二 カズマ
馬に乗る時には、雪姫は袴をつける。まるで男のなりだ。城内や町の者が、『おなごではない』だの、『変人よ』だの言うのもまぁ仕方の無いことだろう。女が馬に乗るなんてのは、実際奇怪な話だ。
五年前の勝負でカズマが負けて以来、剣術の稽古に関わることは全て許されることになってしまって、雪姫は悠々と城内を馬に乗って横切る。しかし今日は運が悪かった。通用門に向かう途中、江戸家老の息子、高崎誠太郎と山林奉行の息子、横山道六が登城するのと出会ってしまった。この二人は白根義道の仲間で雪姫を古賀江知馬の正室として迎えるのに強硬に反対している。
「おっと、腰抜けに会ってしまった。縁起が悪いな」
「おい腰抜け、腰抜け、返事をせんか」
無視も出来ずにカズマは視線を向けた。
「お勤めご苦労さまです」
「おっ、返事をしたな。自分で腰抜けだと認めておるぞ、こやつ」
「なぁ腰抜け、うちの家で使ってる忍者が言っておったぞ、お城の御庭之者になど出世したくないからずっとうちで使ってください、なんせお城に行くと、あの腰抜けを上にいただかなければならないのですから、恥ずかしくってとてもやってられないってな」
二人は顔を見合わせ、これはよく出来た冗談だと大笑いしながらもうカズマには目もくれず歩き去って行った。
カズマは、だいぶ暖かくなってきたとはいえ、雪姫は小袖だけで寒くないだろうかと考えていた。
「あ奴らは、私に直接言えぬ分、おまえにあたるのだな」
雪姫が言った。
「ん? 雪姫、ああいうのは放っておくんです。いちいち聞いていると体が汚くなりますよ」
「私は気にしていない。おまえは修行が足りんから気にするかと思ったんだ」
「俺はその手のことはたっぷり修行させてもらってますから。おかげさんで」
「おまえが弱いのはおまえのせいだぞ」
「雪姫が強いのは雪姫のせいです」
「もういい。おまえとは口をききたくない」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
馬がぱかぽこ歩く。
「町まで退屈だ」
「そうですねぇ。じゃあ、鉢をかぶっていたお姫様の話をしましょうか」
「その話はもう私が話せるぐらいに聞いた」
「あー、じゃあ、ものぐさで汚い男が京で嫁を探す話」
「おまえは話を知らんな。私は源氏物語が聞きたい」
カズマは思わずむせた。
「げっ、源氏! だめ! だめです、あんなどすけべえな話! 早すぎます!」
「もう子どもではないぞ」
「絶対だめです! 親指ぐらいに小さい男の子が鬼を退治する話をしますから」
「源氏がいい」
「だめです!」
町の真ん中を馬で通っても町の者は両脇によけてかしこまったりはしない。城内の雪姫に対する反感が町の中までも広がって、雪姫に敬意を払う者は誰もいないのだ。それどころか、道のあっちこっちの端の方から、オニヒメ、と声がする。
一度男の子がごく近くまで走ってきてオニヒメと叫んだ時には、さすがにカズマが捕まえて謝らせようとしたが、当の雪姫に放すように言われた。
「竜北の人間は、私を苦しめれば苦しめるほど極楽に行けると思っているのだ。竜北ではそれが正しい良い行いなのだ。あの子は正しいことをしなければならんと考えて勇気を出したのだ。誉めてやれ」
誉めてやらずに尻を一発ぶってから放してやったら、次の時から町のあちこちでコシヌケという声が聞かれるようになった。
昨日黒霞に忍び込まれたのは、海鮮問屋の港屋だった。倉を二つ持っている最近のしあがってきた店である。
物好きは雪姫だけではないと見えて、やじ馬がたかっている。店はしまっているが、中で役人がいろいろと調べているのがちらちらと見える。
「あっ雪姫、あんまり前に行かないでくださいよ。誰がねらっているか分かったものじゃありません」
「心配なら城に帰って寝てろ」
これだ。
「それよりいくらぐらい盗まれたんだ」
「二百両です」
「なんだ。たいしたことはないな」
「こういう問屋は普通金は置かずに物をおいているもんです。店にある金全部あわせても千両程度じゃないですか」
「何故千両全部盗んでいかなかったのかな」
カズマは雪姫を見上げた。
「は?」
「千両あるのにどうして盗まなかったのかな」
「商売の資金まで盗んだら店がつぶれてしまうじゃないですか」
雪姫は扇子をとりだすと、おもむろにカズマの頭のてっぺんをペシリと叩いた。
「店がつぶれないように気をつけて金を盗む強盗が何処にいる。だいたいこの店の強引なやり口のおかげで昔からの老舗は迷惑していたのだろう」
カズマはひやりとして辺りを見渡した。店の関係者に聞かれていなかったらいいが。
「あのですね、商売というものは、その店だけではなりたたないんですよ。これくらいの大店となると、関係している小売業者も多いんです。港屋がつぶれると関連して商いをしている水主や運送の仕事も無くなって、そちらもつぶれてしまうんですよ」
雪姫はまたペシリと叩いた。
「だからどうして小売の都合を考えて強盗が盗みを働くんだ。そんなわけないだろう」
「黒霞は盗んだ金を貧しい者にばらまいているわけでしょ。町人の生活を助けようとしてるんだから、小売で商いをしている者が路頭に迷うはめにならないように気を使ってるんじゃないですかね」
雪姫は少し考えて、それから自分の額をペシリと叩いた。
「なるほど、そんな気もするな。竜北では役人よりも盗賊の方が民の幸せを考えているようだ」
