十二 本当のこと
春だから田植えをする。もちろん。
港町で潤う竜北でも、穀物がなければ人は生きていけない。だからみんなで田植えをした。しかしその田に水がない。
竜北は南国だ。北国よりもずっと早く田植えをする。そしてその大事な四月五月に、今年は雨がふらなかった。全然水気が無いわけではないから枯れてしまいはしないが、育ちがひどく遅い。
五月の終わりから、梅雨に入る。
そして今度は一転、竜北を果てない豪雨が襲った。
─ 毎日毎日こう雨ばかりだと嫌になりますなぁ
─ そうですなぁ。屋根の上に早く上りたいですなぁ
忍者達はしかたがないので屋根の上から天井裏に移動して、のんびり声を出さない噂話に花を咲かせることとなる。
もっともカズマに話しかける者は誰もいない。いつからカズマが通ると皆が道をあけ、ひざをついて頭を下げるようになったのか、カズマにもはっきりとした記憶が無い。もうずいぶん前からのような気がする。
御庭之番の役割は戦闘ではない。侵入、調査、伝達。役目の中で戦闘に陥った場合はのろしを上げて仲間に助けを呼んだ。多くの場合は、カズマがやってきた。そして、確実に、敵を倒した。複数でも、もっと大勢でも、変わりはなかった。カズマは速やかにやってきて、速やかに敵を全滅させた。神の技を持つ鬼。守護者。皆が畏怖した。
そういうわけで、雪姫の部屋の上に一人でいるのでいいかげん暇である。奥座敷の方でたむろしている仲間の一人の口元を見るともなしに見ていて、とびあがりそうになった。
─ 黒霞が忍者らしいって噂聞いたか。
─ 黒霞が? アホかい。忍びの者が金なんか盗んで何に使うんだ。
もう一人の方がこう口を動かしている。
─ だけどな、一度捕まりそうになったときに煙幕を使ったらしいぞ。町人がそんなもの使うか?
─ 煙幕か! 煙幕はそりゃいかんな。う〜ん、これだけ神出鬼没ってのも怪しいと言えば怪しいかな。
─ だろ? まったく金ほしさに忍びの術を悪用しやがって。自首しとけ。
─ 俺じゃねぇよ。
カズマはつきたいため息を飲み込んだ。
まずい。無いとは思うが、もし雪姫の口から黒霞の肩に炎のアザがあるともれたら、俺の肩にアザがあることはみんな知ってることなんだからなぁ。
ポン、と誰かが肩をたたいた。
「!!!!!!」
カズマはあやうく音をたてそうになってふみとどまった。
─ 考え事なんかするな、仕事中じゃぞ。
半兵衛だった。
─ じ、じいちゃん、だからそれをやめろとあれほど・・・。
と言いかかって(口暗号を作りかかって)止めた。半兵衛が今まで見たことの無い程に厳しい顔をしていた。
ばれたのか!
黒霞のことか。アザのことか。両方か!
「今、殿様に呼ばれてきた。しばらく江戸の方へ行ってくる」
「え、江戸へ?」
違うらしい。
息をはいたカズマは、次の言葉で硬直した。
「殿様が隠居を決めたぞい。江知馬殿がお国入りされる」
「・・・・い、隠居・・・」
ということは・・・!
「いよいよ雪姫との婚礼が現実となったのじゃ。動き出すぞ。竜北も、幕府も。カズマ、おまえが鍵じゃぞ」
カズマはうなづいた。しかしどうも、目まいがする。
「黒霞の正体は分かっとる」
突然だった。半兵衛の氷のような目がカズマを見上げた。
ジン! と心臓が重くなった。
「流れの井蔵。奴よ」
「・・・・・」
井蔵・・・? そうか、井蔵か、井蔵なのか?
