体中が焼け付く様な鋭い痛みに襲われる。


「ああ、未だ動くのは得策では無いねぇ。何せ君は私が助けなければ、死んでいた身の上なのだから。安静にしないと傷が塞がらないよ。」


しかし、悲鳴も上げないとは随分と我慢強いんだねぇなどと言う声には敵意は感じられず、どちらかと言えば柔らかい響きがする。


蒼黒の髪に白い美しい相貌の男が、大きな飾り窓を背に椅子に腰を掛けてアサミを眺めて居た。


線の細い姿は中世的で、化粧はしていないだろうがアサミが今までで見た女よりも美しいと思った。


小さな机には夥しい紙の束が幾つも積み重ねられて、今にも崩れ落ちてしまいそうな程である。


見るからに上質な黒い軍服の様な特殊な上着を纏い、白いカッターシャツをきちんと着こなす姿は明らかに上流階級の者である気品が感じ取れた。


其れに…目がアサミが気を失う前に見た儘に絶望と虚に満ちた目をしていたが少し様子が違う。


何処か、目の光に違う物が混ざっているのだ…熱の様な何かが。


アサミがじっと美しくも不吉を予感させる、白と黒を纏う痩躯の男の瞳を見つめていると

忽ち男の白い顔が、薄く紅色に色付き始めた。


「熱烈なる、視線を送ってくれるのは有り難いのだけど、そろそろ君の名前を聞いても良いかな?私はジルと言う。」


あまりにも不躾に見つめ過ぎたと、アサミは思い至りすまないと詫びを入れる。


「アサミだ。」


ジルはアサミの名前を、口の中で噛み締める様に何度も呟く。


「何故、ワタシを助けた?」


アサミは、そんなジルに質問する。


辺りを見渡せば金と白で纏められた、非常に豪華な部屋だったのだ。アサミが寝かされている大きなベッドも、今迄感じた事の無い柔らかさだった。


暗殺の為に進入して来た城や屋敷よりも、豪華な調度品達が目の前の男の身分を証明している様だ。


きっと彼は第三王子よりも、身分が上の王族なのだろう。


「助けた理由は此れから考えるよ、其れに君の身分証明書は本当に、子供が作ったみたいに出鱈目過ぎて、逆に興味深いよ。」


ジルは上質な黒衣の上着の懐から作之助の粗悪な偽装身分証明書を取り出して、子供みたいに無邪気に笑うが其の目は矢張り闇色が濃いとアサミは感じる。


「身分証明書は無かったから、近くの村で買った。金が無かったから、それしか手に入らなかったのだ。」


嘘では無い、アサミがどれだけ人を殺めても手元には金など入らなかったのだ。

生活に必要最低限の食糧しか、与えられる事が無かったから。

だから仕事に向かうときに渡される、少しばかりの旅費を節約して貯めていたのだ。


親玉と屋敷内の人間を全て殺した時に、金貨が入った革袋を持って出たが、余りその金に手を付けたく無かった。


自分の金で、粗悪品な身分証明書を購入したのだった。


「その割に君はこの城下町で仕事も探すこと無く部屋に篭って、日々過ごして居たみたいだねぇ。部屋からは大量の金貨が見付かったらしいよ?普通、君くらいの年頃の娘ならその金貨で着飾って観劇に行ったり豪遊するんじゃないかなぁ」


