七 出会い
それから十日程たった夜のこと。桜のつぼみはふくらみを増し、今にも最初の一つがはじけようとしていた。
カズマは思わぬ窮地に立たされていた。
今夜のカズマは『黒霞』である。戸田屋に入り込み、金を盗みだしたまではよかったが、ひょいと屋根に出たとたん、五十ばかりの捕り物提灯に囲まれている自分を発見したのだった。
「おやぁ・・・?」
まずいことに、それまで闇夜であったものが、雲が払われて月がのぞいている。半月でそう明るくもないが、こちらの姿は丸見えだ。困った。逃げようと思えば、煙幕をはることも、しびれ薬をまくことも、まきビシを散らすことも簡単にできる。しかし忍びの術を使えば素性が知れてしまう。
「いたぞ!」
「そっちだ!」
「はしごをかけろ! 封じ込めろ!」
困っている間に、ガン! ガン! ガン! と三方にはしごがかけられた。
やばい! と思ったのが油断だった、背中に誰かの投げた石がしたたかにぶつかった。
痛え! と思わずうめいた次の瞬間にはそれこそ四方八方から石つぶてがとんできた。バラバラバラと屋根にぶつかって実にうるさい。はしごからは今にも人の頭がのぞきそうだ。月夜に顔を見られることのないよう、ちょっとやそっとでは取れないように般若の面をかぶっているが、捕らえられてはそれも無意味だ。
仕方がない。背に腹は変えられぬ。
カズマは、懐にしていた火薬玉を投げた。ボン! と音がして、あたり一面に真っ白い煙が立ちのぼる。
「な、なんだこれは!」
「煙幕だ! 逃がすな! 煙の中にいるぞ!」
げほんげほんと辺り中でせきこむ声がする。カズマはその煙にまぎれ、隣の倉の屋根へと跳び移り、更に隣の家の屋根に跳び移った。
「いたぞ! 向こうの屋根だ!」
声がおいかけてくる。屋根の上では丸見えだ。カズマは屋根の上を走って、向こう側へ跳び降りた。
さて、カズマは御庭之者の中でも別格の、特殊な任務を請け負う人間だ。たいていのことには驚くことのできない日常を送っている。こうも人を殺していると、自分が死ぬのも当然のようで、この世というものを自分とは関わりの薄いものに感じる時さえある。さきほど屋根に登ったら四方を囲まれていたという時でさえ、困っただけで、驚きもしなかった。
が、この地面に跳び降りた瞬間だけは、全身の毛が逆立つのを感じた。
すぐ目の前に、ぬっとばかりに白い馬が立ちふさがっている。
こ、この馬は・・・! まさか・・・!
白い馬には白い人が乗っている。白い人とカズマ=黒霞の視線がぶつかった。
雪 姫 !
雪姫は、目の前に般若の面をかぶった男がふってきたというのに、さほど驚いた様子もなく、カズマを品定めするように眺め下ろしている。
何故ここに雪姫が! 体中から嫌な汗が噴き出してくる。
どうして夜に外に出ているんだ。どうしてここで盗賊の黒霞なんかに出会っているんだ。あ、あ、あ、そういえば黒霞にやたらと興味津々だったな。まずい、奉行所の者が大勢このあたりを走り回っている。雪姫が見つかったら、どんなことになるか。
「向こうだ!」
ワイワイうるさい声が近づいてくる。まずい、まずい、まずい、時間がない。
俺が捕まるのは非常にまずい。雪姫が見つかるのも非常にまずい。雪姫はいったい何をやってるんだ。何をぼんやり俺を見てるんだ。逃げてくれよ。役人が来るんだぞ!
声は本当にすぐそこにまで近づいてきた。もうその角を曲がってくる姿が見えそうだ。
カズマはとっさに馬の上、雪姫の後ろにとびのった。
「女! 動くなよ」
カズマは雪姫が握っていた手綱をとりあげた。奇妙なことに雪姫は全く抵抗せずに、あっさりと手綱から手を放した。
「いたぞ!]
