2の2 おうちに一体 怠惰の妖精
2の2 おうちに一体 怠惰の妖精
「これからしばらくの間、君の家に住まわせてもらうことになったのでよろしく」
家から出て来た先輩の一言目がこれでした。
「え? えっ!!」
まず思い出されるのはわたしのお部屋の惨状です。
「気にしなくてもいい。君の母上は僕の事をマネージャーか何かと勘違いしたようでね。君の生活を少し見守らせてもらうことについても快諾を頂いたよ」
先輩はひとまず安堵の息をつきました。
「いや、少し待って下さい! 同じ部屋でずっと監視されるんですか? 夜とかどうするんですか」
あの部屋に侵入されることだけは避けないと! なんだか目がぐるぐるです。
「ああ、隣の部屋が空いているとか聞いたが」
先輩はわたしがいきなり奇声を上げ始めたのでとまどっています。
「よかったあ」
わたしは顔から湯気を出しながら脱力しました。
「おや、それもつれないね。僕は同じ部屋でも良かったのだけれどね」
脱力するわたしの顔をいつの間にか覗き込んでいる先輩。
「ちょっと、近いですよ!」
叫ぶわたし。
「確かに、あの部屋の惨状を見れば入れたくないのは分かるがね。おっと、安心してくれたまえ、他人に漏らすような事はしないさ」
優しく私の頭を撫でるその仕草。
「クックックッとか、笑わないでください」
わたしは唇を突き出しながら言いました。
「ああ、ごめんね。でも大丈夫さ。使い魔を通して何人かの女性の寝室にご招待預かった事もあるけれど、恥じ入るほどではないと断言する。家それぞれの事情というものがあるのだと、母上の言葉を聞いて気付かされたよ」
そう言いながらも先輩は笑うのを止めません。
「その、笑うのを、止めて下さい!」
わたしは拳を振り上げて威嚇します。というか涙がでるほど面白いですか。
「そこまでするほど嫌なんだね。ふむ、これは失礼した」
いきなり礼儀良く頭を下げる先輩。
「なんですか、いきなり!」
すでに先輩は笑ってもいませんでした。
「僕もマイナーな位置にいる存在であることを重々承知していたはずなのに、君のその悩みもあまり聞いた事がない。運動系の活発な女性はそうなのかもしれないけれど、僕に親交があるのは君ともう一人ぐらいだし。事が事だけに外には漏れにくいのだろうし。そのような事をいちいち槍玉にあげて笑うのはいけない」
もう一度深く頭を下げる先輩。
「先輩……」
ここまで思ってくれる先輩。わたしの体のことを心配して始終付き添ってくれるというのにそれを拒否するのは礼儀に反しているのではという気持ちが芽生えました。
「だから教えてくれないか。どうすれば日常的に下着が擦り切れる程の運動ができるのか」
うん、だめでした。わたしの気持ちは芽生えませんでした。で、いいですよね?
「いい加減にしてください先輩!」
全速力で先輩に迫るわたし。
「ハッハッハッ! 何をするのかい!」
先輩は危険を感じて、背中を向けて逃げ始めます。
「わかりません!」
ともかく許せなかった、それだけなのです!
「そうか。しかし学校以外で全力移動は禁止だ!」
先輩の足はすでに宙に浮きホバー移動をしています。追いかけるわたしを肉迫させません。
「先輩が止まればいいんです!」
これは正論でしょう。
「止まれば、君は僕に何をするんだい?」
たしかに! でも許せないという私の気持ちもわかりますよね?
「いや、下着などというものは良く破れるものだよ気にする事はない! しかし両手の指で足りないぐらいの数の下着がベッドの上に散乱し積みあがっている様を見て、君はいつもあの中で眠りにつくのだなと誤解してしまったよ!」
これは、お母さんから色々聞いてる感じの口ぶりです! うう、恥ずかしい。はいている時は大丈夫なんですがどの様な方法で洗濯してもダメなのです。ダメだやっぱりこの人殺さないと。いや、恩人ですね。殺さないけれどひどい目にはあってもらいます!
