1の4 アブダクション先輩!? ダークサイドへの誘い!
1の4 アブダクション先輩!? ダークサイドへの誘い!
「リーンゴーン」
五限の終了を告げる鐘が鳴り、わたしは1のCの教室つまり自分のクラスで勉強していたのですが思わず立ち上がりました。放課後の陸上部への期待があったのでしょう。
「クスクス」
クラスの誰かが笑い始めたのでわたしは顔を真っ赤にしてしまいます。小学校でもよくやらかして笑われましたが、その頃とはまた違う笑いでした。
「くすくすくすくす」
大っぴらな笑い声ではありませんでしたが、それはクラス中に広まっていきました。普通だったら後でSNSで話題にするだけなのでしょう。彼らは、わたしを許してはくれず表立っているとも隠れているとも言えない嘲笑を止めようともしないのです。わたしは体を棒のように固くして立っているのがせいぜいでした。
「……し……! り…………さい!」
緊張しているせいでしょうか、先生の言葉も遠く聞き取る事ができません。
なんとなく言っている内容はわかります。座りなさいということなのでしょう。でもわたしのからだは動かないのです。
「ガラッ」
いきなり教室の扉が開く音がして、わたしの体を縛っている笑い声はとだえます。そして解放される体。
「どん」
わたしのおしりは椅子の座面に軟着陸します。「どん」というのはわたしの体感ですから、実際にそんな音がしたわけじゃありませんのでそのことは明記しておきますね。
「やあ」
教室に入ってきたのは霧先輩でした。先輩は皆がざわざわしている中、涼しい顔で教室に入ってきます。
「さて、いこうか」
わたしの手をとる先輩。そういうところの自然さが妙に気障で困ります。
「今からですか。これが最後の授業ですがホームルームだってあるんですよ!」
なんだか顔が少し熱くなってしまうのを感じるわたしでした。
「そうか。では待っていようかな」
そんなことを言った後、こともなさげにわたしの机に軽くお尻を持たれかけて待機のポーズをとる先輩。
「いえ、そんな話じゃないんです! というか先輩も授業では?」
私の中で浮かんだ当たり前の疑問。
「ふむ、そのような基本的な事を君と僕の間柄で質問するのかい? 今更だね」
そんな疑問を粉砕した先輩の言葉はクラスに爆弾を投げ込みました。教室の皆はわたしと先輩を見ながらヒソヒソとおしゃべりを始めるのでした。
「わたしたちの間柄ってなんですか? それに授業を抜け出す言い訳にはなってません!」
至極真っ当なことをいったつもりだったのです。
「僕らは運命共同体だよ。その事についてはもう話し合っただろう?」
先輩は優しくわたしの頭を撫でます。
「なにについて話し合ったんですか!?」
何がどうなって運命共同体になったのか。さっぱりわかりません。顔を赤くして体を棒のようにこわばらせるわたしでした。
「えっと、ここで言わなければならないのかい?」
先輩は周りを見回します。これは後の先輩の言葉でわかったことなのですが、すでに私たちは女子中学生の興味津々に光る眼に囲まれていたらしいのです。
「はい。行く理由がわかりませんから!」
その時のわたしは、周囲の目に気付くことができませんでした。
「やれやれ、しかたないな。君の事が心配なんだよ。授業なんかよりは大事だ」
先輩の細い指があごの骨を優しくつかみます。
「な、何を?」
いわゆる顎クイといわれる行為ですが、当時は知りませんでした。
「僕は授業を駄目にした。だったら君もホームルームを駄目にするぐらいはいいんじゃないか」
先輩の声は、静かな森に響く笛の音のようにわたしの体をふるわせます。決して強くはない先輩の手に引かれわたしは立ち上がってしまいます。
「おぉ」
クラス内に響く低く静かな感嘆の声。そこにいた先生さえも赤い顔をしたままわたしたちが教室から出ていくのを黙って送り出したのです。
そして十分後。わたしと霧先輩は呪い部の部室にいました。
「なんですか。何ですかあれは! そんなにわたしが陸上部に行くのが嫌なんですか!」
その頃にはすでに先輩から受けた妖精的な蠱惑からはぬけだしていました。
「嫌だね」
即答でした。
「理由は? いえ、聞きましたが。なんですか先程のあの良く分からない方法は? きっと魔法を使ったんですね!」
人生経験の少なさを魔法というパワーワードで説明した気分になるわたし。浅はかさにも程があるでしょう。
「魔法? ああ、君を教室から連れ出した手練手管というか、あれかい。確かに魔法という表現をする事もあるかもね」
先輩はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべてそう答えたのです。
「そうなのですか! 思った通りです!」
思った通りだと思っていたのです、純粋に。
「本当に君の心は綺麗だね。しかし堕落してもらうよ」
先輩の顔に影がさします。そして部屋に響く笑い声。
「負けません! 先輩こそ堕落させることなんて考えず、一緒に走りましょう!」
走れば大抵のことなんて吹き飛ぶものです!
