三 鬼
山中、何やら急ぎの様子でうつむき加減に歩く旅支度の侍がいた。たった今竜北藩を出てきたばかりである。この男、外山吉衛門といい、江戸からの隠密であった。
竜北藩から調べ出した情報は、実に奇妙で重大なことだった。それが事実となれば、幕府は長年に渡ってだまされていたことになる。これを江戸に伝えれば古賀家をとりつぶす格好の理由になる。
外山はそれを書面にしたためたりはしなかった。頭で記憶し、それを国境の山中で待つもう一人の隠密に伝えれば、そちらは伊賀者で、誰にも追いつかれることなく江戸まで伝えるだろう。
山中、前後左右から緑色に萌えあがる木々がせまり、ほとんど日ざしはもれてこない。薄暗い中、声をかけてくるはずの伊賀者を待ちながら、外山ははやる気を押さえて黙々と歩いた。
その時、目の前に空から一人の男がふってきた。青い忍び装束の男である。
「おう、待って・・・!」
外山は声をかけかけて、ギョッとした。
違う。こいつは仲間じゃない。
「何者だ!」
「・・・・・」
青い男が刀を抜く気配に、外山もすばやく抜いて応戦する。
しかし男の目を見た瞬間、外山は全身にぞうっと寒気が走るのを感じた。その目には、これから確実に殺されるであろう自分のための、哀しみとあわれみが浮かんでいた。
馬鹿な! 術だ! 惑わされるな!
外山はゴクリとのどをならすと、男がまともな構えに入らないうちに踏み込んだ。いきなり頭上に跳び、目くらましに木漏れ日を背に切り下ろした。
上から攻撃すれば、何処に逃げても一目で見渡せる。逃げることはできまい。
とれる!
外山は思った。が、次の瞬間。血が凍りついた。
男の顔がすぐ目の前にあった。男が外山に向かって鋭く跳んだのだ。ふりおろす寸前の刀は、ふりかぶったまま男の刀におさえられた。
「何っ!」
外山は、とっさに口から含み針をはこうとした。その気配を察し、男は外山のアゴをひざでけりあげた。
二人はそのまま地に落ち、すぐさま距離をとった。
なるほど、これはできる。青い男、カズマは少しばかり感心していた。自分が一撃で倒せなかったのは珍しい。
外山の方はものを考える余裕など無かった。恐怖で意識が遠くなっていたのだ。速さが違う。ケタ違いに。同じ生き物ではない。殺される。
外山は小刀を放った。戦うためにではない。逃げる為に。とにかく、今は敵に勝つより情報を仲間に伝える方が先なのだ。
カズマは刀で小刀を受けた。
しめた! 今のうちに!
と外山が考えたのは甘かった。外山が木の枝に跳びあがった時、その枝がずるりと折れた。
「おおっ!」
外山は体勢をくずして地に倒れた。
あらかじめ枝を切ってあったのか。ということは待ち伏せされていたのか。青い男が罠をはって待ち構えていた中に飛び込んでしまったのか。
外山は立ち上がり、再度刀を構えた。遅かった。外山は近づいてくる男の不思議におだやかな目の色を見たと思った。しかしそう考えた頭は、既に胴から離れていた。
カズマの背を、外山の頭がゴロリと転げて落ちた。重たい感触の後、ドサリ、と音がした。カズマはぞくりと背中を伝う悪寒を感じた。
そっとふりむくと、外山の頭が、胴体から切り離された有様で死ぬらしいという絶望の色を目に湛えて、ちょうどこちらの顔を見るところだった。懇願すればまだ胴体につなげてもらえるのではないかとすがるような色が、消えて、外山は死んだ。
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胴体が体の中からはじけるように苦しく、呼吸が出来なくなってカズマは必死で天に向かって口を開けた。
苦しい。痛い。苦しい。誰か。
この人間を俺は殺した。俺が殺した人間が俺はおまえに殺されたんだと俺を見ている。
それでもまだ終わりじゃない。カズマは呼吸ができないまま外山の体を探った。密書はない。
口伝えだったか。
機密を知ることができなかったことを残念に思うよりも、その死体から離れたくてカズマは外山の髪の毛をひっぱりあげると、妙な管が出ている頭を持ち上げて、道の脇の草むらの中に置いた。それから体の方も、こちらは死体のように見えずに楽だったが、崖の途中に放り投げた。
とたんにこみあげるものを感じて急いで頭巾をむしりとった。吐いた。
「う、う、う!」
胸の圧迫は薄れ、呼吸が戻ってきた。しかし胃の痙攣は続いた。
自分が殺した死体が恐ろしかった。自分が殺したからこそ恐ろしかった。
情けない。なんと胆力の無いことか。御庭之者筆頭、三浦の跡目を継ぐ者として、これくらいの仕事はあたりまえではないか。
そう思う先から、雪姫の顔が浮かんでくる。雪姫がこのことを知ればどんな顔をするか。俺は、人の首を切り落としておいて、何食わぬ顔をして雪姫の前で笑っているのだ。いかにも無邪気で腰抜けの、虫も殺さぬような顔をして。