「信じられんか? 白根家に入った賊、名前は残していないが、手口から見て黒霞に間違いはない。城代は、反対派の頭だぞい。ただの盗賊があの屋敷に潜り込めるわけはない。忍び、それもおまえ並の腕が必要じゃ。それにしても奴め、古賀藩の問屋から金を奪い集めてどうするつもりじゃ。半分はばらまいておるんじゃ、金が目的とも思えん。竜北の人心を黒霞に集め、自分の思い通りに動かすつもりなのかもしれん。わしらも奉行所と協力して黒霞の捕獲に乗り出す時が来たかの。カズマ、黒霞を捕らえるのじゃ」
「あ、うん」
「留守はまかせたぞ。井蔵に勝手な真似をさせるなよ」
「あ、うん・・・。あ、そうだ、江戸に何しに行くんだ?」
「殿様の御用じゃ」
ということは、カズマにも言えないということだ。軽く流すようにうなづいたカズマの顔を、じっと半兵衛がのぞきこんだ。その目に奇妙なかぎろいを認めて、カズマはとまどった。
脛に傷持つ身のカズマは、それを、半兵衛がやはり自分を疑っている証拠ではないかと見て、とまどいを隠して平気な顔をしてみせた。半兵衛はふいと目をそらした。
何? じいさん、何でそんな目で俺を見るんだ? 何が悲しいんだ?
聞く前に、カズマ! と呼ぶ声がした。
「ほら、雪姫が呼んどるぞ。おまえが雪姫をお守りするのももうしばらくのことじゃろうが。名残惜しんでやられて来い」
半兵衛のからかいを背に受けて、カズマは雪姫の部屋の縁側に降りた。さすがに大雨の庭には降りられない。縁側でも濡れるが、カズマは六年間一度も部屋に入ったことは無い。身分から言えば、雪姫の許しを得れば入ることもできるのだが、カズマは雪姫が気楽に使える立場でいたかった。
雪姫は能面のような顔で、部屋の真ん中に正座していた。隅には楓がひかえている。
機嫌悪いぞ。
無表情でも、何やら雪姫がひどく不機嫌であるらしいことは、長年の経験では分かった。
「ご用ですか」
「用が無ければ呼ばん」
「・・・・」
やばい、とカズマは思った。雪姫の傍らには、既に竹刀がおかれている。
毎日雨で外出できないぶん、俺を叩きまわして憂さ晴らしするつもりか?
雪姫はジロリとカズマを見た。
「今義道殿より連絡があった。近々古賀兵右馬が隠居し、城に江戸から江知馬殿を迎えるそうだ」
「はあ、俺もたった今聞きました。おめでとうございます」
雪姫の顔が、怒気をはらんで上気した。
まずかったらしい。
「めでたい? 何がめでたいのだ」
「い、いえ」
雪姫の手が竹刀を握る。カズマは後ずさる。
「言ってみろ。カズマ、言うのだ。何がめでたい?」
「こ、この日まで、雪姫様が御無事で生き延びていらっしゃったということは、大変すばらしいことだと、思いますです」
ガシイッ! とカズマの頭の上で竹刀が音をたて、カズマは縁側から庭に落っこちて尻もちをついた。泥だらけだ。
「死んだほうがましということもあるぞ」
この頃、古賀藩を遅い続ける豪雨が、育ちの遅かった稲の苗に大打撃を与えていた。皆が、不作の気配を感じ取っていた。カズマは、結局用などないんじゃないか、と、痛む頭と尻をさすっていた。
そして、梅雨が終わって天が晴れ渡った時、米の値段は五倍にふくれあがっていた。
「なんだあれは」
久しぶりに道場へ向かいながら、雪姫はある店の前に並ぶ人々に目をとめた。
「さっきも別な店で並んでいたが、何の店だ」
「米屋ですよ」
ハヤトをひっぱりながらカズマは答えた。
「三件の米問屋のうちの一つです。これは二番目に大きい大野屋で、倉が二つありますよ」
「店は閉まっているな」
「長雨で稲が倒れ、米が無いのだそうです」
雪姫は驚いた顔をした。
「しかしまだ夏じゃないか。例年は秋まで十分米を売っているのに、もう無くなったのか」カズマはちょっと笑った。なんだかんだ言ってもやはりお姫さまだ。
「ええ、もちろん本当に無いわけじゃないんですよ。出し惜しみしてるんです。今年米が不作なのは目に見えてますからね。おいておけばどんどん米の値段があがって大儲けというわけです」
ピタリ、とハヤトの歩みが止まった。雪姫が止めたのだ。
「どうしました」
見ると、雪姫は恐ろしい顔で米倉をにらみつけている。
「雪姫?」
「すると、あの倉の中は米俵で一杯というわけか? あの、ずっと待っている人々を見ても何とも思わないのか」