楽しそうにアサミにジルは言う。本当に美しい男なのだと、アサミは思う。


「本当は、君は死に場所を探して居たのかな?」


その言葉は、アサミの心を動かす。


静かな凪いだ海の様な深い青の瞳が僅かに揺れた。


初めて動揺したアサミに、満足そうな声を立ててジルは目を細めて猫のように笑う。


「矢張り君は私の同属なのだね。」


其の美しくも仄暗い瞳に、アサミは惹きこまれそうになる自分を感じた。


「ねえ、君さえ良ければだけど、私の使用人にならないか?」


側室…といきなり切り出さないのは、慎重で聡いジルならではの事で…。


部屋に閉じ籠めて、わざわざ逢いに行かなければならないなど合理主義者のジルには意味が分からない。


それに相手は「予見のアサシン」と呼ばれた暗殺者である。


閉じ込めるよりも側に置いた方が良いに決まっているのだ。


甘さを含んだ声でジルがアサミに提案する。


「ワタシに出来る事は何もない。」


アサミは本当に暗殺以外は何も知らない世界に住んでいたのだ。

こんな煌びやかな世界に居る事自体が、場違いなのだからその通りの言葉を簡潔に述べる。



「難しく考える必要は無いよ、私の側に控えてくれさえしてくれたら、それだけで良いんだ。後はちょっとだけ身の回りの事を手伝ってくれるくらいかなぁ…」


熱の籠った目と甘さの含まれた声で、ジルはアサミに愛を囁くかの如く真摯に囁く。


三日間もアサミが目覚める迄、執務をこの部屋で行いながら待っていたのだから…アサミは初めて目が合った時と同じくジルに動じる事も、無駄に華美なこの部屋に臆することも無い。


ああ、自分は本当にこの少女に魅了されている、端正な顔に映える癖のある炎みたいな赤い髪と細いが鍛えられた肉体に、知性を感じられる話し方と耳に心地の良い低い声…世界に絶望した孤独な魂がジルは欲しくて溜まらない、アサミが何者でも関係が無いとすら思った。


「予見のアサシン。」


ジルが口にすると、アサミの顔が硬直する。


「別に私は君が側にいてくれさえすれば、嫌がることは誰にもさせないと誓うよ。勿論、私自身もしないよ」


何処までも落ち着いたトーンの声で諭すようにジルは言う。


今まで誰にも見せた事の無い美しくも優しい顔で。


「君は重傷人だ、暫くは安静にしなければならないし、ゆっくり休みながら考えてくれ。」


決して逃すつもりはないけれど、ジルはあくまでもアサミの意思を尊重する言葉を紡ぎ蜘蛛のように見えない網を紡ぐ。


言葉と態度でじわじわと悪魔は、アサミを絡めて身動きが取れない様に追い詰める。


「助けてくれて申し訳ないが、少し考えさせてもらおう。」


想定した言葉を貰い満足気な顔で、ジルは美しく嗤う。しかしその美しい笑顔は、天井画に描かれている天使の其れとは異質な歪なものであった。





 美しい天国の天井画がある部屋はジルの私室の一つだった、愚かな母親が残した忌々しい産物である。


しかし。あんな女でも良いことをしたと心の中でほんの少しだけ見直したのは、療養中のアサミが気に入っているからだ。


気が付くと煌びやかな天国が描かれている天井画を眺めて過ごしている。


ジルは本格的に執務机をこの部屋にも用意して、アサミを愛でながら楽しくもない書類仕事を片付けるのだった。


何せ、弟のアクターに穴だらけにされた身体は以前の様には動かないだろうと宮廷お抱えの医師団が言っていたのだ。アサミは未だに安静にするようにと、言い渡されている。


ジルはアサミと離れたくなくて、彼女の居るこの部屋を離れることは無かった。


書類に目を通していると、アサミがモゾモゾと身を起こす。


「アサミ、喉が渇いたのかな?」


ジルが声を掛けると、アサミは気まずそうに下の方だと答える。


するといそいそと読みかけの書類を投げ捨て、ジルは尿瓶を隣接した便所に取りに席を立つ。


そう、全てのアサミの世話をジルは執務の傍らしているのだ。


食事や清拭に着替えに下の世話…家臣たちは使用人に任せる様にと進言するが、視線で人を殺せるのではないかというドス黒いオーラを纏った迫力のある目で見つめられると誰も文句は言えなかった。