「言っただろう、僕は怠惰の妖精だよ。走るのをやめて一緒に、そうだねお気に入りの映画でも見ないかい?」
先輩は部室の壁際に置いてあるモニターを指さします。
「走りたいです!」
申し訳ないですが、わたしの心は燃えています。
「いや、そういう訳には。テクノロジーは苦手だが動的な物がいいというのならゲーム機もあるよ」
先輩としては譲歩したつもりなのでしょう。けれどもわたしの心に響くものではありませんでした。
「走りたいんです!」
エブリディバーニングマイハートなのです。
「いや、そこを何とか」
教室にいた毅然とした態度の先輩は偽物だったのでしょうか。発言が弱腰です。
「走ります!」
もう結論したからには走らないではいられないのです。わたしは教室を飛び出していきました。後から追いかけてくる先輩の声はすぐに遠く離れ聞こえなくなりました。
「やあ、来たのね!」
もちろん行く先はグラウンド。九十九部長が待ち受ける陸上部です。先輩がまた魔法を使ったのでしょうか九十九部長らしきモザイク人間が声をかけてくれました。
「こんにちは、九十九先輩!」
今度は言葉が分からないということはありません。ということは部活をするのに問題はないということです!
「どうしたの? 後ろを警戒しているみたいだけど」
部長は、わたしの様子をみて訝しんでいる様子でした。これは向こうからこちらはモザイクに見えていないということでしょうか。魔法とは複雑奇怪でよくわかりません。
「はい、菅沼先輩に追われていまして」
よく考えればわたしがここに来ることはわかっているはずであり、たとえ遅れてもここに来ないのは摩訶不思議だという考えがわたしの頭をよぎります。
「ああ、えっと。もしかしてだけど彼女に運動するなとか言われてる?」
モザイクの顔がわたしを覗き込んできているようです。たぶん。
「ええ? どうしてわかるんですか!」
わたしは、びっくりして大声で叫んでしまいました。
「ああ、えっと。気にしないで。彼女とは一回お話をしなきゃいけないわね。だけれど彼女の言うことにも一理はあるのよね」
ため息をつく部長。
「ええっ!? じゃあ、わたしは走ってはいけないんですか?」
ショックでした。本当に目の前が暗くなるぐらいに。
「大丈夫。強豪校を舐めちゃいけないわ。泥縄式のトレーニングはありえないから。科学的に無理のないトレーニングが基本よ。初日さんには少し物足りないかもしれないけどそこは我慢してね」
なんとなくモザイクの向こうで部長が白い歯を見せて笑ったような気がします。
「わたしは、走ってもいいんですね!」
闇の中に宝石を掴んだような、キラキラとした光に包まれたような感覚がします。体が軽くなってどこまでも走って行けるような。
ここでは見えない地平線へ向かって走り出すわたし!
「ちょっと! 人の話を聞きなさい!」
追いかけてくる部長。
「あ、部長! 一緒に走りましょう!」
我慢なんてできない。わたしはどこまでもバカでした。
「それも魅力的だけど! 止まりなさい!」
さすがに部長の脚力には敵わないようで、わたしはすぐに前に回り込まれます。
「あ? ごめんなさい」
目の前に広がるモザイク模様にハッとなり、わたしは暴走状態から戻りました。
「仮入部で甘やかすのは無しにするわ。あなたは一年生と同じ道具の扱い方から身に付けなさい」
部長の言葉に従い、わたしは基礎練習を終えた後、先輩方の競技用シューズや各種陸上競技用の道具の保全にいそしむのでした。