「・・・商売ですからね」
雪姫は、今度はキッとカズマをにらんだ。
「おまえ、おまえは何とも思わないのか! このままでは、町の人々が飢死にするかも分からないじゃないか!」
「いやぁ、もう首つって自殺した老人が何人もいますよ。たいていがその日ぐらしをしてたんですからね。米の値段が上がれば他の作物の値段もあがる。家族が食べていけないってんで、年寄りが気に病んで自分で死んでしまうんです」
「・・・そんな、よく平気で、そんな風に言えるな!」
カズマとてもちろん平気というわけではなかったのだ。腹をたててもいた。普段は嫌な盗みも、できれば殿様が標的をどんどん見つけて、貧しい長屋に配る金の量が増えればいいがと考えているくらいだ。
しかし、今カズマは他の事に気をとられていて、それどころではなかったのである。
雪姫の周りを、悪意が取り巻いていた。
はっきり言えば、おそらくは雪姫の輿入れ反対派の送った刺客が、建物の影に、または町民に化けて道々に、四方から雪姫をねらっているのである。
やはり、雪姫そのものを消すつもりなのだ。カズマは辺りに気を配りながら考えた。江知馬殿との婚姻が近い将来にせまった今、相当あせっているのに違いない。藩の中で幕府に決められた奥方候補を殺してしまったらそれこそ取りつぶしのいい材料にされてしまうだろうに、何故分からないのか。病死に見せかければすむと簡単に考えているのか。幕府に対する反発心だけでなく、雪姫との婚姻で普代とのつながりをつけようと考える賛成派との対立がこじれにこじれて精神的ないがみ合いになってしまっているのだから始末が悪い。実力行使してでも雪姫の輿入れだけは阻もうと感情的な行動に走ってしまっている。しかもそれを義だ忠だと自賛していて雪姫のことを倒すべき悪の象徴にしてしまっている。
雪姫と道場に向かうのも、これを最後にしなければならないな。
カズマは寂しく馬上の雪姫を見上げた。
そしてその日の夕方、カズマは見た。桜の木に白い布が巻かれてあるのを。
夜中。雪姫の寝室は、裏庭に面した居間の更に奥にある。隣の部屋には楓がひかえている。その楓が寝てしまい、すっかり城中が静まり返った頃、戸がカタリと音をたてた。そしてわずかな隙間を作ると、その隙間から、白いものがスルリとぬけてきた。雪姫だ。
雪姫は草履を地面に置くと、そっとその中に足を入れた。そして気づいた。庭にカズマが立っている。
「!」
わずかな月明かりに、桜の木の下に立っているカズマが浮かんでいる。
「カズマ。どうした」
雪姫は、何事もないように言った。
「お忘れですか。俺の仕事はあなたの警護ですよ。こうして見張ってるんです」
「怪しいものをではなく私を見張っているのだろう?」
「どちらへ行かれるのですか」
「・・・用があるのだ。どけ」
「城内のあらゆる女性は外出を許されておりません」
「おまえがちょっと目をつぶれば私は外にでなかったことになる」
その代わり二度と戻っては来れないだろう。
「はっきり申し上げます。今外へ出るのは大変危険です。お命にかかわります」
雪姫は面倒くさそうに首をまわした。
「じゃあ、私もはっきり言う。私は実は黒霞と知り合いになっている。黒霞に、米倉を破ってもらいたいと頼みに行くのだ」
カズマは目を見張った。
「何故そんなことを・・・。いや、何故俺にそれを話すのです」
「どうしても会いたいのだ。行かせて欲しい。今それが必要だということがおまえにも分かるだろう」
「盗賊に盗みをやらせるということは、姫様も盗賊だということになるんですよ」
「構わない」
「なぜ雪姫が竜北の飢えを心配するのです。竜北の人間はあなたに優しくはなかったはずだ」
「だからと言って飢え死にはよくない。自殺もよくない」
ああ、雪姫に理屈は通用しないのだ。
「通してくれるな」
「通せません」
町の人々より雪姫の方が大切だ。
「では、腕づくで通る」
「なんですって?」
スルリと、雪姫は刀を抜いた。
カズマの心臓がはねた。
雪姫の、何の感情も無い冷たい顔。
構えが、みね打ちじゃない。本当に切るつもりだ。本気で立ちあわなければやられる。 しかし! 俺は雪姫に勝てないはずじゃないか。逃げるか・・・?
