一 雪姫
山桜というものは、まず葉の方が赤く燃え上がり、これから咲き誇ろうとする花の前触れをするものだ。
このぐるっと回って十歩ほどの殺風景な裏庭にはもったいないほどのみごとな山桜が一本立っていて、めぐらされた白い塀の向こうまで枝を伸ばしている。
そしてその桜の木の下に、カズマは追いつめられていた。
「た、助けてくれ。命ばかりは・・・!」
「貴様の命など、毛虫に等しい」
真っ白い小袖を着て漆黒の髪をたま結びに結い、刀をすいっと構えなおしたのは雪姫。
当年十六歳。
そのあくまで黒い髪にふちどられた白い顔は、日の光を反射して光るまでにきめ細かく、その唇は桜の花びらを重ねたようにしっとりとつややかだ。しかしその目は、獲物を狙う狼のように冷酷だった。
刀はカズマののどもとに向かってするすると伸びる。カズマののどがゴクリと鳴った。
「つ・・・、くそっ!」
後を無くしたカズマは、追いつめられたネズミのように、手にしていた刀で雪姫の刀を振り払おうとした。とたんに、雪姫の刀がスッと消えた。(ように見えた。)
「えっ・・・?」
そして次の瞬間、カズマの頭の上で、雪姫の竹刀がパシイッといい音をたてた。竹刀とは言え渾身の力のこもった一撃、カズマは脳天から全身に染み渡る痛みにしばし歯を食いしばって耐えた。
「ふん、たわいもない」
雪姫の方はつまらなそうにもう縁に上がろうとしている。
「姫様、いくらなんでも毛虫とはあんまりです」
「そうだな。毛虫ならいつか蝶になる日も来るが、おまえはいつまでたってもカズマのままだ。そこまで剣術が下手なのは尋常じゃない。何かの呪いかもしれん。前世で侍でも殺さなかったか?」
「ああ、そういえば雪姫の前世を殺した覚えがありますよ。俺に復讐するために生まれ変わってくるなんて執念深いったらありゃしない」
「おまえがただの御庭之者だというなら、私も調べものでも頼んで満足しているのだが、なにしろ私の護衛だそうだからな。少なくとも私より強くなくてはまずいだろうと思って、親切に、こうして毎日鍛えてやっておるのではないか。ありがたく思え。口ごたえするな」
「う、く・・・。いつか必ず、その頭の真ん中に一本決めて、参ったと言わせてやる。泣かせてやる」
三浦カズマ。この竜北十二万石の古賀家の城、竜北城の御庭之者である。当年二十二歳。御庭之者、簡単にお庭番とも言うが、藩主直属の部下で、古賀家の場合は全て忍者である。カズマは藩主古賀兵右馬の命令により、雪姫の護衛をまかされていた。
「雪姫様、また一段と、剣術が上達したようでございますわねぇ・・・」
縁側で二人の稽古を見ていた腰元の楓がたもとでため息を隠しながら悲しげに言った。
雪姫はこの古賀家の姫君ではない。れっきとした普代家から、現在は江戸にいる古賀の嫡男、つまり未来の藩主である古賀江知馬に嫁ぐ為にこの竜北城に預けられているのだ。そのような身分の姫君が、町娘のような無造作な髪の結い方をして、全く真っ白の子袖だけをまとい、いかに武家の娘だからとはいえ、竹刀をふりまわして庭番相手に剣術の稽古とは、唯一雪姫の国元から同伴を許された側近の楓としては、全く嘆かわしい状況に違いない。
相手はカズマだけではない。現在では竜北一の剣術道場の四天王の一人と数えられ、時によっては師範代まで勤める有様なのだ。雪姫の噂は、城内はもちろん藩内くまなく轟き渡り、いつのまにか誰も雪姫とは呼ぶ者がいなくなってしまった。人呼んで『鬼姫』
「それにひきかえカズマは・・・。おまえいつになったら雪姫を負かしてくれるの! おまえが雪姫を負かしたら、雪姫もこんな剣術なんてやめてくれるって約束なのに!」
楓はカズマを思い切りにらみ、カズマは聞こえないふりをしてそっぽを向いた。
そう、そもそも、この雪姫の剣術三昧にはカズマに責任の大半があった。
今をさること六年前、雪姫は十歳にしてこの城に連れてこられた。しかし竜北城の迎え方は、暖かいものではなかった。
