【閲覧注意】電車の中で……
「ふぐっ」
それはそう、いきなりやってきた。私の対策に抜かりはなく、いつも通り過ごしていたはずなのに、だ。
「どうしたの?」
裕哉が私に心配そうな顔を向ける。その顔は嬉しくもあるが、内実としては今はそっとしといてほしい。
「いや、なんでも」
「もしかして」
「だからなんでもない!」
こいつ! 今日はヤケに喰い下がってくるな。こっちはお前に言いたくないこと筆頭だってのに。
「いや、大事なことなんだ。教えてくれ」
「やめろ。シリアスになるほど虚しくなる」
「いいから」
裕哉はいつになく真剣だ。こうなったら絶対に言い逃れはできない。
(仕方ない……)
私は恥ずかしいのを我慢して言った。
「……ト、トイレがしたい」
「それって大? 小?」
「なんでそこまで聞いてくんの! セクハラ! セクハラ!」
「とにかく教えて」
裕哉はデリカシーを何処かに捨てておきながら、真剣な顔を崩さない。
(で、でも流石にそれは……)
私は現在17歳。花も恥らう女子高生だ。いくら好きな人からの要請でも、コレを答えるのはとても……
「コレはとても大切なことなんだ。君のためにも」
「………………………………………………………………………大きいほう」
私は逡巡に逡巡を重ねた末、裕哉を信じることにした。もう! めちゃくちゃ恥ずかしい! どうしてこんなことを好きな人に知られないといけないのか!
「そっか、よかった」
裕哉は安堵したような顔で息を吐く。いや意味が分からん! なんで私が催してて安心してんの!
「実は僕もなんだ」
裕哉が安心したような顔で突然カミングアウトをしてきた。はっ? 一体何を言って……
「これは、おそらく妖怪の仕業だよ」
「な、なんで?」
「だって僕と君が同時に催すなんておかしいよ。なんらかの人為的な力が働いてると見るべきだ」
「そ、そんなこと稀にあるんじゃ……」
何を私は少し喜んでいるんだろう? 最低レベルのバッティングなんだけど。
いやそれよりも妖怪の仕業か。それは考えてもみなかった。
突然だが、私は退魔を司る一族の子孫だ。ルーツは安倍晴明にまで遡る由緒正しき家系で、それ故に、世の中に潜む妖怪などを見つけたり引き寄せたりできてしまうのだ。
そしてそんな私の脳内には、1つの可能性が導き出されていた。
「心当たりがある。電車の中には便意を促進させる妖怪が出ることがあるそうだ」
「やっぱりいるんだ。随分とピンポイントな妖怪が」
「この妖怪のルーツは、昔に電車で乗客が漏らした便なの。つまり便意を促進することは自らの生命維持になるのよ」
「なんて悪辣な……退治はできないの?」
「無理ね。この世から漏らす人がいなくなるまでは退治することはできないわ」
「じゃあ……我慢するしかないのか」
「そうなるわね。それより大丈夫? 私はとりあえず波は超えたけど」
「うん、僕も今の所は。これなら次の駅まで……」
「「ふぐっ」」
私たちは見事にハモった。引いてた潮が一気に満潮になるようなそんな感覚。こ、これはまずい!
「だ、大丈夫かい庵さん? 顔色が悪いけど」
「そういう裕哉もひどい顔よ。トイレから出てきたばかりみたい」
「なんでそういうこと言うかなぁ! むしろ行きたいのに!」
「ご、ごめん。とにかく、駅まであと少し。我慢しましょう」
私と裕哉はお互い少し背中を丸めた状態で次の駅を待つ。車内には駅員のアナウンサーがまもなくの通知をしている所だった。
「お、お出口は右側です。危ないですから、ドアが開くまでお待ち下さい」
電車が駅に停車しようと定位置へとゆっくり近づいていき、そして静かに停車した。
私と裕哉は扉が開くのを今か今かと心待ちにする。腹の痛みは波引く海のように繰り返し襲い続けていた。あまりの満ち引きに、ここまで耐えられたのが奇跡と言ってもいいぐらいだ。
そして扉が、ゆっくりと開いた。
「きゃ!」
私は誰かに思いっきり突き飛ばされる。そればかりか、絶えず続く人並みに飲み込まれた。
「みんないきなり走りだした⁉」
私が人並みから開放されると車内は空っぽになっていた。今の時間は夕方で、電車は満員に近かった。それなのに……
ま、まさか!
