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十七 二人の鬼

 カズマは、月光の光をあび、白く光る雪姫が、驚愕に目を見張るのを見ていた。そしてその体が震えてくるのを。

 つうっ、と、雪姫の頬を、涙が流れた。涙は月光に白く光り、あとから、またあとから静かに流れてゆく。

 雪姫・・・!

カズマは地にひざをついた。このまま、地面の中に消えてしまえたら。

 何もかもが嘘で偽り。勝負に負けたのも嘘。腰抜けも嘘。黒霞も嘘。嘘を全て取り去った真実が、この血まみれの人殺しの俺なのか。

 欺かれて俺を赦し、また欺かれて俺を助け、そしてまた欺かれて、もう、赦しも助けも無益なのだと、絶望して、泣くのか。

 地面を殴りつけた。申し訳なくて、恥ずかしくて、情けなくて、自分の体を粉々に引き裂いてしまいたかった。拳からつぶれて、雪姫の前から消えてしまえればいいのに。

 拳が砕けるほど殴りつけるその拳を、受け止める手があって、カズマはひやりと顔を上げた。ここには雪姫しかいないからそれは雪姫の手のはずで、しかし雪姫がそんなことをするはずがない、もう自分に近づこうと考えもするはずはないのだからそれは雪姫ではないはずで、カズマはひやりとした。

 「手が痛むじゃないか。何をやってるんだ」

変な奴だな、という顔で自分の顔を覗き込む雪姫を、カズマは呆然と見やった。雪姫はそれから袂でカズマの顔にかかった血をぬぐった。カズマは呆然としすぎてそれを遠慮することも考え付かなかった。

 そして、もっと呆然とすることが起こった。雪姫が両手を伸ばしてカズマの背中にまわし、頬をよせた。触れた頬が温かくて、鳥肌が立った。

 何故雪姫はこんなことをするのだろう、と思った。何故こんなことをするのですか、と聞きたかった。都合の良い考えが浮かんでくるのを恐れて思考を抑えた。雪姫が離れてゆくのを少しでも遅らせたくて、身じろぎさえしなかった。

「おまえは、私が苦しむだろうと思って苦しむのだ。いつも」

雪姫の声は、静かだけれど、少し震えているようにも聞こえた。

「あの時、勝負を申し込んだ時、私は勝とうと思っていたのではなかったのだ。私は、おまえをてきにしたかっただけなのだ」

カズマは息を吐いた。体が鉛になるようだ。雪姫はそんなにまで俺を憎んでいたのだ。

「私は竜北の人間なんぞ皆敵で良かったのだ。憎悪の目で見下ろされるのがいっそ気持ちのいいぐらいだったのだ。負けるものかと、強くなってやると思った。それなのにおまえが一人だけへらへらと私の護衛だなどと言って笑っていて・・・」

嬉しかったんです。俺は、人殺しが自分の仕事だと諦め始めていて、でも、あなたをお守りできることになって、嬉しかったんです。

「心がおまえの方に流れ落ちてしまいそうで、怖かった。おまえも敵にして心を封じ込めないと耐えられないと思った。だから、いらないって、試合するって、言った時、おまえの笑顔が崩れて、ひどく悲しそうになって・・・」

雪姫はカズマの背にまわした手にギュッと力を込めた。

「ごめんなさい。私は子どもだった。桜の木に登らせてくれてありがとう。お菓子をくれてありがとう。お話してくれてありがとう。本当に楽しそうに笑ってくれてありがとう。本当は、すごくすごくすごく嬉しかった。勝負の時が来ても、勝ったらおまえが護衛じゃなくなるって思って、もう勝ちたくなくなっていた。なのに、おまえは私に負けて。古賀兵右馬はすごく怒って。他の者もすごく怒って。それからおまえはすごくバカにされるようになって。でも、私のそばにいてくれた。おまえを苦しめるばかりでごめんなさい。急いで大人になって、おまえにつりあうように大きくなって、いつか、こうやって抱きついたら、抱きしめてくれるだろうかって・・・」

もう抱きしめていた。我慢できなかった。雪姫は泣きじゃくりながらしがみついてきた。

「おまえのそばにいたい。おまえのいる所にいたい。おまえが、私の故郷だ」

 あたりの灌木が、ハヤトが、地面さえ、はるか遠くに流れていく気がする。かわりに、熱い歓喜が、胸になだれ込んでくる。ああ・・・! 雪姫の体がここにあるということが、この手の中であたたかいということが、あってはならないことなのに、離すことが、できない。雪姫の髪の中に顔をうずめ、こうして、一つのものになって、溶け合ってしまえばいい。

「何か言って」

雪姫がすすり泣くようにそう言った時、カズマの理性は嫌々ながら戻ってきて、自分が何か言える立場には無いことを教えた。

 この人は江知馬の奥方になる人だ。天上の姫君だ。

 でも離せない。抱きしめてしまう。どうしようもないほどに。

 雪姫がかすかに息を吐いた。

「どこかに連れて行って」

逃げてしまおうか。雪姫さえいればいい。この山を越えれば。越えてしまえば、もう竜北ではない。俺にならできる。

 そんなことはできない! ばかなことを考えるな! 

