頑固者同士
楊儀どのは偏狭だ。われわれ部下の間でもそう言われている。
報告にあいまいな点があるとしつこく追及され、「この点はもう一度詳しく調べてくるように」と突き返されてしまうのは日常茶飯事。作業に妥協は許さず、些細な失敗であっても叱られ、納期も必ず守らせる。言ってしまえば厳しくて嫌な上司である。
われわれが住んでいる蜀は小さな国である。しかし何倍もの国力を誇る魏の国に対して国家総動員の状態で北伐と呼ばれる遠征を何度も行ってきた。魏は四百年続いた漢の王朝の最後の皇帝から無理やり位を譲らせて設立された国である。
蜀の先代の皇帝である劉備様は滅ぼされた漢王朝の血を引くとされており、蜀の地に漢王朝を復活させるための国を建てた。劉備様が死ぬとその子が跡を継いだがまだ幼く、劉備の軍師だった諸葛亮、字は孔明、が実質的には国を治めている。そして劉備の悲願であった魏の打倒と漢王朝の再興を目指しているのだ。
孔明さまは丞相という皇帝に次ぐ地位にあり、全権を握っている。大軍を率いて蜀の国を出て、一万尺(2500メートル弱)を上回る高さの山脈を越えて魏の領土である五丈原に攻め込み、陣を構えている。
自分の上司にあたる楊儀どのは丞相長史と呼ばれる遠征軍の事務方の長であり、軍全体でも孔明さまに次ぐ地位にある。五万人を超える遠征軍の食糧や物資の手配や運搬、および軍隊の編成という重要な任務を担当している。
五万人の兵士の食糧を運ぶだけでも大変だが、断崖絶壁に穴をあけて橋を架け道を通すような「桟道」と呼ばれる山道を何百里も人や牛車を使って運ぶのである。少し雨が続くと土砂崩れで山道は寸断されて修復が必要になる。しかも五丈原にいる五万の兵が飢える前に届けなくてはならない。とんでもなく苦労が多く、難しい任務を行っているのだ。
定期的に将軍たちを集めて軍議が行われていた。それぞれの陣営を率いる将軍たちだけでなく、楊儀どのをはじめとした事務方も出席している。春に五丈原に陣を構えて最初は魏軍との小競り合いがあったが、夏になってからはこう着状態となっている。
魏延将軍は現在の蜀軍の押しも押されぬ筆頭の武将だ。孔明さまと同じ頃から先代の皇帝に仕えている最古参の一人。その勇猛さは蜀だけでなく敵国にも知られ、恐れられている。問題は魏延将軍は敵にも厳しいが味方にも厳しいことだ。
食糧はもちろんのこと、陣を築き修復するための資材や武器防具なども予備分も含めて輸送を滞らせてはならない。少しでも遅れようものなら軍議の場で魏延将軍は楊儀どのを責めるのだ。先日の軍議ではこのような場面があった。
「楊儀殿、前回の軍議で依頼した矢の補充の件だが、通常の三倍の量を送ってほしい。敵との対峙が長引いて兵に気の緩みが見られる。大規模演習を早急に行って引き締めを図りたい」
「将軍、急に言われても次の定期補給隊の物資に入れるのは難しいです。次回と次々回に分けての補充ではいかがでしょうか?」
「いや、それでは困る。川の対岸の魏軍が新たに陣を築いているという報告があった。援軍が来るのかもしれぬ。援軍が来たと同時に攻撃されることも考えられる」
「通常の訓練での消費量を減らすなどして、何らかの工夫でもたせることはできませんでしょうか?」
「何を申すか!我が軍が少ない兵力でも常に魏の大軍と互角に渡り合えて来たのは厳しい訓練の伝統があるからだ。そこを妥協しては魏に付け入る隙を与えるだけだぞ。工夫すべきは輸送部隊のほうではないか?」
魏延将軍が凄む。楊儀どのは間をおいて反論を続ける。
「こちらでも既に散々工夫はしております。輸送隊の人員は増員しました。輸送路の沿線住民の協力体制も強化しております。ただ先週の大雨で桟道が崩落した箇所が複数あり修復が終わるまでは輸送力は七割ほどに低下しているので――」
「工夫も努力も足りぬ。前線は死力を尽くして戦うものだ。同じ気概を後方も持たねば勝てる戦も勝てなくなるぞ」
「工夫が足りぬとはあまりなお言葉では。輸送隊とて転落事故で何度も犠牲者が出ているのですぞ!」
「いや、足りぬ。そもそも前回の遠征でも代わりの輸送路が用意されていれば撤退は防げたのではないか?」
