指摘と苦情
「今日は、あまり集中できないようですね」
個人講義の合間で年配教師に注意されて、シオンも自分で認めることにした。
「すみません。貴重な時間をいただいているのに」
「それは、上着がないことと関係しているのですか」
「え?」
隙のない姿勢の正しさに似合った無駄を嫌う女史にしては珍しい気遣いに、シオンは何を言われているのかわからなかった。
「申し訳ありません。放課後とは言え、失礼でした」
「いえ、問題なければよいのですが」
講義から外れた雑談を好んでするタイプではないので、いじめか何かだと心配されたのかもしれないと考えついて、改めて取り繕っておく。
「ご心配、ありがとうございます。知り合いに貸し出しただけですから」
「それは、ジェニファー嬢ですか」
なぜ、それを? と驚いたシオンだったが、すぐに当然かと納得し直した。
入学して早々に令嬢に囲まれていたおかげで、同性の友人すらいないのだ。
当初は自分から努めて話しかけたりしていたものの、寄りつくのは物見高い冷やかしか、令嬢の紹介を期待する碌でなししかいなくて諦めた。
「私の失態で困らせてしまったからで、無理強いされたわけではありません」
脅迫して付き合ってもらっている立場ながら、教師に悪評を抱かせるには忍びなく思うくらいの人情は、シオンにだってある。
そんな意味を含ませた発言に、目の前の教師は苦笑して返してきた。
「あなたも大変でしょう。年頃の女の子は、夢中になると周りが見えなくなりますから」
「え、いえ……」
まさか、そんな話題に流れるとは想像もしていなかったシオンは、戸惑いながらも、とっさに否定してしまった。
事実、面倒をかけているのは、こちらなのだから。
「公爵令嬢がお相手ですから、気苦労も多いでしょうけど、あまり無下にはしないであげてくださいね」
「はぁ……」
冴えないシオンの応答に、教師はしまったという表情をした。
「私としたことが、失礼しました。教師が余計なことを言いましたね」
「いえ、気にしてませんから。……ですが、珍しいですね」
「そうですね。彼女を見ていたら、夢中になれるお相手がいる健気さが羨ましく思えたのでしょう。老婆心からくる戯れだと、聞き流してください」
「わかり、ました」
「では、今日は終わりにして、残りは来週に致しましょうか。あなたも、もうお帰りなさい」
「はい。ありがとうございました。失礼します」
そうして部屋を出てきたシオンは、またもや、ぼんやりしていた。
講習内容が難しかったわけではない。
興味があったわりに、いつになく頭に入ってこなかっただけで。
なのに、処理しきれない情報で脳内が溢れている気がするのだから奇妙で仕方なかった。
もう、今日は調子が悪いと割り切って、余計なことを考えずに寝てしまおうかと、のろのろ寮に向かう裏道を通りかけたところで、更なる余計なことに出くわした。
とっさに、相手から見つからないよう木陰に隠れ、自分は何をしているんだとわけがわからなくなる。
そっと様子を窺えば、本日の役目を終えて別れた偽りの溺愛令嬢、ジェニファーがいた。
一緒にいる相手はシオンの知らない男子生徒だ。
ジェニファーよりも、やや背が低いので、後輩だろうか。
二人は随分と親しげに見える。
邪魔しても悪いので、面倒でも表の道に出て帰ろうと向こうの様子を確認し直し、シオンは目を見張った。
ジェニファーは親しげな男子生徒にしなだれかかり、至近距離で見つめ合っていたのだから。
相手の方は顔を真っ赤に驚いているようで、それ以上は、なんだか見ていられなくて、シオンは慌てて遠ざかった。
「私って、どこに行っても公爵令嬢でしかないのね」
時は少々逆戻り、シオンと別れた後の夕方。
いつものウィルヘルムとの待ち合わせ場所にやってきたジェニファーは、顔を合わせるなり、いかにも憂鬱そうにこぼした。
「ジェニファーちゃん、令嬢をやめるつもり?」
「ああ、ごめん。気にしないで。ただの愚痴だから」
「うーん。でも、人前で口に出しちゃうなんて、余程のことがあったんじゃないの?」
「そうよ。あったわ。ウィルヘルム君に全力で訴えたいことが!」
途端に、ジェニファーは勢いよく前のめりになり、思わず後ずさるウィルヘルムに指を突き出して苦情を訴えた。
「絶対無敵の上目遣い、ちっとも効かなかったんですけど」
「えっ、え? 成功したの?」
「したけど、効かなかったって言ってるの」
「変な顔したとかじゃなくて??」
「失礼な。きっちり、最上級の笑顔で見上げたわよ。そしたら、苦み走った顔をされたんだけど!」
「ううーん、あざとすぎたのかな。シオン様って真面目系だから堅そうだし」
「そのわりには、エスコートも気遣いも手慣れたものよ」
「だからって、上目遣いが効かないってあるかな」
「じゃあ、再現してあげる」
「ん?」
ウィルヘルムの指南をちょっと疑い始めていたジェニファーは、溺愛仕様で腕を絡め取ると、背丈差の分だけ上半身を傾けて見上げてみた。
「思えば、これだけのことなのよね。ちょっと見つめるくらい、必殺技でも何でも……」
ないと言いかけて、ジェニファーは止まった。
女の子に慣れてると豪語していたウィルヘルムが、顔を赤くして固まっていたのだから。
「……本当に効くのね」
「当たり前だよ。効かないシオン様がどうかしてるんだ」
「と、いうことは、私、相当嫌われているのね」
「そこまでは分からないけど、好みタイプと正反対だとか、身分差を自覚しすぎてるからとか、色々考えられるんじゃない?」
「とにかく、相手が悪いことはハッキリしたわけだし、溺愛指南はここまででいいわ」
「そお?」
「ウィルヘルム君も忙しいんでしょ」
「まあね。でも、ジェニファーちゃんと話すのは楽しいから気にしないで。難しいことを考えなくていい相手は息抜きになるし」
「そうよね。王子様の側近候補だものね。じゃあ、たまに愚痴の言い合いでもしよっか」
「ふふ、いいね。大賛成」
「じゃあ、今日は解散。またね」
ジェニファーが告げると、ウィルヘルムは迷ったように呼び止めた。
「嫌なことはされてないんだよね?」
ウィルヘルムの視線は、借りたままになっている腰元の上着に向いていた。
「もちろん。つまらなかったら、公爵令嬢の力で追い払ってるわよ」
傲慢な物言いで心配を否定すると、今度こそウィルヘルムは手を振って帰っていった。