氷の賢者の本気
あれから二ヶ月。
ジェニファーは予定通り、一週間ほど意思表示として引きこもった後、寮生活を引き払って通常登校を再開した。
当然に聞かれた質問には「飽きちゃった」と微笑んで答えれば、誰も追求してこなかった。
遠巻きな視線やざわめきがまとわりついてはきたけれど、気にしないでいる内に飽きられる。
ただ、ちょっと意外だったのは、ちっとも反感を買わなかったことだ。
いかにも公爵令嬢らしい傲慢な振る舞いに、多少は厳しい目が向けられるのを覚悟していたのだけれど、咎める言葉はどこからも聞こえてこなかった。
公爵家が相手だから、よほど慎重に用心されているらしい。
もちろん、シオンには遭遇すらしていない。
同じ学年にいるのだから、すれ違いくらいするだろうと用心していたのだけど、これまた全く見かけなかった。
「まるで、夢幻ね」
それとも、短い青春だったと称するべきか。
一人でクスリと笑ったジェニファーは、チャイムの合図で直帰しようと階段を降り、玄関フロアに出たところで驚いた。
久しぶりにシオンの姿を見かけたからだ。
というよりも、こちらを射貫くような眼差しでピンポイントに見つめられていた。
あれから何も言われなかったし、グレースからも問題ないと聞かされていたから油断していた。
まさか、今更になって文句をつけに来たというのか……。
少なくとも、ジェニファーに用があるのは間違いなさそうだ。
こちらに真っ直ぐ近づいて、目の前に立って、そうして、静かに跪いた。
じっと見ていても、立ち上がる気配がない。
つまり、躓いたとかじゃなく、間違いなく跪いているらしい。
意味がわからない。
「ジェニファー嬢」
「はい」
反射で返事をしてしまった。
「私は愚かにも、あなたの愛に溺れて抜け出すことができなくなってしまいました。ですから、どうか、ドミニク男爵となった私に求婚する機会をいただけませんでしょうか」
そう言って差し出された手を見て、あくまでも生真面目な態度のシオンに視線を戻して混乱した。
「ドミニク男爵になったって何!?」
あれだけ爵位返上を念頭に動いていたのに、男爵になっただなんて、おかしすぎる。
「ははっ、気にするところはそこなのか。まあ、色々と聞きたいこともあるだろうし、こっちも順に説明したいから談話室に移動しよう。付き添いにグレース嬢とウィルヘルムがいるから安心できるだろ」
その余裕ある貴公子風情に腹が立ちつつも、野次馬の視線が気になったので、話だけは聞くと周囲に宣言して同意した。
偽りの関係をやめているので、先を歩くシオンの数歩後ろをついていく。
もう、隣を並び歩くことはないのだろうと考えながら、ようやく、さっき告げられた演劇染みたプロポーズが浮かんできた。
深く考えるには唐突すぎて、説明があるまで追求はしないでおこうと決めた。
代わりに、知った名前の二人が裏切ったことをしっかりと覚えておくことにする。
目的の談話室が見えてくると、扉の前で裏切り者が待ち構えていた。
グレースは悪びれずに笑って手を振っているが、ウィルヘルムの方は多少の罪悪感からか、気まずげに肩をすくめている。
対するジェニファーにできる仕返しは、ご機嫌ようと完璧な淑女の礼をしてやることくらいだった。
「まあ、ジェニファー様。正にレディの鏡ですわね。どんな時でも優雅に振る舞ってみせるなんて」
「いいえ。私なんて、まだまだですわ。だって、私、いまにも喚き散らして裏切り者を言及したい気分なんですもの」
たぶんだけど、こんな返事をしているジェニファーはこめかみがピクピクと令嬢らしからぬ引きつりを起こしていることだろう。
「楽しそうなところ悪いけど、本題に入りたいから中に入ってくれ」
一番の元凶に軽くいなされて、今度こそジェニファーはシオンを睨みつけた。
「……ごめん」
素直に謝られて、ジェニファーは戸惑った。
何か、このやり取り以外を含んでいるようで。
ともかく、話を聞くと宣言したからには、ここで逆らうつもりはなかったので従っておく。
そこでシオンと向かい合わせに座らされた。
グレースとウィルヘルムは、あくまで立会人として壁際に立ったままだ。
「それで、さっきのアレは何?」
「あれくらいしないと、話も聞いてもらえないと思って」
「もしかして、何か問題でもあったとか……」
急に自分の勝手で困っているのではと心配になったけど、そうじゃないと否定されてホッとした。
「ただ、色々と教えてもらった」
グレースやウィルヘルムが同席しているのなら、当然の前提だろう。
「氷の賢者様が同情するほど、私の環境は酷かしら?」
冷めた目を向ければ、想定とは違う、やけに真っ直ぐな気持ちを返されていた。
「俺は君が好きだ」
「は?」
「どのくらいかって聞かれたら、放棄するつもりだった爵位を継承するくらいだって言えば、それなりに信じられるだろう」
「ちょっと待って。信じる、信じない以前の問題なんだけど」
「君の隣にいるなら、さすがに爵位は必要だ。それでも格差がありすぎるから、ひとまず資産確保のために父さんに手紙を出して、男爵位を継承してから役所にこれまでの手当ての不正を訴え直して、ついでに、管理地の融通をウィルヘルムを通して王太子にお願いしてみた」
「……」
もう、なんて返したらいいのか、ジェニファーにはわからなかった。
「もちろん、まだ最低限だけど、一応、必要な条件は揃えたつもりだ」
「なんで、そんな無茶を」
「あんたに告白するために」
「どうして?」
「どうして? そんなの、好きになったからに決まってる」
不機嫌に言い返されて、ジェニファーは唖然とした。
「最初から嘘でいいって言ってあったのに、あれだけ誠実に尽くされて、惚れない男なんかいるわけないだろう!」
まさかの逆ギレだ。
それに、あんなので惚れられるなら、片想いする女の子は楽勝じゃないだろうか。
「そこまでして、断られることは考えなかったわけ?」
「嫌なら断ればいい。俺はウィルヘルムを通して次期国王と取り引きした。彼の御世に限りドミニク家は忠誠を誓い、立場を確保した。次期王家の平穏は保証する。あんたは好きに生きればいい」
明確で公平で、なのにどこか傲慢な選択肢を示されて、なぜか息苦しくなった。
心臓が早鐘を打ち、いまになって現実感を伴ってきたジェニファーにシオンは立ち上がって近づき、静かに再び跪いた。
「苦労はかける。覚悟ができないなら断わってくれていい。でも、それでも頷いてくれるなら、俺は何があっても一人で泣かせないと誓う。どうしても泣きたくなったら、俺の隣にいればいい」
ささやくように告げられて、ジェニファーはずるいと思った。
思った時には涙が溢れて、嬉しくても泣けるものなのだと理解した時には抱きしめられていた。




