馴れ初め
ソウ・ミメイは、屈強な戦士たちに囲まれて育った深窓の姫君だった。ソウ家は先代――ミメイの祖父が一度謀反の疑いをかけられて力を削がれていた。そこで、父は娘を差し出して忠誠の証としようと考えたのだ。
ミメイには三人の姉がいたが、一の姫は婿取りをして跡取りとして辺境を治めている。二の姫はすでに嫁いでおり、三の姫は儚くなっていた。
末娘のミメイは当時十歳。
幼すぎるのではと不安がられたが、後宮の歴史上、一番幼い姫は五歳で入宮していたので支障はないと言うのが、皇帝側の返答だった。それでも、幼い娘を家族から引き離すのは可哀想だと皇后が言ったため、三年の猶予期間を経て、ミメイは十三歳で後宮に入った。
愛らしい容姿のミメイは、女性として愛されることこそなかったが、皇帝にも皇后にも、他の側妃たちにもそれなりに可愛がられて過ごした。そして、十六歳になった頃、一度だけ呼ばれた閨で皇帝に言われた言葉が「そのうちに幸せになれる嫁ぎ先を探してやろう」だった。実の娘のように可愛がってくれた皇帝の気遣いを、ミメイは嬉しく思ったものだ。
ところが、ソウ家と敵対する家の娘が側妃として嫁いできたことで、ミメイの立場は脅かされるようになる。
その娘は後宮を取り仕切る宦官長をあっという間に取り込んで、ミメイを宴の席に侍るよう書類を仕立て上げさせた。そして、ミメイにそのことが伝えられたのは当日の昼過ぎ。急いで身支度をしても間に合うかどうかの時間だった。慌てて身支度を終えたミメイは、行き先の名称だけを伝えられて後宮から放り出されたのだ。
「もうじき宴が始まるかしら……」
ほの赤く染まり始めた空を見上げて、ミメイはため息をついた。いかに皇帝夫妻に可愛がられているミメイとは言え、大切な宴へ遅刻すればただでは済まないだろう。
罰は鞭打ちか、それとももっと酷いことだろうか?
「家族に類が及ばなければなんでもいいわ」
空を見上げたまま、ため息をもうひとつ。来た道は覚えているから、いっそ後宮へ戻ってしまおうか。思いついた案はとても素敵な気がして、ミメイはくるりと向きを変えた。同時に、背後からぬっと影が差して、目をしばたたかせる。
「どちらの女官殿でしょうか?ここから先は宴の用意のために決まった方しかお入れできませんが」
低く、野太い声だった。
誰何されて、ミメイは息を飲んだ。確かに先程まで誰の気配もなかったのに、この男はどこから現れたのだろう。
「女官殿?」
男の声が疑念を帯びる。振り向かせようと肩にかけられた手を振り払うように彼と向き合い、ミメイは口の端に微笑みを乗せた。
「申し訳ございません、武官様。女官と仰るのでわたくしのこととは思いませなんだのでございます」
「では、あなたは女官ではないと?」
男の声色に、明らかな警戒がにじんだ。ミメイは大きく頷き、真正面から男を見る。
大柄な人だ。日焼けした浅黒い肌と、茶色がかった髪色をしている。一文字をした眉と口は意志の強さを感じさせ、黒目がちのぎょろりとした目が戸惑いを浮かべている。大きな犬のようだと思いながら、ミメイはくしゃりと顔をゆがめた。
「わたくしは才人のソウ・ミメイと申します。後宮を代表して今宵の宴に参加せよとの命を受けて宮を出て参りましたけれど、場所が分からずに困っておりました」
「才人……才人?そ、それは、側妃様とは知らず、失礼を致しました!」
聞き慣れない位を少しの間頭の中で検索して、男は青い顔で略式の礼を取った。ミメイはゆるりと首を横に振り、「悪いと思っていらっしゃるなら」と男の手を取った。
「案内をしてくださいませんか?生き方を教えてくださるだけでも結構ですけれど」
節の目立つ掌の皮は硬く、かさついていた。
「ご案内致します」
一瞬にして赤く染まった頬を隠すように、それでもやんわりとミメイの手を解いた男は、そっけなく告げて歩き出した。彼の後ろを早足で追いかけながら、ミメイは男の顔を覗き込もうと首を伸ばす。慌てて顔を背けた男は、ミメイが必死に足を動かしていたことに気付いてスピードを緩めた。
些細な気遣いが嬉しくて、ミメイは笑顔になった。
「ありがとうございます」
「……なんのことでございましょうか」
ゆるゆる歩く男の後をついて歩きながら、ミメイはふと、昔こんな風に優しい男性の妻になって、手を繋ぐことを夢想したことを思い出した。働き者の、手の大きな人がいい。優しいその人は、自分だけに跪いて妻問いをしてくれるのだろうと、無邪気に信じていた。
先程触れた手の感触を思い出して、ミメイは少しだけ切なくなった。
夢はあくまで夢。ミメイは現実を生きていかなければならない。それでも、少し浮かれるくらいは許されるだろう。
そう自身に言い訳し、どこかふわふわした気持ちのまま、ミメイはその日の宴を終え、何食わぬ顔で日常に戻った。
戦場で手柄を立てたその武官がミメイを妻にと望むまで、この日のわずかな交流はミメイの中で甘酸っぱくもほの温かい記憶として大切に箱の中にしまいこまれていた。
「まあ、武官様……」
「ハクボと申します。どうぞ、そう呼んでください。ミメイ様」
驚きに目を瞠るミメイから少しだけ目を反らして、真っ赤な顔でハクボは手を差し出した。その手に手を重ねて、ミメイは言った。
「ハクボ様。ふふ、では、わたくしたちは一対の名だったのですね」
薄暮と未明。
夕方と明け方。
嬉しそうなミメイの言葉に、ハクボはようやく彼女を見て、力の抜けた笑みを浮かべた。
「どうぞ、わたくしのことはミメイとお呼びになって?旦那様」
いたずら心から囁くと、ハクボはまた真っ赤になって顔を背けた。それでも彼は今度こそ、重ねた手を解くことはなかった。
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