 カズマは歯をくいしばった。

 そして、カズマの良すぎる耳に、馬の走ってくる音が聞こえた。一頭ではない。これは、四・・・五頭か。竜北側から・・・誰だ、追っ手か。

 離したくなかった。しかし、これまで。

 カズマは千切れる思いで雪姫を離し、背にかばった。そのしぐさで、雪姫にも何かが来たことがわかったようだった。

 馬はすぐに現れた。先頭の馬を駆る男を見て、雪姫と逃げる機会が失われたのを知った。義道だった。雪姫を追って行った反対派の連中がカズマの後ろからようやく追いついたらしい。まずはハヤトに気づいたようで、まっすぐこちらに駆けてくる。

 しかし途中で馬たちが嫌がって激しく嘶いた。血の匂いに気づいたらしい、義道は馬をおさえながら刀を抜き、月あかりで忍び装束の男の顔を確かめた。

「カズマか? おまえか? なんだ! 井蔵とかいう奴かと思ったぞ! 後ろにいるのは雪姫様か?」

白根家の抱えている忍者たちが伝えたのだろう義道は井蔵が雪姫を守っていることを知っていた。

「・・・ああ」

義道は刀を納めて馬を降りた。

「この連中は何者だ」

雪姫がカズマの陰から出ながら答えた。

「私の藩の者たちだ。私を竜北の中で殺してしまおうとしたのだ」

「なんと?」

「雪姫様は竜北預かりになっている。それが竜北の中で死んだなら、それは竜北の、古賀の落ち度なのだ。義道殿、分かってくれ。このまま雪姫様を連れて帰らせてくれ」

カズマが言ったが、山林奉行の息子、横山道六が馬上で笑った。

「良い考えがある。この者たちに雪姫が殺されたということにすればよい。その後で我々がこの者たちを切り倒したということにすれば、竜北はむしろ大変な被害を受けたと訴え出ることさえ出来る。この土壇場でこれほどの機会がめぐってくるとは」

「・・・カズマが黙ってはおるまい」

「腰抜けも切るのだ、もちろん」

義道は黙っていた。

「義道? どうした?」

他の面々も馬上から急かす。義道は聞こえないように、雪姫だけを見て言った。

「雪姫、この者たちが雪姫を殺そうとしたと言われましたが、では何故ここで死んでいるのですか。誰がこの者たちを殺したのです」

「・・・井蔵が・・・」

雪姫は言った。

「井蔵が現れて、殺して行ったのです」

義道はカズマを見た。血にまみれたカズマを。

 カズマは義道を見返して、言った。

「俺は雪姫を連れて帰る。あとは、おまえたちが生きて帰るか、ここで死ぬか、どちらかになるだけのことだ」

風が出てきた。義道はごくりとのどを鳴らした。

「どういう意味だ、それは」

江戸家老の息子、高崎誠太郎が馬から降りてきた。

「我々が井蔵ごときに負けるとでも言うのか」

カズマにくってかかろうとするのを、義道が左手で止めた。

「なんだ義道! 腰抜けに言わせておくのか!」

義道は刀を抜くと、カズマに向かって峰打ちに構えた。そして気合一閃、若手では右に出る者はいないと謳われる素早い踏み込みで切り込んだ。カズマはよけようとさえしなかった。左手が動いたのも分からなかった。義道の刀は真っ二つに折れ、切っ先は銀色に光りながら空中を飛び、グサリと地につき刺さった。カズマの刀はとうに鞘に戻り、何事も起こらなかったかのように静かだった。

 誰も声を上げなかった。

 やがて、誰かの笑い声が聞こえた。

   う、ふ、ふ、ふ。くすくすくす。いやぁ、さすがだねぇ。おみごとだねぇ。

 手裏剣が風を切って飛ぶのをカズマがクナイでくいとめた。手裏剣は義道を狙っていた。

「うわっ!」

突然馬が激しく暴れ、藩士が振り落とされた。馬の目に針が刺さっている。

「馬から降りて伏せろ!」

カズマが自身は雪姫をかばって立ちながら叫んだ。

 いつのまにか、井蔵が立っていた。


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