「馬だ、馬にのっておる!」
追っ手がせまってきた。カズマはハヤトの腹をけとばした。
今まで雪姫だけを乗せて優しく丁寧に扱われていたハヤトは突然の乱暴な扱いに驚いて、すっ飛ぶように走り出した。殿様の持ち馬の中でも一、二を争う優れた馬だ。立ちふさがろうとする役人など気にすることも無く、ほんの二蹴り、三蹴りでその路地から姿を消した。
追っ手の気配はすぐ無くなった。ハヤトは風のように軽く走り続ける。カズマはまっすぐ雪姫を城まで送り届けたかったが、盗賊がそんなことをする理由もなく、とりあえず人目につかないよう、町を抜け、田畑の間を抜け、松林を抜け、海岸へと走り出た。
砂に足を取られたハヤトを立ち止まらせて、カズマははたと困った。腕の中に雪姫がいる。
カズマは、決して望まぬままに、雪姫をその手の中に捕らえてしまっていたのだった。
盗賊に雪姫が捕らわれるとは・・・! まずい。この状況でどうやって雪姫を不自然でなく自由にするか。
カズマは手綱を雪姫に握らせて砂浜に跳び降りた。
「どこの誰かは知らないが、あんたのおかげで逃げられた。捕らえて身代金でももらいたいところだが、ま、助かったのに免じて今日のところは逃がしてやる。とっととうちに帰りな」
実に見事な言い訳だ。それなのに、それなのに、雪姫もまたハヤトから跳び降りてしまったのだ。そしてさっさと流木につないでしまった。
「私のおかげで逃げられたのだな?」
雪姫、雪姫、雪姫、御願いだから、盗賊と話などしないでください。
「実は頼みがあるのだ」
頼み!? 盗賊に何の頼み!?
「あ、あんた、じゃあ、まさか、俺に会う為にあすこにいたのか?」
「あたりまえだ。用も無いのにあんなところにいるわけがない。ところで今日はいくら盗んだ?」
「ちょっと待て! 何故俺に会おうなどと」
「頼みがあるからだと言ってるだろう。それで今日はいくら盗んだんだ」
「そんなことを聞いてどうするんだ!」
「わけてくれ」
カズマはゴクリとのどをならした。
金がほしかったのか! この間から黒霞に興味を持っていたのはこういうことか! しかし、盗賊に盗んだ金をわけろだなどとは!
「ちょっと待ってくれよ」
カズマは流木に腰をおろした。少し気をおちつけないといけない。
「俺があんたに金をやらなきゃならんいわれでもあるのか?」
「私のおかげで逃げられただろう」
「・・・・・あ、あ」
確かに俺はそう言った。そう言ったが。
「それは、確かに、そうなったが、そうならなかったらどうするつもりだったんだ。いや、ちょっと待て。だいたい俺は馬なんてなくてもいくらでも逃げられたんだ」
「じゃあ何故馬で逃げた」
「・・・」
あなたを役人から遠ざける為です、とは言えない。
「・・・勘違いするなよ。・・・俺があんたを捕まえたんだ。あんたの命も体も今俺の手の中にあるんだ。仏心を出してるうちに逃げ帰った方が身の為だぜ。俺は前っからえらぶった武家の娘を抱いてみたかったんだよ。その服をはぎとって裸にむいて、好きなだけ弄んでから殺してこの砂浜に埋めてやってもいいんだぜ」
カズマとしては、これが精一杯だった。それなのに、雪姫はおびえてくれなかった。それどころか、サクサクと歩いて、あろうことか、カズマの隣に腰をおろしてしまった!
「私はあまり馬で走るのは好きではないが、先ほどは大変楽しかった。おまえが抱いていてくれたので落ちる心配がなかったからな」
さっきハヤトで走っている時、雪姫がふりおとされるといけないので、右手で手綱をとり、左手で雪姫をささえていたのだ。
「私は男に抱かれたのは初めてだが、とても気持ちがよかった」
違う!
カズマは叫びだしたかった。雪姫に恐れる様子が無い理由が分かった。男女の営みのことなど何も分かっていないのだ。
楓! 義道からいろいろ教えてもらってるだろうが! 雪姫も教育しとけ! こんなことなら、源氏物語ぐらい語っておいてやればよかった。
「いや、初めてではないな。十の頃、見張りのカズマに抱かれて庭の桜の木に登ったことがあった。塀の外が見えた。城は高台にあるから、街が見渡せて、それは面白かった。カズマは腰抜けだが害の無い男で、私を落っことさないよう気をつけていた。おまえも、私が落ちないように気をつけていたな。会ったことも無い私なのに、おまえは私が馬から落ちて怪我をしないようにと気をつけてくれたのだ。おまえは人が苦しむのを苦にし、人の喜びを喜びと感じる人間だ。人助けをしたい人間が、別な一方では人を傷つけようとはしないものだ」
そして、とてつもないことが起こった。 雪姫が、そうだろう? というふうに、ほんの少しだけそうっと微笑んだのだ。
火の山が爆発して空が炎に燃え黒雲が広がり溶岩がどろどろと流れ落ちて赤く焦げた大岩が今頭の上に落ちてくる。カズマは頭に大岩の激突する衝撃を確かに感じた。
雪姫が笑った。
知らなかった。雪姫は笑うのだ。笑う顔を作ることができるのだ。こんなにも華やかに、瞳に光をたたえて。
しかし、俺はそれを一度も見たことが無い。見ず知らずの盗賊にはこんなに簡単に見せた笑みを、俺には、六年間ずっとすぐ傍にいたカズマには、一度も見せたことが無い。
笑わないものと思っていた。そういう表情ができるとは夢にも思わなかった。
楓とは笑い合っていたのか。俺の前でさえなければ、雪姫にとっては笑みなど簡単なものだったのか? 俺が敵の見張りだからか? 結局ずっと俺は敵でしかなかったのか? 敵だ敵だと言いながら少しは気を許してくれているのではないかと考えていたのは自惚れだったのか?