だが、今雪姫を通すわけにはいかない。
カズマは刀を抜いた。どっと汗がふきだす。切りつけるなどはもっての他、しかし負ければ、雪姫は出かけて行ってしまうだろう。どうする!
考えている暇は無かった。雪姫が下段から持ち上げるようにまっすぐ切り込んできた。 ガチリ!
カズマは刀でそれを受け止めた。
そして、自分がひどく驚いているのに気づいた。
本当に切るつもりだと分かったはずだった。しかし同時に、本当に自分を切りはしないだろうと考えていた!
六年間、楓と共に雪姫の一番そばにいるつもりだった。雪姫を自分のお仕えする方と思い、三姫を敵とも思った。しかし結局、俺はただの敵がつけた見張り役にすぎなったのか。切り捨てて何とも思わない程度だったのか。
カズマは雪姫の刀をはねのけて後ろへ飛びのいた。
何を期待していたんだ俺は。少しでも雪姫が俺のことを信頼してくれているなどと思っていたのか。
雪姫は今度は上段に構えた。カズマを鋭くにらみつけている。
カズマは構えられなかった。どうしたらいいか、決められなかった。
頭は決められなかった。しかし雪姫に切り込まれた時、鍛えられた体が本能的に動いてしまった。雪姫の切り込みを体を流してかわし、雪姫の上半身が泳いだ所へ、その手を右手で叩き下ろした。雪姫の刀ははじけて地面につきささった。
はっ、とした時はもう遅かった。カズマは雪姫に勝ってしまっていた。
しまった ─────── !
雪姫はたたかれた右手を左手でおさえ、キッとカズマを見上げた。
「ゆ、雪姫・・・これは、まぐれで・・・」
カズマはやっとのことでそれだけつぶやいた。が、雪姫は鋭く言い放ったのだ。
「やっとボロを出したじゃないか、カズマ」
「・・・・え?」
「最初に試合った時から五年、よく毎日毎日下手な負けっぷりを見せてくれたものだ。まったく感服する」
「・・・・え?」
知っていた? ずっと知っていた? わざと負けていたのだと知っていた?
「まさか、そんな・・・」
「最初の試合、おまえがわざと負けたことぐらいわかってた。確かに私はたかが十一の小娘だった。しかしな、古賀の者に一泡ふかせたいと一年間必死になって修行したのだ。相手が本気かそうでないかぐらいわかる」
「あ、ああ」
「おまえのような者が勝手にそんなことをできるわけもあるまい。どうせ古賀兵右馬の命令であろうが、なめられたものよ」
「違う! それは、違います」
「じゃあなぜあんな真似をした」
「それは・・・」
答えられない。五年間自分でもその理由がわからないままに来てしまったのだ。答えられるわけはない。
「いい加減なことを言うな。その結果、私の修行は無駄になった。結局、負けても勝っても、私は敵の手の内で踊らされていただけということだ」
「・・・・・」
「五年間おまえの頭を殴り続けてきたが、おまえが腹の中で馬鹿にしているかと思うと、少しも気が晴れなかった。悔しかった。いつか、おまえに勝たせて、実は私はそうやすやすとだまされていたわけでもないということを教えてやろうと思っていたのだ。今日がその日だ。せいせいした。もう寝る」
雪姫はクルリとカズマに背を向けると、寝所に戻ろうとした。
「寝るって・・・黒霞は?」
「しかたない。私が来なければ帰るだろう。それに黒霞なら私などが余計なことを言わずとも米不足を放って置くこともなかろう」
「・・・雪姫は、黒霞がお好きなのですか」
雪姫は振り返った。蔑むようにカズマを見た。
「そういう感情は私は知らない。だが信じるに足る人物だと思っている。おまえとは違うのだ」
戸が閉められた。
カズマは立っていた。心が根こそぎもげ落ちた気がした。自分にとってはこの庭にいる時だけが、雪姫と一緒にいる時だけが、人として生きている時間だった。そう思っていた。しかし、違ったのだ。自分が勝手にそう思いこんでいただけで、雪姫は自分のことを虫けらほどにも思っていなかった。ずっと憎まれていたのだ。ずっと雪姫を傷つけていたのだ。
叫び声をあげる気にも泣く気にもなれなかった。これからは何も感じずに人を殺せるかもしれないとふと思った。