それに有能すぎる冷徹な悪魔王子は、執務を滞らせる事は無い。


寧ろ、非常に機嫌が良かったのだ。


特に身体を拭いて着替えをさせる時と、下の世話は熱心で尚且つ「アサミが気にするから。」と部屋にいる者は全員下がらせる程である。


意気揚々と尿瓶を手にジルは、アサミの側に近寄ると彼女はジルに向かって手を差し出した。


「そろそろ、自分で出来るから瓶を貸してくれ。」


アサミに言われて、ジルの顔にヒビが入った…様に他人がいたら見えたかもしれない…。


「何故だい?君はまだ安静にしなければいけないと、医師達も言っているでは無いか?」


しかし、アサミは静かに首を横に振る。


「これくらいの怪我なら、そろそろ動き始めないと逆に身体の治りが遅くなる。それに、下手をすれば身体が思う様に動かなくなる。」


冷静に自分の身体を動かしながら、アサミはジルの大好きな少女にしては落ち着いた良く響く低い声でそう告げる。ジルは肩を落として、残念そうに尿瓶をアサミに渡した。


本人は何も言わないが、アサミは「予見のアサシン」と呼ばれる超一流の暗殺者だ。


並みの鍛えられ方をしていないのは、世話をしていたジルだからこそ知っている。


まるで野生の肉食獣みたいにアサミの肉体は、細いが鋼の様な筋肉の持ち主なのだ。こんなことなら、足の健でも切断していたら良かったのにと後悔していたのだ。


アサミは器用に尿瓶で用を足し終えると、ジルに遠慮しながらも中身の入った尿瓶を渡す。


勿論、尿瓶には布を巻いて中身は見えない様に、間違ってもジルの綺麗な白い手を汚さない様にと注意はしながらも。


「王子にこんなことをさせて悪いな。」


そう言いながら少し済まなそうな顔をするが、アサミは寧ろご機嫌なのだ。


周囲の者達が戦慄する程に…ご機嫌なのだ。


「元々、私の弟が君を傷つけたのだから、兄のわ・た・し・が、君の世話をするのは当然のことだよ!」


力説されると、アサミは王族の作法など知るわけも無いのでそうか…としか言うことが無い。


中身の入った尿瓶を第二王子自らが始末をして、手を洗い再び書類仕事に戻る。


夕焼けが大きな窓から射し込み包帯と白いカッターシャツを身に着けた蓬髪の美しいジルの整った白貌を赤く染め上げる。


何処か幻想的な姿にアサミは見惚れた。


「悪魔は、天使の様に美しい姿をしている。昔、聞いた事があるのだが。ジルは悪魔に似ているな。」


アサミの言葉にジルは困惑する。


確かにジルは幼少の頃から、悪魔だと陰口を叩かれながら育ったが面と向かって言われた事は無い。


普通ならば悪口と捉える所だ。然しこの少女の言葉は凪いだ海の様な深い瞳と同じで、何処までも邪気が無く真っ直ぐで静かなのだから…だから困惑してしまう。



「…それは、褒め言葉と受け取って良いのかな?」


困惑した心を隠す事なく、ジルはアサミに聞いてみる。


「美しい容姿をしていると言うのは、褒め言葉にはならないのか?」


湖面の様な静かな瞳で真っ直ぐ、ジルの顔を眺めてアサミは首を傾げる。


…正直、反則だとジルは、緩む口元を手で隠しながら思う。


ジルは顔が熱くなるのを感じて、アサミから目を逸らしてありがとう…小さくお礼を言った。


本当に不思議な少女だ、それに闇と血で染まったジルの荒んだ心を癒してくれる。


ジルと何の利害も先入観も無しに話をしてくれる人間は、産まれてから一人も居なかった。目の前に居る癖の強い赤毛を持つ、端正な顔の少女以外には。


だから興味深い、手放したくない。


執着するなと言う方が愚かだと、ジルは考えるのだ。


「…ワタシは天国には行けない、だから天使には会えない。だが、悪魔には会えた、それで良い。」