「そうでしょうかね。金をばらまいて義賊ぶっちゃいますが、昨日だって二百両盗んだうちばらまいたのは半分だけで、あとの百両は自分のものにしてるんですよ。ただの泥棒ですよ。盗みに良い盗みも悪い盗みもありません。目的が良くても手段が悪ければ何にもなりません」
「黒霞は町の娘に人気があるそうだからな」
「・・・なんですかそれは」
「やっかむなというんだ。嫁の来てが無いからと言って」
「嫁っ?」
カズマは何か気持ちの良い発見をしたような気になって目を見張った。
「嫁かぁ・・・。そういえば、なんで俺には嫁の話が無いんだろ。俺が子を作らないまま死んだら三浦の血が絶えるのになぁ。女房か。俺のかぁ。ふうん」
ばしっ、といい音をたてて雪姫の扇子が頭の上で炸裂した。
「あいたっ! ああもう、何かあったかい空想ができそうだったのに」
「たとえ空想でもおまえが幸せになるのは許せん」
「・・・鬼だ。本当に鬼だ」
再び雪姫の扇子が頭の上で音をたてたが、その寸前に、ピュイ――――! と甲高い鳥の鳴き声を聞いて、痛そうな顔をするのをやめた。
トビの声。これは、カズマを呼ぶ声だ。何か起こったらしい。
城に戻らねば。しかし雪姫を置いて行くわけにはいかない。カズマは雪姫を見上げて、じっと自分を見つめる雪姫の視線とぶつかった。
「あの・・・」
「おまえは感情が全部顔に出るから気をつけたほうがいい」
ひやりとした。
「雪姫は感情が全部顔に出ないから気をつけたほうがいいですよ」
「トビが鳴いたな」
雪姫と外に出ている時に、トビの声で呼び戻されたのは何度かあった。雪姫は鋭い。知られているのだ。
「私は稽古に行きたい」
「・・・はい」
自分が呼ばれるのはよほどのことだ。何があったのだろうか。急ぎの事か。
今気になることと言えば、紫屋に泊り込んでいる侍だ。隠密に間違いない。隙の無い男で相当に腕が立つと見て彦座と吉太二人をつけた。消そうとしなくてもよい、見張れ、と。
消そうとするとこちらもやられる恐れがあるからだけではない。知りたかったのだ。江戸から次々とやってくる連中が、何を求めているのか。
徳川の御庭之番は、生涯に一度どこかの藩に入り込み、内偵をしなければならない掟があるのだという。しかし竜北に来る連中の構えはそんなにのんびりしたものじゃない。何かを求めている。古賀兵右馬は何かを隠している。古賀兵右馬しか知らない何かを。竜北にとって致命的な何かを。俺たちはそれを守っている。それが何かを知らされずに守っている。あの隠密の動きを探ればその何かが知れるかもしれない。
遠くから馬の駆ける音が近づいてくるのに気づいて、カズマは人ごみからハヤトを連れ出した。あれはアカガネだ。俺の馬だ。
「カズマ、私は稽古に行きたいぞ」
「はい・・・」
来た。通りの向こうから。アカガネ・・・小六が乗っている。
小六はカズマの前でアカガネから跳び下りると、ひざをつこうとした。その前にカズマが口暗号で止めた。口の形だけで意思を伝達する方法である。
― ひざまづくな。
小六は息を飲み込むように飲み込むように整えて、やっと言った。
― 彦座と吉太がやられました。
小六の顔色から何かひどくまずいことが起こったのだということはもう分かっていた。それでもすぐには口がきけなかった。
― やられたとは?
― 殺されました。
そんな馬鹿な。
― 機密を知られたようです。追って殺そうとしたところを逆にやられました。加勢を求めるのろしが上がったので行ってみると二人とも切り倒されていたそうです。隠密は国境の尾長岳に向かっています。越える前に殺ってくれって。
カズマは腹をなでた。痛い。
「私にも分かるように話せ」
上から雪姫がもどかしそうに声をかけてくるが、今のカズマにはそちらに気を使う余裕がない。
― あの侍、一刀流の使い手ってだけじゃなくて、忍術の心得もあるようです。こちらの術が通じないって。
― 知られた機密というのは何だ。
― 分かりません。いったい・・・。
― いや、いや、いいんだ。いらんことを知るとこっちが殺されるかもしれない。
― それから筆頭からの伝言で、肩のアザをさらさないようにしろ、だそうです。伝達のために江戸の仲間が潜んでいるだろうから、見られちゃいけないって。
カズマの左肩には、炎の燃えるようなアザがある。半兵衛の左肩にも全く同じアザがあって、御庭之者筆頭の血の証なのだそうだ。しかしこのアザを他人に見せるとその資格を失うという妙な掟があり、カズマも半兵衛のアザを見たことがなかった。
何故そんなくだらない掟があるのかと半兵衛に聞いても答えないが、自分の肉体の秘密さえ守りきれない人間には筆頭の資格が無いのは確かだとカズマは理由をつけてみている。
それにしても、こんな時にまでそんなことを気にするとは。
「カズマ! こっちを見ろというのに!」
雪姫が頭をばっしんばっしんと叩く。カズマは雪姫を見上げて言った。
「雪姫。急ぎの用ができてしまいました。申し訳ありませんが今日は小六と一緒にお城にお戻りください」
「どんな用だ」
「よく働いてくれた下忍の年寄りが死にかかっているのです。死に水をとってやろうと思います」
言ってから、この手は以前にも使ったと気づいた。雪姫の顔を見ずに、アカガネに飛び乗った。
雪姫は小六にはわがままを言わないだろう。
町を抜けたら山道を通る。着物をひっくりかえして忍装束を身に付け、頭巾を被る。
国境へ、走る、走る、走る。