竜北は十二万石、港町としてにぎわい、藩としてかなりの力を持っている。しかも藩主古賀兵右馬はきれ者で知られ、竜北は栄える一方だ。幕府としてはそれがおもしろくない。もともと古賀は外様、太閤殿下の時代より徳川と古賀は仲があまり良く無かった。南の果ての荒れた土地に移封したつもりが、負けん気の強い古賀のこと、荒れ地をあっと言うまに表向き十二万石、実質二十万石の豊かな土地に変えてしまった。港からの収益はもちろんのこと、塩の生産、炭、馬の産出も手がけ、古賀兵右馬は三富候の一人と数えられ、なんと堺の商人から借金を頼まれるまでになっていた。南の果てというのも、こうなれば幕府の目の届きにくい、古賀の自由のききやすい場所というわけで、汲々と保身を考える幕府としては不安の種ということになった。治水などの公共事業は、各候一代に一度ということになっているはずだが、この兵馬右の代ですでに三度も命ぜられ、大量の金と人間を使い、工事中の犠牲者も出した。幕府のあからさまな嫌がらせに対する怒りが藩内にくすぶる中、幕府は更なる挑発的な命令をしてきたのである。
嫡男の江知馬が十六になった時、以前から友好関係にあった津島家のふき姫との縁談が持ち上がり、古賀家が幕府にその旨申し入れて許可を待った。ところが、それが幕府の猜疑心をあおった。同じ遠国の二藩が手を結ぶのは、幕府に対する謀反を考えているのではないか。このような縁談はまかりならん。
そしてかわりにあてがわれたのが、譜代の姫君雪姫だった。その時やっと十歳。しかも正式な縁組は、兵右馬が隠居し、江知馬に家督を譲ったときでなければ許されないときた。
何故か? 実は嫡男として江戸在住を義務づけられていた江知馬はかなりの病弱だという噂があり、幕府もそれを知っていた。そして兵右馬には他に三人の娘はあったが息子はいない。つまり、もし雪姫と江知馬が結婚する前に江知馬が死んでしまったら後継ぎが絶えることになり、労せずしてお家断絶ということになる。
幕府のねらいはあまりに露骨だった。約束のあったふき姫との婚礼がつぶされたのもさることながら、嫡男江知馬の死を期待する幕府のやりかたは、もともと幕府に対する衷心などありえなかった古賀の家臣達の反発心に火をつけた。
一戦交えるべしと意気込む強硬派を、譜代家とつながりができるのは悪いことではないと古賀兵右馬は押さえつけたが、江知馬お国入りまで雪姫との間に何事も起こさせぬよう、雪姫を江戸藩邸ではなくこの竜北によこすと知らせが来た時には、さすがに感情を隠せず、庭の木を数本へし折ったという。
雪姫が竜北城に入ったとき、城はこのような雰囲気の中にあったのである。
その時十六だったカズマは、いずれは御庭之者筆頭として古賀に尽くす重臣として雪姫の前に呼び出され、雪姫を守るよう命ぜられた。
その時雪姫は、見守る古賀の幕僚達の目の前で、はっきりと言ってのけたのだ。
「護衛と申すは笑止。見張りであろうが。この雪姫このような下郎に守られずとも自分の身は自分で守る。私を剣道場へ通わせよ」
幕僚達は色めきだったが、殿様はさすが驚いた顔一つせず、ニヤリと笑った。
「おもしろい。武家の娘が剣術を習うは立派じゃ。しかしいやしくも古賀家の未来の奥方が剣道場に通うは外聞が悪い。これより一年は城中で我が藩の指南役より剣術を習うがよかろう。そして一年後にこのカズマと勝負してもし勝てば剣術の稽古を続けることを許す。剣道場にでも何処にでも出歩くがいい。しかしもしカズマに負ければ、剣術はもとより、一歩たりとも部屋から出ることは許さん」
そして一年後、雪姫とカズマは家臣達ののきなみ注目する中試合を行い、カズマはコテンパンに負けてしまったのだった。
「ああ、雪姫が剣術などおやめになって、せめてお化粧だけでもしてくださったら、決してここのトキ姫、ヒヨ姫、サキ姫にもあなどられることはございませんのに!」
楓は袂で涙をぬぐうそぶりをしてみせたが、雪姫はあっさり無視した
「なにしろおまえのよけ方のにぶさは不思議なくらいだ。私の体運びで右に来るか左に来るかぐらいわからないか」
「俺はこういう人殺しの技はむいてないんですよね。もうちょっとこう、天井裏に忍び込むとか、水に潜るとか、そういう堅実で血の流れない仕事が好きなんです」
「・・・世の中変わったものだ」
雪姫は年寄りじみたため息をついた。
