プロローグ
ざりっ、ざりっ……と、路地裏に響く音に、ヒノミは足を止めた。
夏の初めのこの時期特有の、息苦しいほど空気の重い夜だった。じとりと湿気た空気が肌に纏いつき、不快さに彼はため息をつく。顎の下に浮き出た汗を手の甲でぬぐい、ヒノミは音の出元を探るように顔を動かした。
ヒノミは先日脚立から落ちて腰を打った父親に頼み込まれて、彼の代わりに自警団の見回りに参加していた。だが、根気がなく働こうにも長続きしたことがないヒノミである。初めこそ真面目に見回っていたが時間が経つにつれ面倒になってしまった。こんなことは真面目にやるだけ馬鹿らしい、やりたいやつがやればいいんだと思い至り、サボり場所を探していた途中だった。
猫が頬を舐める時のような、小さな棘がひっかかる音が断続的に耳に届いたのだ。
「誰かいるのか?」
どうせ野良猫か野良犬辺りだろうと見当をつけて、ヒノミは顔の高さにランタンを掲げる。
返事は、ない。
ただ、ざりっ、ざりっ、と聞こえる音が速くなった。
ざりざりざりざりざりざりざり……ざりっ。
意味もなく不安を煽るその音は、不意に止んだ。
ゴクリ、と知らず知らずのどを鳴らして、ヒノミは一歩後ずさる。いつの間にか力が抜けた手から、ランタンが滑り落ちた。踵を返す彼の視界の端、暗闇に光る金色の瞳が見えた――気がした。
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「つまり、犯人の姿は見ていない?」
カズサの問いに、男は渋々頷いた。ぶるりと身を震わせて左手で反対の腕を撫でようとして、なにもない空間に舌打ちする。
三十がらみの貧相な男は、不健康そうな青白い顔をしていた。両親の営む宿屋を申し訳程度に手伝いながら、気ままに暮らしているらしい。小遣い程度の給金は、ほとんど博打に消えているそうだ。時には宿の食堂で供するために仕入れた酒に手を出すこともあると言う、典型的なドラ息子。酒とタバコで焼けた声は喘鳴混じりで聞き取りづらく、カズサは何度も聞き返さなければいけなかった。
ことの起こりは、三月と十三日前の夜までさかのぼる。
六月最初の木曜日。その日は夕方まで雨が降っていた。日が沈むころにようやく晴れ間が見えたが、雨が降った日は犯罪が減る。家に人がいるので空き巣は減るし、雨の中をわざわざ路上で人を襲おうという酔狂者も少ないからだ。だから夜番の兵たちは至って暢気に過ごしていた。
日付が変わってすぐ、帝都の治安維持を担う第三兵団の詰所に、このヒノミという男が飛び込んくるまでは。「化け物に襲われた!」と叫びながら現れたヒノミは、神を振り乱した恐ろしい形相で、食いちぎられた右腕からの出血も酷く息も絶え絶えだったそうな。
カズサはちらっとヒノミの右腕を見た。
詰所からそのままこの病院に運び込まれた彼は、あまりにも出血がひどく、手術に耐えられないと判断された。ひとまずの止血だけ施されたヒノミはその晩から傷が元で熱を出し、何日も生死の境をさまよったという。ようよう死神を足蹴にして戻ったかと思えば、今度は傷口が膿んでしまい、今度こそ根元から切り落とさなければならなくなった。まさに踏んだり蹴ったりというやつだ。
そうして手術を無事に終え、話ができる状態まで回復したと第三兵団まで連絡が入ったのが昨日のこと。翌日にさっそくやってきたカズサを心底嫌そうに迎えて、ヒノミはそれでも覚えている限りのことを話してくれた。「根は素直で優しい子なんですよ」とは、彼の母親の言だ。実際、小悪党にはなれても大それたことはできないタイプに見える。
「もう話せることなんてないさ」
帰ってくれと顔をしかめるヒノミは、慣れない様子で左手を伸ばし、床頭台に置かれていたベルを思い切り振り鳴らした。
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