その時、先ほどから木の上に感じていた気配から殺気を感じた。カズマは、せっかく逃がしてやろうと思ったのに、とぼんやり感じながら、もうその手はクナイを放っていた。
カカカッ! とクナイは木の幹につきささり、その木の後ろに隠れた影をカズマは認めた。
そして、影は笑ったのだ。
「ふ、ふ、ふ、ふ、気づいてたのか。さっすがだねぇ」
「幕府の伊賀者か。この男から情報を聞くはずだったな?」
「その通り」
影の男が、くるりと木の幹を回って、カズマの方を向いた。目しか見えないが妙にニヤケたまだ若い男だ。
「まぁ無駄な戦いはよそうか。俺はそいつを殺されちまったらもうお手上げだし、しっぽまいて帰るからさ。でも名前は覚えといてほしいな。井蔵ってんだ。ただいま売り出し中」
「・・・・・」
「あんたの名前は何てぇの? 苦みばしったいい男」
「・・・・・」
「竜北は恐ろしいところで、情報を持って帰った隠密は誰一人居ないんだってね。古賀兵右馬は鬼を一匹飼っていて、一口に食わせてしまうんだって。あんたが鬼なんだぁ? 人を殺して震えてるくせに」
「・・・・・」
カズマは口を開かなかった。あたりに妙な匂いが漂っている。毒か。催眠薬か。それとも幻覚剤か。カズマは息を止めていた。
「・・・うふふん。隙が無いねぇ。でもね、呼吸を止めてるのは限界があるでしょ。いつかは息をしないとね。死んじゃうもんね。でも吸ってもやっぱり死んじゃうんだよね。かといって逃げようとしたら隙が出来るの分かるよね。どっちにしろ、あんたはもう終わってるの。わかる? 鬼ったってたかが田舎の忍者がさ、伊賀忍者に勝てるわけないでしょお」
井蔵は笑った。
「ほら、あきらめな。ぷはぁって息を吐いて、吸って、気持ちよくなりなよ。楽に死・・・うわぁっ!」
井蔵の悲鳴があがった。木から落ちかかって枝をつかみ、やはり落ちた気配がした。そしてまた悲鳴があがった。
その隙にカズマは駆け出した。井蔵に止めを刺す気はなかった。毒蛇に噛まれたのは分かっている。木の下の毒蛇の群れを踏んだかもしれない。解毒剤を持っていなければ、たとえ傷口を切り取って消毒しても、しばらくは高熱で動けないだろう。
カズマは息をとめたまま走った。匂いのしない所まで走って、膝が突然ガクリと折れた。井蔵が大気に流した薬が効いてしまったのだ。カズマは藪の中に這いこみ、毒消しを飲んで横たわった。ここでしばらく薬の効き目がきれるのを待つしかない。
カズマはぼんやりと木漏れ日を見ていた。空気にとけこんだ毒薬で、自分がこのまま死んでしまったら、死んでしまった自分はそれを悲しいと思うだろうか、と妙なことを考えた。
悲しくはないようだった。嬉しくもないようだった。ただ死ぬだけだった。
桜の枝の間から雪姫を見た。雪姫はきちんと正座をして書を読んでいる。あれは朱子学の本だ。さすが武士の娘だ。まさか源氏物語じゃないだろうな。姿勢がいいな。すっきりしている。流れる髪の黒い色ときたら、あんなに輝いて、一本一本が凛としている。雪姫の髪だけのことはある。頬っぺたが白くて丸いな。餅みたいだな。真ん中を指でつついたらどうなるだろう。ぷよぷよ。
清清しい。汚れの無さ。俺はこの人を守っている。
ああ、こっちを見ないかな。こっちを見ろ、見ろって。俺に気づけ。
「カズマ!」
甲高い声が響いて、カズマは桜の木から落っこちたふりをした。楓が縁側に立って怒っている。
「あなたそれで隠れてるつもりなの!? 雪姫をじろじろ見て、もう、見張りにしても能無し過ぎるわよ!」
「いやぁ」
雪姫がこちらを見るのが、カズマには嬉しかった。
「五節千手堂の豆餅を買ってきたんだよ」
「まぁ、好物で雪姫のご機嫌を取ろうとして。・・・まぁ、たくさん。いろいろあるのね。美味しそう」
楓は、自分の好物の小豆団子があるのにちゃんと気づいた。
「じゃあ、みんなでいただきましょう。雪姫、ほら、縁側は暖かいですよ。女子が学問しすぎるものじゃありませんよ」
楓はカズマにも懐紙を渡してくれた。なんだかんだ言いながら当然のように『みんな』に入れてくれる楓をありがたいと思った。カズマは縁には上がらず、足がかりの石に腰をおろした。
「亡くなられたのか」
突然雪姫が言った。
「ええ?」
「ご老人だ。親しい者だったのか。ひどい顔色をしている」
楓もカズマの顔を見て、そういえば、というような顔をした。
「まぁ誰か亡くなったの。それでなんだか元気が無いのね。残念だったわね」
カズマは顔が泣くようにゆがむのをどうしようもなかった。よしよし、と頭をなでる雪姫の手を感じて、本当に泣きたくなった。