なんてことだ。そして俺は、そんなふうに雪姫が俺を信じていないことを俺を嫌っていることを証だてるその微笑に見惚れてしまったのだ。
笑うと幸せそうに見える。笑わせたい。もっと、笑わせたい。
カズマは頭を振った。落ち着け。さっきのは決して幸せな微笑みなんかじゃなかった。ただ笑みを質問の代わりにしただけだ。
「城から町を見たって、ということは、そうか、あんた、雪姫・・・『鬼姫』だな」
「なんだ、今頃気づいたのか」
いつ気づこうか機をはかっていたんだ。
「あまり利口ではないな。そうだ、忠告しておくが、忍び込む店の選び方が単調すぎるから気をつけろ」
「何?」
「東南の方向から順に、あまり正直でない大店を選び、必ず月のかげった夜に忍び入っている。今日あたりだろうと思って見に行ったら役人たちも同じことを考えたらしく、ちゃんと見張っていた。その役人連中から逃げてくるとすればあの場所しかないと思って待っていたらおまえがふってきた。・・・うん、やはり今日逃げられたのは私のおかげだな。おまえは私に借りがあるんだ」
あの馬鹿殿! カズマは腹の中でうめいた。いいかげんな店の選び方をしやがって!
「わかった。俺の負けだ。いくら欲しいんだ」
「そう、二十両ばかりかな」
そんなに渡せばバラまく分が少なくなって殿様に知れてしまう。
「何に使うんだ」
「反物を買う」
「あ・・・!」
そうか! と大声をあげそうになったのをかろうじて飲み込んだ。
そうだ。能の宴だ。着て行く着物が必要だ。
そうだったのか。そういうことなら協力したいが。
「しかし、二十両は渡せねぇ。十両では?」
「それではたりぬ」
「そうか・・・なら、次に月がかげる日まで待て。その日の暮れ五つ(春なので十時くらい)にここで会おう。あ、いや、待て、あんた自身が出てこなくていい。誰か、あんたの周りのもので頼める者がいるだろう」
「いるものか。大丈夫だ。私が来る」
いるんだ! 俺だ! 俺に頼めばなんだってしてやるんだ! なぜ分からない。
雪姫をつかんでゆさぶってやりたいと思った。
その日カズマは、雪姫が城に戻るのを見届け、その後また街に戻って九十両をばらまいたので、実際城に戻ったのは明け方近くになってしまった。しかし寝ている心の余裕はなく、雪姫の小さな桜の庭に降り立つと、そっと中の気配を伺った。かすかに寝息が聞こえる。雪姫と、別室の楓と。
誰にも知られずに無事戻ったらしい。他との接触が許されない城の隅の隅の隔離されたような小部屋で生活する雪姫。竜北城は外敵からの侵入を防ぐために迷路状になり、どこが入り口だか全く見通せないようになっている。逆に言うなら、雪姫のようにこっそり外に出たいと思う者がいると、見張りも見つけにくいというわけだ。
第一、雪姫のことはこの俺が見張っていると思われている。他の御庭之者に油断があるのもあたりまえか。
カズマは、仲間にも知らせないよう盗賊をやらせている殿様を、この日もまた呪おうとして、それが出来ないのに気づいた。
雪姫の笑顔が脳裏に浮かんだ。激しい喜びが体を熱くするのに気づいて、カズマは強く額を叩いた。
楽しかったなんて、雪姫との、盗賊としての出会いが楽しかったなんて、そんなことは思っちゃいけないことなのだ。