と、この三人ぽっちでほったらかされた裏庭に、もう一人の登場人物の声が響いた。
「カズマ! 貴様何をしておる!」
廊下に城代家老の息子、白根義道が現れた。二十四歳。くそ真面目な忠義一本やりの男で、ということは雪姫に対して最も反感を抱いている者の中の一人ということになる。若いが用心の職務についており、雪姫の世話役、連絡役の務めも果たさなければならないのが皮肉と言えた。しかしこの皮肉で害を蒙るのはもっぱら雪姫の方だったが。
「陰で守るのがきさまの役目だろうが! なにをのんきに遊んでおるか!」
義道は太い眉をつりあげて縁側にとびこんできた。
「女だてらに剣術の真似ごとをする方もつまらぬが、それにつきあってまた負けるほうも負ける方だ。きさまのようなふぬけが男かと思うと胸が悪くなるわ。雪姫とけいこなどするなと、何度言えばわかるんだ! 腰抜け!」
「はいはい、もうしません」
カズマは早々に屋根の上に跳び上がり、そのまま下の様子をうかがった。
義道が伝えに来る用件にろくなものはなかった。今回もどうせまた、兵右馬の側室お蔦どのやその娘たち三姫からの嫌がらせを持ってきたのだろう。
雪姫は座敷に上がった。座敷と言っても雪姫に与えられているのは六畳の一間のみ。楓用の日もささぬ部屋がまたその奥にあるがこちらは四畳もない。義道が将来江知馬の正室となるはずの雪姫の座敷に入ることは許されていないので、縁にかしこまり、雪姫にすすめられたら座ったまま入る、という手順を踏まなければならない。が、義道は縁に立ったまま話をした。
「桜が咲く頃に殿が能の宴を催される。雪姫殿もその席に出られるようにとの仰せだ」
カズマは眉をひそめた。兵右馬は能が大好きで自分でも舞う。事あるごとに、事がなくとも宴を催すのだが、その席には主だった家臣が全て揃い、お蔦どの、トキ姫、ヒヨ姫、サキ姫が、これでもかとばかりに凝りに凝った装いで居並ぶ。
ところが雪姫には着るものが無い。
雪姫の家は格式は高いが藩として多大な借金を抱えており、無理やり送り込まれた雪姫のために竜北は腸がちぎれるような思いで支度金を支払った。その後も雪姫のために国もとから金子や着物が届くどころか、再三の借金の申し入れ、姻戚関係に甘えた返すつもりのない借金の申し入れが重なり、三度目に兵右馬が断って依頼、雪姫の国もととは疎遠になっていったのだ。
竜北でも雪姫のための予算は最低限で、食事も一汁一菜の粗末なもので、着物もわずかなものをなおしながらなおしながらなんとかやりくりしている有様で、とてもそのような公の晴れの席になど着ていけるものなどあるはずもない。普段、無地の小袖ばかり着ているのは、なまじみすぼらしい着物を着ているよりは、という一種の開き直りなのかもしれなかった。
しつこく繰り返される宴への誘いを何かと理由をつけて欠席しているが、それから数日の間は何故かこのような城の裏の小さな離れの裏庭近くでお蔦どのや三姫と偶然すれ違うことになり、この間の宴はどうして欠席したのか、何なら捨てるつもりだった私のおふるをさしあげましょうか、などと露骨な嫌味を言われる。
今回の宴も、行くことはできないが、断る理由もそろそろ尽きた。
「そうか、分かった」
静かというのとも違う、感情の無い雪姫の声を後ろに聞いて、カズマは屋根の上の方まで駆け上がった。聞いていたくない。義道がまたネチネチと、必ず来ると何度も言わせるのだろう。行けないことを百も承知で。
雪姫には表情が無い。竜北に来たばかりの頃は、まだ意地っ張りな目をする時もあったし、不機嫌に頬をふくらませる時もあったのに、そんな表情すらすぐに失せ、殿様の舞う能の面のように、いつも何かそこに無い物を見ているような目をして、自分がそこにはいないかのような顔をしている。
あたりまえだ。感情を無くさないとやっていけるものか。
天気がいいので屋根の上では御庭之者たちがあちこちで寝転がっている。藩主直属の者だけでなく、家老や奉行達の子飼いの忍者たちもいる。陰で護衛すると言ってもお城では隠れるところも無いので、たいてい屋根の上か天井裏しかない。どちらにしても古賀藩の仲間なので縄張り争いすることもなく、家臣たちの忍者が主人の退出を待つ待合屋根裏も用意されている。城の中では危険もなく暇なので、暗号で世間話をしてみたり、ついさぼって昼寝をしたりということになる。