「もう知りません! 全力で移動しますからね!」
そうです! 私が全力で追いかけるだけで先輩は酷い目にあってしまうのです。
「キキッ!」
と音を立ててわたしは走るのを止めました。
「おや、どうしたんだい?」
音に気付いた先輩がわたしのいる方へと振り返ります。
「先輩はおかしいです!」
わたしは力いっぱい叫びます。先輩は人通りの少ない所を意図して逃げていたのでしょう。周りに人はいませんでした。
「ふむ、周囲にいる人々とは違うと自覚はしているが。なんせ妖精だからね」
どや顔で髪をかき上げる仕草が決まってて憎たらしいです。
「そのようなことではないのです! 先輩は自分が報いとやらを受けるとわかっていてくせに、どうしてわたしを追いかけさせる方向に焚きつけるのですか」
これは不思議なことですよね。
「ふふ。面白いと思ったらしてしまうのさ。妖精だからね」
先輩もここにきて冷静になり、一言わたしの知らない言葉を呟くと足が地面についてホバー移動状態を解除したようです。わたしは先輩と肩を並べて歩き始めます。
「本当は報いにも来て欲しいとか思ってるんじゃないんですか?」
この時のわたしは、かなり苦渋に満ちた表情をしていたと思います。
「まあ、面白そうだからね。死ぬのは嫌だけれど。僕の本当の気持ちは板挟みといった所だね」
こちらの心配などというものはどこ吹く風。先輩は、自嘲するように目を閉じて笑います。
「妖精といえば何でも許されるって思わないでください!」
丁度学校の正門へと向かう大通りに出た所でわたしは叫びました。ばつの悪い事にさすがスポーツの名門校だけあって朝練へと向かう学生も多かったのです。
「ふふふ。みんな見ている。あのタイミングの発言で良かったのだね」
ニヤリと笑う先輩。
「もう、先輩!」
わたしの顔はかっと熱くなりました。
「昔に比べれば悪辣な事はしていないだろう? いいかい、昔の妖精というものはね……」
それから学校につくまでの間わたしは、先輩から昔の妖精のお話を聞きました。妖精の子供を人間の子供と入れ替えたり、畑にひどいいたずらをしたりしたそうです。
そして学校について朝練へと向かうわたし。先輩は、いつの間にかどこかに消えていました。
そして放課後やら部活やらと矢のように時は過ぎて夕方になります。
「今日もいっぱい走りました!」
沈む夕日に向かって全力で背伸びすると気持ちがいいんです。
「馳。お母さんが来てるわよ。校門のところで待っているらしいわよ」
部長が後ろから声をかけてくれました。そう言われては運動の余韻にひたっている場合ではありません。わたしは校門へと急ぎました。
「はあい、初日」
校門を出た所で家族向けボックスカーの運転席に座るお母さんに声をかけられます。
「お母さん! どうしてここにいるんですか?」
わたしは車に近付きながら驚きを隠すことができません。
「あなたの敏腕マネージャーが学校以外では運動を控える事を推奨したんでしょう? だったら送り迎えもした方がいいかもって、昼ごはん食べてる時に気付いたんだけどね!」
お母さんは笑みをこぼします。
「そ、それはありがたいかも知れないけれど。少し恥ずかしいかも」
部長や陸上部の方々が今お母さんの話題で盛り上がっている気がして正直嫌でした。
「あらあ、娘が年なりの羞恥心を覚えて。お母さんどうすればいいのかしら。しかもこの状況もしかしたらもっと恥ずかしがるかも知れなかったり?」
お母さんはチラリと後席の方を見ながら言いました。
「これ以上恥ずかしいって、一体なんですか!?」
わたしは車のドアを開けながら叫びます。
「くっくっくっ。僕の事だと思われるが、どうだろうか?」
わたしが開いたドアの奥から先輩の声がしました。
「いつの間に!? というか見えなかっただけですね!」
先輩は後部座席を完全に後ろ倒しにして横たわっていました。なるほどこれでは車内に先輩の姿が確認できないわけです。
「まあ、君の母上に捕まった口でね」
先輩はそう言いながらわたしからそっぽを向きます。
「あの、学校の中でも全く見なかったみたいですけれど大丈夫でした?」
先輩はわたしに何かあれば駆け付けると言った手前近くで待機できるように意識しているらしく、知り合ってからこのかた校内で出会わない日はなかったのでした。
「だろうね、学校がダンジョンになるなんて思いもしなかったし」
先輩の肩が軽く揺れます。
「大変だったのね。バカばっかりのお家だけど、ゆっくりしていってよ」
そう言って車のアクセルを吹かすお母さん。徒歩でも通うことのできる距離ですので車なら五分もかかりませんでした。