公爵令嬢の憂鬱
「暇だわ」
抗議の意を込めて、わざわざ寮から自邸の部屋に戻って引きこもりをしているジェニファーは退屈でしかたなかった。
だけど、不幸中の幸いで収められたのはよかったと思っているので後悔はない。
珍しくグレースに引き止められたと思ったら、シオンと婚約話があるのではないかと教えられた時には目眩がしたものだ。
その場でグレースにシオンへのフォローを頼み込んで、自分は屋敷に戻って侍女マーサを問い質した。
案の定、上着を借りたことを執事に報告していたらしい。
マーサには即座に、お嬢様が望んでいないことをしっかり追加報告するよう申し付けた。
「私が迷惑をかける令嬢になって、どうするのって話よね」
なにげなくテーブルに腕を伸ばして、グラスの底に残っていた果実水をこぼしてしまった。
「あーあ」
人を呼びたくなくて、倒れたグラスだけを起こす。
柑橘の匂いがほんのり漂い、そういえば、シオンと出逢った時も、こんな風についてない日だったなと思い出してしまった。
「あーあ、これは無理かも」
昨日、適当に乾かした髪がうねって、下ろしていくと格好悪いことになりそうだ。
仕方なく三つ編みをすると、控えめな髪飾りを足して調える。
何かを期待して寮に入ったものの、失敗だったかもしれないとため息がこぼれた。
学園の中でも何も変わらない。
遠巻きにされて、見えない壁を作られる。
身分だけの問題ではなかった。
多少がっかりはしたけれど不便はない。
いや、これなら屋敷から通う方が楽だったかもしれないけど、自分から言い出したことなので意地を張っているだけだ。
それだって長期の休暇を越えて、すっかりジェニファーの日常になった。
「あ、すみません」
慣れない髪型に気を取られていたら、誰かとぶつかりそうになったらしい。
それだけのこと。
相手は同学年の女子で、ジェニファーの顔を見るなり強張った表情で深く頭を下げ直した。
いったい、公爵令嬢をなんだと思っているのか。
こんなことで厳しく罰していたら、生活なんかできない。
それとも、単純に縁起が悪いと憂鬱になったのか。
「気にしないで。こちらも、ぼんやりしていたのだから」
ジェニファーは殊更、柔らかな笑みを浮かべて返しておいた。
だけど、この日は何をしても、いつもなら気にしないでいられる些細な気配が目について仕方なかった。
それでもお腹は空くもので夕食に食堂に向かうと、柱の影でささやき合うカップルに気がついた。
大丈夫だよと慰める男子の声を拾って、場所を選んでほしいと思いながらも、少し羨ましいと思ってしまう。
「でも、私、来週末のお茶会が怖いわ。王妃様の親族がいらっしゃると聞いてるのに」
縋るように訴える声音と内容に、ジェニファーの心が瞬時に凍えた。
昼間にぶつかりかけた令嬢だと気がついてしまった。
本当に怯えているようで、そうさせているのが自分だと理解してしまって、ジェニファーはそのまま部屋に戻った。
何かを考えていたわけではなくて、ただ、人前に出る気分ではなくて、なのに、体は空腹を主張して止まない。
そうして、ジェニファーは短剣を手に裏手の階段を降り、空き室の窓から外に出た。
冷たい夜風に当たって、公爵令嬢が空腹を紛らわせる為に体を酷使しようとしている馬鹿らしさに笑えてくる。
夜の深さにいつの間にと見上げ、けれど、月明かりが優しくて、そのまま寮から離れた避難用の草地で剣技の鍛錬を始めた。
何もしていない自分が傷つく必要はない。
王妃様だって、その親族だって、これまでジェニファーの周囲を害したことはない。
家族は優しく、定期的に侍女を寄越して不便はないかと心を配ってくれている。
なのに、どうしてと考えている自分が嫌だった。
嫌なのに、体は勝手に涙をこぼしてくれて、腹立たしくて、むしゃくしゃして、枝を伸ばしている生け垣に短剣を叩きつけて、ハッとした。
人がいる。
本当に油断していて、咄嗟のことに体が、頭が働かなかった。
「こんな時間に一人で剣をぶん回してるなんて、とんだ公爵令嬢だな」
ジェニファーは少なからず驚いた。
互いに表情が見て取れる距離にいるというのに、泣いていることに触れられなかったから。
「いや、爵位に関係なく、人様に見せられる姿じゃないか」
そんなことを言いながら、こちらをじっくりと眺めているソッチはどうなんだと腹が立った。
「脅すつもり?」
おもいっきり睨んでやれば、なぜか考え込んだ風に黙った。
ジェニファーには見覚えがない上に向こうは男子だ。
いざとなったら、こちらには短剣があると身構えておく。
「寮生だよな。ってことは、慈善活動や家業で忙しいわけがない。しかも、親しい友人はいなそうだ」
変に的確な指摘をされて、ますますムカつきが強くなる。
「婚約者か好きな人は?」
「はあ?」
「いるのか、いないのか」
「いないわよ!」
馬鹿にした様子で問われて、つい、事実を答えてしまった。
「だったら、丁度いい。俺に脅されてくれ」
「はい?」
「だから、俺の虫よけになってくれって言ってるんだ」
そんな奇妙奇天烈なことを言い出した相手は、とてもいいことを思いついたかのような笑顔だった。
いま思い返しても、おかしな脅しだと思う。
ついでに、シオンがジェニファーの弱みを泣いていたことではなく、短剣を振り回していたことだと勘違いしていることもすぐに判明した。
ホッとしたものの、それはそれで、ちょっぴり乙女心が傷ついたのだけれど。
それでも脅され続けていたのは、あの涙を隠しておきたかったから――というよりは、楽しかったからだ。
困惑することばかりだったけど、ワクワクする日々は久しぶりだった。
「でも、もうおしまい」
ジェニファーは少しだけ笑んで、テーブルにこぼれた果実水を指で拭った。