雪姫の庭から戻ってきたカズマに気づくと、忍者たちは目をそらして俯いた。声をかける者は誰もいない。カズマは気にすることも無く天守閣の方へ上がって行った。御庭之番筆頭、三浦半兵衛が昼寝をしている。
気配を消して近づいたつもりだが、半兵衛は白いヒゲにうずもれた顔をカズマの方にかたむけた。
「今日も負けたか」
「まあな」
「このあいだ、城代家老の白根がおまえのような腰抜けに御庭之者筆頭を継がせるのは問題があると殿様に言っておった」
「うん、そうだろうな」
「そろそろ勝ってみらんか」
「そのうちな。殿様はどうしたんだ。放っといていいのか」
「能の稽古だ。わしはあれが大嫌いなんでな」
「そりゃいい。うまいこと転ばせてくれ。骨の一本でも折れりゃくだらない能の宴なんか無くなるだろう」
半兵衛は長い眉を持ち上げた。
「雪姫が宴に出ずにすむからか? 勘違いするなよ。おまえは雪姫の家臣じゃない。古賀の家臣じゃ。雪姫に一服盛るようなことにもなるかもしれんのだから、情をうつすな」
「ああ。・・・雪姫がどうこうと言うんじゃないんだが、義道の底意地の悪い顔を見るとむかむかするんでな。ああまでネチネチいじめなくてもよさそうなものだ」
「あれはあれで忠誠心が強すぎるだけの真面目な男だぞ」
「堅物に過ぎるよ」
「おまえはいずれ義道と共に古賀を守っていくことになるんじゃ」
「気持ちの悪い。じいさま、長生きしてくれよな。隠居しないでくれよ」
「ふん・・・」
半兵衛はもごもごとひげを動かした。カズマの両親はカズマが物心ついた時にはもういなかった。カズマが、自分には両親がいないのだと気づいたころ、任務の途中で死んだと知らされた。
カ ズ マ !
雪姫の呼ぶ声が聞こえる。
「あ、嫌味が終わったらしい。道場に行く日だってのにだいぶ遅れてしまった」
カズマは屋根の上を風のように跳んで、桜の庭に跳び下りた。
義道はいなくなっている。楓も何処かに行ったようで雪姫だけが桜の木の下で燃え上がる葉を見上げている。
カズマはこの裏庭に雪姫が一人でいるのを見るのが好きではなかった。一人でいるのは若い娘には似合わない。
「馬ですね。すぐ鞍を用意しますからお待ちください」
「昨夜『黒霞』が出たそうだな」
振り返りながらの雪姫の言葉にカズマはぎくりとした。『黒霞』が出たら教えろと言われていたのに黙っていたのがばれてしまった。
「義道殿が言っていた」
「白根様が? なんでまた盗賊のことなんかを」
「そのうちここにも金を撒きに来るのではないか、とな」
『黒霞』というのは、最近出没する盗賊に町人たちがつけたあだ名だ。姿を現したかと思うともう消えている。大店を狙っては盗んだ金の半分を貧しい長屋界隈にばらまいていくというので人気が高いが、カズマはそういう義賊気取りのやり方が好きではなかった。
「黒霞にやられた店を見たい。道場へ行く前によるから案内しろ」
「見たっておもしろくないですよ。ただ中から金が無くなってるだけなんですから」
「いいから案内しろ」
雪姫の目が据わってきて、こうなっては何を言っても無駄だと知っているカズマはあきらめて馬屋に走った。
馬屋では今日も小六が餌をやっていた。十五になったばかりの庭番なのだが、動物好き、特に馬好きでとうとう馬番のようになってしまった若者だ。
「あっ!」
小六はカズマの姿に気づき、床にひざをついて頭を下げた。
「ハヤトは」
「はい! もう鞍もつけて出しております」
「ありがとう。遅くなったから気をきかしてくれたんだな」
「いえ! あの、はい」
小六は赤くなった。
ハヤトは城で最も美しい白い馬で小六のお気に入りだ。殿様の持ち馬の一頭なのだが、カズマの頼みで雪姫用の馬と決め、ことのほか丹念に世話をしている。
「おまえに任せるとネズミも蛇もよく増えるとじいさまが誉めていたよ」
「いえ! いえ! ありがとうございます!」
頭を下げたまま嬉しさをかみつぶす小六に笑いかけて、カズマはハヤトの方に急いだ。