「まずい! 急がないとトイレが! 妖怪の奴、車内の全員に仕掛けてやがった!」
「なっ⁉ じゃあ下手したら……」
「トイレはしばらく満員に……」
すると裕哉が全速力で駆け出す。あっ! 自分だけ抜け駆けする気だ!
「待って! 置いてくな!」
私も便意に耐えながら全力ダッシュを決める。くっそ!
間に合え!
こうして、私たちは史上最低の徒競走をすることになった。全員が我先にとトイレへと走る!
最寄りのトイレ、満員! その次、満員! さらにその奥、満員!
3つのトイレに駆け込むも、既に長蛇の列ができていた。全員が顔を青くして全力ノックで急かしている。ニオイも合わさってまさに地獄だ。
ついでに私の状態も地獄だ!
私は駅内のトイレを諦めて、ここならと駅から徒歩5分のコンビニまで走った。もうブツはすぐそこまで来ている。次空いてなかったらおしまいだ。
「いらっしゃいませ!」
「「トイレ借ります!」」
しかし、私とほぼ同タイミングでトイレを借りる宣言をする奴がいる! 私が横を見ると、ソイツは裕哉だった。
「ちょっと! 私が先!」
「ちょ、ずるい! ここは後輩に譲るとか……」
「いーや大丈夫! きっとトイレは2つあるから!」
私は確信を持った顔で全力ダッシュを決める。これで、これで! 私はこの苦行から開放されるのだ!
だが希望は、一瞬にして絶望に変えられてしまった。
最悪なことにトイレには既に人が入っていたのだ。しかも女子トイレ! ばっ! ふっざけんなよこらぁ!
ぎゅるるるる
くっは! もう限界だ!
私は本能の赴くままに男女共用トイレへと滑り込む。そして扉を閉めた。
「ちょっと! なんで入ってくるの! 2人でトイレに入ったとか色々と不味いよ!」
「でももう無理! このままだと女としての尊厳が!」
「こっちも無理だって! 僕は人間として生きていけなくなる!」
「こうしましょう! じゃんけんよじゃんけん! それなら後腐れないわ!」
「わかった! なら僕はパーを出すから!」
「お前このタイミングで心理戦仕掛けてくんな! できるわけないだろう! そんなことしたらダムが決壊するわ!」
「もういいから早く! 行ってる間にも……」
「わ、わかった! 行くぞじゃんけん──」
コンコン
「「入ってます!」」
「ご、ごめんなさい。でも……」
そこには、小さな女の子がうるうるとした顔でこちらを見ていた。しまった! 扉は閉めたけど鍵は閉めてなかった!
「トイレ、使ってないなら貸してください」
女の子は懇願するようにお願いしてきた。きっと、彼女には私たちがトイレで言い合いしているように見えたのだろう。そして、彼女も緊急なのか自分の気持ちをはっきりと口にしたのだ。
なんという勇気。女の子の覚悟に、私たちは自らの死を悟った。
「ありがとう。お姉ちゃんたち」
私たちがトイレから出ると、少女は嬉しそうにお礼を言ってくれた。そうそう、私たちは大人だもんね。こういうのは子ども優先だよね。
「……ここがコンビニでよかったね」
裕哉が香ばしいニオイをさせながら言った。
「そうね」
ダムが決壊した私もそれに同意する。
大人としての矜持を守り、そして同時に、大人としての尊厳を失った私たちだった。