エキ家
ひっそりと息を殺して過ごすハン家と違い、カズサの住むエキ家は賑やかだ。
義母のミメイは贅沢を好まないおとなしい人だが、いかんせん義父――エキ大将軍ハクボが豪放磊落を絵に描いたような人で、とても面倒見がいい。屋敷にはハクボを慕って集まった何人もの門弟が住み込みでいて、彼らが騒ぐ声がどこにいても聞こえてくるのだ。
カズサがエキ夫妻の養子となったのは、十歳の頃だ。エキ家に引き取られたのはその三年前で、最初はたくさんいる門弟のひとりとして過ごしていた。それでも、自分には過ぎた身分だと思っていたくらいなのに。
カズサが生まれたのは貧民窟に近い下町で、幼い頃から日雇いの煙突掃除を仕事にしていた。体の弱い母は、弟を産んですぐに死んだ。早産だった弟も、長くは生きなかった。父親は酒浸りで、カズサが必死で稼いだ金はすぐに酒代に消えてしまう。そんな日々に嫌気がさしていたけれど、かといって逃げ出すことも考えていなかった。ハクボと出会ったのはそんな頃だ。
「おおーい、お前さんがカズサかい?」
随分と身なりのいい破落戸だな、というのがカズサの義父に対する第一印象だった。「おい」とか「お前」と呼ばれることが多かったカズサにとって、久方ぶりに呼ばれた名前は別の人を呼んでいるようにしっくりこなかった。だから、反応が遅れたのだろう。目をしばたたかせるカズサの前に立ち、上から下まで眺め回して、ハクボが満足げに頷いたのを覚えている。
「幼い頃のカグラによく似てる」
カグラ、と言うのは亡くなった母の名前だった。母を名前で呼ぶのは父くらいで、その父ももう長いことカグラの名前を口にしなかった。だから、カズサは母の名がカグラということすらこの時まで忘れていたくらいだ。にかっと笑ったハクボは、カズサの煤だらけの頭を清潔な手で躊躇せずに撫で、薄汚れた子供を大切なものを扱うような手つきで抱き上げた。
彼は煙突掃除の親方と一言二言話をして、カズサを屋敷に連れて帰った。義父は屋敷に着くなり門弟に湯の準備を申し付けると、妻のところへ薄汚れたままのカズサを連れて行った。てっきり「汚い!」と罵られると思ってカズサは身をすくませたが、彼女は穏やかな笑顔で彼を迎え入れた。
「まあ、まあ!あなたがカズサね?可愛らしいこと。わたくしはミメイというの。どうぞお母様と呼んでちょうだい。どうせ、お父様はなにも説明してはくれていないでしょうから、湯を使ってお食事をしたらたくさんお話しましょうね」
そっと頬に触れた手はふくふくとしてとても温かかった。
手ずからカズサを湯に入れてくれたミメイは、こすればこするほど垢の出てくるカズサに困った顔をしたけれど、それでも少年が綺麗になるまで決して手を休めたりしなかった。
「あの……っ、お、僕はどうして……」
高級品である石鹸で全身もこもこに泡立つまでこすられて、カズサはミメイを仰ぎ見た。
ここにいるの?と問いかけかけた言葉をカズサは飲み込んだ。どう尋ねれば、この優しそうな人を傷つけずに済むか分からなかったのだ。けれどやっぱり、ミメイは少し悲しそうな顔をした。
「わたくしの旦那様はね、軍の偉い方なの。エキ家は旦那様の代で立ち上げた言わば新興貴族。旦那様の兄弟姉妹は皆さま平民なのよ」
そう言うミメイ自身は、元々は辺境伯家の姫君なのだという。どこか夢見心地な表情で、優し気な夫人は語り始めた。
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