十 宴の天女
卯月十日。能の宴。
南の庭に作られた舞台には、既に楽隊が陣取っている。松明が縦横に燃え上がり、昼間のようにこうこうと辺りを照らしている。座敷には主立った家臣達がずらりと並んで舞台の始まるのを今や遅しと待ち構えている。いや、待っているのは舞台ではない、誰も口には出さないが、出席と告げられた雪姫の現れるのを待っているのだ。
座敷の上座には古賀兵右馬の側室お蔦どのと三人の姫君達が並んでいる。その打掛は、これから始まる能の舞台よりもきらびやかに、金糸銀糸で椿や牡丹の大ぶりな花を咲かせている。しっかり塗った白粉の上に頬紅を丹念にまぶし、唇にくっきりと朱の色がのっている。
古賀兵右馬その人は、能の準備の為にこの場にはいない。あまり雪姫の出席に頓着していない兵右馬は雪姫が姿を現す前に能をはじめてしまうかもしれない。はじまってしまっては、あなたが来るまではじめられないと雪姫を追い詰めることも出来ないし、途中で雪姫が来たとしても、兵右馬は自分が舞っている間目をそらしたり何か物を言ったりした者を縛り首にしかねない。雪姫をさらしものにし辱める楽しみが半減してしまうのだ。そうなってはたまらない。トキ姫がイライラと義道に声をかけた。
「雪姫はまだなの」
「は、すぐに来られるということでしたが」
「もう、呼んでいらっしゃい。ぐずぐずしているようならひっぱってくるのよ」
「来ないと始められないって、みんな待ってるのよって言ってやって」
と、これはヒヨ姫。
「はぁ・・・」
義道は少しばかりためらっていたが、立ち上がって廊下へ消えた。
「でも本当に来たらちょっと引くかも」
トキ姫が言った。
「あの格好で来るってヤバクない?」
とサキ姫。満座のものはげらげらと笑った。
と、廊下へ消えたばかりの義道が、あとずさってきた。
「どうしたのじゃ、義道」
お蔦どのが声をかけたが、義道はその声に全く反応しなかった。恐ろしいものを見たかのように目がぎゃあっと開ききったまま固まり、驚愕の姿そのままにあとずさってきたのだ。
満座の者が、軍勢が攻めてきたのかと時代錯誤な錯覚を起こした時、サラサラと衣ずれの音がした。
雪姫だ。雪姫が渡ってくる。
なぜ義道はそんな驚いた顔をしているんだ。まさか着る者が無いのでやけをおこして素裸で来たわけでもあるまい。誰かがひひひと笑ったが、次の瞬間姿を現した雪姫を見て、下卑た笑いは凍りついた。
肌には白い練り絹、上には唐綾、何より打掛けの妙なる色合いは尋常ではない。辺りに光をはなつばかりの薄紅色で、それが動くたびに色が強くなり弱くなり、虹のように光る。しっかりと化粧をした雪姫を見るのは誰しも初めてなのだが、春の初めのしだれ桜に露がおく風情というか、かわせみのような髪を豊かにゆいあげた所など、現世の人間とは思われない。顔つき、指先までの動きなどあまりにも上品で、この人が天下の普代の姫君であったことを満座に思い起こさせるには十分であった。
お蔦どのも、三姫も、一言も無かった。恥ずかしかった。勘違いだったのだ、ひどい勘違い。自分たちが、こんな田舎者が、雪姫のような本物の姫君をバカにできると本当に考えていたなんて。
悔しい! トキ姫は敗北を認めたくなくて唇を噛んだ。でもどうしようもなかった。格が違う。
結局、この宴で能をまともに見たものなど誰一人としていなかった。縛り首になるならなればいいのだ。舞い降りた天女を見られるならば、命を落としても惜しくはない。
カズマは、庭のケヤキの木の上から座敷の様子を眺め、家臣達のため息を聞き、六年分の満足をした。
ざまぁみろ。
カズマは雪姫の庭に戻った。三日間眠らず打掛を縫い上げた楓にこの首尾を知らせてやろうと思ったのだ。が、行ってみて、やめた。楓は疲れ果てて眠っていた。
カズマは笑って庭の桜の木を見た。木の皮があちこちはがれている。白い反物を輝く薄紅に変えた秘密は、実はこの桜の木の皮にあった。
桜の木の皮は美しくないが、実はこれで染めると光沢を持つ紅色に染め上がるのである。桜の花の紅は実は花にのみあるのではなく、桜の木そのものに隠されていたのだ。楓はそのことを国で母親に聞いて知っていたらしい。
カズマは屋根の上に跳び上がった。満足だ。喜ばしいことだ。確かにそうだ。なのに、何故こんなに寂しいんだろう。
雪姫が支度をしている間、カズマはやきもきしながら庭で待っていた。カズマは雪姫を美しいと思っていた。しかし雪姫の凛とした美しさは、もしかすると宴の為に着飾ってしまってはかえって減じてしまうのではないかと心配もしていた。
そして襖が開いた時、感じたのは喜びだったのか痛みだったのか。カズマは意識しないままに庭に膝をついて頭を下げていた。見てはいけないと感じた。見てはいけない。見ていると目が吸い込まれて離れなくなってしまうからか。そのような様を雪姫に悟られたくないからか。しかしそれよりも恐ろしいのは、雪姫が天上の人だとはっきり認めてしまうこと。雪姫が庭に降りてくるのを良いことに、直接口をきくことも、本来なら顔を見ることさえも許されないお方であるということを心の底に封じ込め、何食わぬ顔で剣術の稽古などをしていたことを、意識の上にのぼらせてしまうこと。
でも、もうだめだ。カズマがどんなにとぼけようとしても、城中の者が思い出してしまった。雪姫は天上の人。
「くだらねぇ・・・」
無理やりに声を上げて、気になどしないふりをして寝そべってみる。
一瞬だけしか見なかったはずの雪姫の姿が、まぶたの裏からわいて出る。
カズマは瓦の上に寝転がった。南の庭の方から音楽が聞こえてくる。
金なんか渡すんじゃなかった。
いつしか眠ってしまったカズマが目覚めたのは、既に月が傾きかけた頃合だった。
「カズマ! カズマ! 何処にいる!」
ガバッ! とカズマは起き上がった。雪姫の声だ。この声を聞くと裏庭に跳び降りるのが習性だ。とりあえず跳び降りて、そして驚いた。
いつも通りの雪姫が、竹刀を手にして立っている。
なんだ?
カズマは幻術を避けるように目を細めた。
「何をしておったのだ」
雪姫は仏頂面だ。
「は、はぁ。いやぁ、何か、おかしな夢を・・・」
夢? いや、夢ではなかったはず。カズマは鋭く桜の木をふりかえった。肌をむかれた桜の木。
夢ではない。
縁側では目を覚ました楓がいつものように座って眺めている。満足そうに微笑んでいる。
「まったく肩のこることだ。二刻も重い着物を着せられてじっと座っていたのだぞ。じろじろじろじろ眺めおって無作法にもほどがある。少し暴れでもせんと眠れぬ。相手をしろ」
「・・・・・」
カズマは雪姫を見つめながら真っ直ぐ竹刀を構えた。雪姫は戻ってきた。しかし、もういつ、いなくなるか分からない。その時は間近に迫っている。雪姫は大人になったのだ。
「ほう、今日はずいぶん構えに気合が入っているじゃないか」
そう、今日のカズマはひと味違い、時間をかけて時間をかけて、ゆっくりと負けたのだった。
そして、その後だった。桜の木に結んである白いタスキに気づいたのは。