ジルを眺めたまま、アサミはそう言って少し口角を上げた。普段は無表情な少女の立て続けての不意打ちに、悪魔王子と呼ばれるジルが赤面して頭を抱える。


「あーっ!アサミっ!もうそれは反則だよ、私以外の人間に言うと、私はその人間を殺して死骸を野良犬に喰わせなければならない。」


赤面して耳まで赤くしながら、ジルは物騒な事を口走る。アサミは不思議そうな顔でわかったと答えた。


その亜空間を、秘書官のロイドは微妙な顔で二人の会話を聞いていた。

後でアサミに自分の話題をジルとしない様に頼まなければ行けないと、心に刻みつけると日が沈む部屋の明かりを灯してからカーテンを閉めたのだ。



翌日どうしても外せない謁見を行う事になり、ジルは不機嫌を隠す事なく部屋を出た。


本来の執務室へと廊下を移動していたが、癖のある美声が呼び止めて来る。


「ジルっ!手前っ最近、平民の女を囲って随分とご執心らしいじゃねーかっ!」


嫌そうな顔を隠しもせずに声の方向を見ると、凝った造りの個性的な帽子を被った黒ずくめの青年が仁王立ちで立っていたのだ。


その手には抜き身の大剣が無造作に握られている。


しかしながら、ジルは見慣れた光景にウンザリして更には役立たずの兄に僅かばかりの苛立ちを覚えた。


コイツがもっとちゃんとしていれば、私はアサミとの時間を過ごすことが出来るのに…と言うあくまでも私的な苛立ちを。


「ああ、なんか小さな人間がいると思えばカーズか。」


面倒臭そうに言うと、カーズと呼ばれたジルよりも一回り小柄な青年は殺気だった気配を隠しもせず腰に差した剣を鞘から抜いて構える。


「兄に向って!随分と生意気な口だなっ!今日こそはその、余裕ぶった顔をズタズタに引き裂いてやる!」


威勢よく物騒極まる言葉を叫びながら、ジルに勢い良く大剣を振り下ろすも華麗に交わされる。


ゴウッ!バキバキッ…力強い太刀筋は風圧で辺りの物を吹き飛ばし、更には大理石の床をバターにナイフを入れたかの様に切れ目を入れる。


その事には気を止めもせず、怪力の小柄な王子は盛大な舌打ちをしながら軽々と大剣を片手で握り直す。


「っち!相変わらず、逃げる事だけは得意かあ?」


挑発するかの様に、第一王子のカーズが吐き捨てるがジルは難なく攻撃範囲から飛びさすりながら冷徹に言い放つ。


「私は、君みたいに暇ではないのだよ、カーズも第一王子ならチャンバラ遊びばかりしてないで、私の代わりに内政に携わってくれ給え。そうすれば、王太子の椅子は君の物だし大嫌いな私の処遇も君の一存でどうにでもなるだろう」


ま、無理だろうけどねと余計な一言をつけ忘れないジルである。


己の武術の鍛錬や軍事関連にしか興味の無いカーズは苦い顔をすると、ジルの小言が聞こえなかったみたいに剣を鞘に戻して素知らぬ顔をした。


「もう子供ではないのだから、勉強をサボらないことだね。」


揶揄いと軽蔑を込めた忠告をするとジルは客人の待つ執務室へと歩を進めながらも忌々しげに小さな溜息を吐く。


今日は謁見で一日が潰れてしまう、もうアサミは本人が言うように自力で立ち上がりジルが付きっ切りで看病することは無いが…それでも側にいないことに不安と不満で胸が一杯になってしまう。


そろそろ、警護役にと勧誘した話の返事を聞かなければとジルは考える。


「勿論、逃すつもりなんて無いけどね」


ありがとうございます!


稚拙な話ですが、気に入って頂けたらイイねとかイイねとかよろしくお願いします!

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