八 約束
次に月がかげったのは四日後だった。カズマは初めて自分の意思で盗みをした。標的は、城代家老の白根家にした。雪姫の着物代を盗むのにこれ以上の所はないだろう。白根家もそれなりに忍びの者が守っているので面倒だが、手のうちが分かりきっているだけに裏をかくのもわけはない。カズマが海岸に行ってみると、雪姫は既に来ていて流木に座っていた。ハヤトもつながれている。白い砂浜のおかげである程度様子が分かるとは言え、夜目のきくカズマと違い、雪姫からは見えないだろうとカズマはわざとさくさく足音をたてた。雪姫はカズマに気づき、確かに黒霞だと分かると、呆れたような顔をして立ち上がった。
「本当に来たんだな」
「来ると言ったんだから来る。ほら、金だ」
カズマは雪姫の手に十両を握らせた。雪姫の手は温かかった。もう少し触れていられる言い訳はないだろうかと思いながら手を放した。
「ありがとう。・・・何か礼をしたいのだが、私は金に換えられるものを何も持っておらんのだ。この馬も私のものではないし」
「別に礼なんか・・・」
それより早く城に戻ってくれよ・・・、と思っていたカズマはふと気が変わった。
「そうだ、それならちょっと頼みがある」
「なんだ?」
「ここんところを、持ち上げてみて欲しいんだ」
カズマは自分の般若の面の口元を指差した。
「んん?」
「口の両側をこう、上に上げる・・・」
雪姫は不思議そうな顔をしたまま、両手の人差し指で口もとを押さえると、そのまま上に上げた。頬の肉がむにっと持ち上がって団子を作った。
「ぶっ!」
普段の雪姫からは絶対に考えられない面白い顔を、雪姫自らが作り出している図に驚いて、カズマは思わず噴き出した。
「あっ、はっ、はっ、はっ、は! なんだそりゃ。変な顔!」
「・・・人を指差して笑うもんじゃない」
雪姫が憤慨しているのを見て、また笑いが起こってしまう。
「い、いや、違うんだ。俺はただ笑ってみて欲しかっただけなんだ。それを、あんたときたら・・・、ぷはははははは!」
「・・・帰る」
「あっ、ちょっと待って。まだ礼をしてくれてないだろう」
「おまえが捕まったときには逃がしてやる。それが礼だ」
ぞっとして笑いが収まった。捕まったとき・・・黒霞の正体が俺だと知れる時・・・。
冗談じゃない。捕まるようなことになったら、火薬で顔を焼いてしまおう。
「どうした? いきなり怖い顔を・・・」
と言いかけて雪姫はくすりと笑った。
「いや、面なんだからいきなりということはないか。気配が静まったがどうかしたか?」
カズマは感動に震えていた。雪姫が、あの雪姫が、可笑しそうに笑った! ああ、もっと何か、もっと何か面白い話は無いだろうか。もっと雪姫を笑わせられる何か。
「あー、鬼姫、立ち話もなんだから座らないか?」
「・・・なに?」
「ほら、ここに都合よく流木もある」
「まぁ、このあいだもあったな」
「もう少しすれば月も顔を出すだろうし」
「月が顔を出したら何かあるのか?」
「こ、この馬は白いな。尾も白い。面白い」
「うん? そうだな」
そうだよな。
カズマは途方にくれた。もう何も言うことがない。と、雪姫がまた笑ったのだ。
「 ! ! ! 」
「おまえ、面白いな」
「そ、そうか。ええと、布団がふっとんだ・・・」
「知らない人間という気がしない。安心して話ができる。おまえは不思議だ」
いや当然だけどね。
「盗賊のような大胆な悪事を働く人間とは思えない。おまえは何故盗みをしているのだ?」
「ん? ん〜、いや、まぁ・・・」
殿様の命令で、と言ってみたい。
「いろいろ、事情があって」
雪姫はじっとカズマを見つめた。
「なんだ?」
「貧しい者の為にとは言わないのか。世の中の人間はおまえのことを義賊と呼んでいるぞ」
「良い盗みというものはないんだ。良い悪いこと、というのはおかしいだろう?」
「だけれどおまえは盗みをしているだろう」
「そうだ。良くないことだ」
「・・・盗んだ金はどうしてるんだ」
まずい。これ以上は・・・。
「詮索はなしだ。あんたは望みの金を手に入れたんだ。それでいいだろう」
雪姫は何か言おうとしてためらったが、やがて、それを飲み込んだ。
「・・・ああ、悪かった。・・・では帰るとしよう。カズマが私の不在に気づくとまずい」
「このあいだもその名が出たが、何者だ」
「見張りだ」
カズマの期待を残酷に裏切って、雪姫は馬の手綱をとった。そしてふりかえった。
「また会うにはどうすればいい?」
「ええ?」
「また頼みごとができるかもしれん。その時にはどうすればいい?」
ドキン、とカズマの胸がはねた。もしかして、雪姫もまた黒霞に会うのを楽しみに思っているのだろうか。
しかし、雪姫が夜間に出歩くのを見つかりでもしたら大変なことになる。外で男と会うなど許されるはずもない。第一危険だ。雪姫の命を狙うものは大勢いるというのに。
いうのに・・・。
「何か城を見たらわかるような目立つ目印をつけてくれ。そうしたら俺はここに来る」
「ああ、ならば、城の北側に一本立派な山桜があるのだ。城下からでもすぐに分かる見事な桜だ。その木に白い布が結んであるときは、私がおまえに用がある時だと思って欲しい」
「ああ・・・。ここで、同じ時刻に会おう」
「では、またな」
雪姫は、ハヤトにまたがって、サクサクと砂浜を出て行った。