「あれは味方の虚偽の報告を受けて撤退を丞相が判断されたのであって――」
さすがに議論が白熱しすぎて他の幕僚が割って入って二人を制止した。魏延将軍は剣を抜こうとしていたし、楊儀どのの目には光るものが見えていた。孔明さまも前回遠征の撤退のゴタゴタを思い出させられて愉快ではなかっただろう。
他の重臣たちは高慢な魏延将軍に対しては表立って反論するものはいない。それくらい大きな存在であり、さらに前線の監督者として正論で議論を押してくるので反論は難しいのだ。
これに対して楊儀どのは事務方の統括者として立場上、魏延将軍に正面から反論せねばならない議論が多い。もともと舌鋒鋭く直言する性格の楊儀どのは魏延将軍と何度もぶつかってきた。しかし今回の軍議では一線を越えた雰囲気があった。
蜀軍の半分近くを引き連れ、険しい山脈を越えて何度も遠征を行うのは無理があるのだ。蜀の国力を疲弊させ、軍人たちは焦燥にかられ、うわさによると激務により孔明さまの体をも蝕んでいるとも言われている。
孔明さまが病気になっているとするなら、それは無理もない話だと思う。本来は細かい案件の判断は部下に任せるべきだと思う。しかし孔明さまは罰棒二十回以上の刑罰は全て決裁を行っている。
以前に孔明さま配下の別の幕僚が、
「このような細かい案件は我々にお任せ下さい!お休みになる時間を増やして大きな案件に集中して下さい。このままでは孔明さまのお体が持ちません」
と強く意見した。孔明さまは涙を流して彼に感謝したが、結局細かい案件まで直接決裁する方針は変わらなかったという。
細かい案件まで孔明さまが決裁を行うと困ったことになる。決裁を行うための資料は楊儀どのが率いる事務方が全て用意しなくてはならないのだ。したがって事務方の作業も膨大なものになる。本来は五日働いたら休暇を一日もらえるはずなのだが、休日返上になってしまうことも多い。なにせ楊儀どのも孔明さまや魏延将軍以上に妥協を許さない。前線の兵士の休暇はきちんと取らせているという建前になっているなか、事務方の休暇はおざなりになっているのが実情である。
いつものように我々が準備して楊儀どのが(大幅に)修正した決裁文書を孔明さまの元へ届けに行くと、珍しく呼び止められた。
「貴重な葡萄酒が手に入ったので楊儀さんにおすそ分けしようと思いましてね」
五丈原は砂漠の道まで通じる交易路沿いにあり、西域の珍品が手に入ることもある。
「ありがとうございます。きっと喜ばれることでしょう。すぐにお届けします」
「先日は魏延将軍とはかなりやりあったけど、大丈夫でしたかね?」
「え、まあ……いつものことですので。翌日にはいつも通り我々を叱り飛ばしておりました」
「ふふふ。ならば安心ですね。私は立場上は誰かに肩入れをすることはできません。でも楊儀どのは私を慕って頂いている、そう、亡き馬謖のように。私は今度は何があっても見捨てることは決してありません」
思いがけない孔明さまの感情の発露に何も返事をすることができず、思わず拱手して深く頭を下げ、退出するのが精いっぱいだった。
馬謖どのは六年前の一回目の北伐の際に魏延将軍を差し置いて孔明さまに先鋒を任された若き将軍であった。しかし街亭の山の上に陣を張って魏軍に水路を絶たれて敗北し、蜀軍は撤退したのであった。馬謖殿は命令違反を犯した上での敗退だったとされて処刑された。そして孔明さまも任命の責任を負って三階級降格を申し出て自らの処罰としたのであった。しかし
「実際はどのような命令が出されていたのか?」
「処刑という処置は正しかったのか?」
などの疑問が数多く当時から出されていた。後味が悪く、暗い影を軍の全体に落とした敗戦であった。
慎重かつ重厚な孔明さまが個人的な好き嫌いを口にするのも珍しいことであった。病の身を隠しているといううわさともあいまって何やら不吉な予感を感じさせる言葉だった。孔明さまがもし亡くなったらどうなってしまうのだろう。軍隊は無事に蜀の地に帰ることができるのであろうか。
楊儀配下の事務方を集めた会議で、魏延将軍の要求をどのように実現するかの検討を行った。その結果、五丈原と輸送路の途中の中継地点である三交城の二か所の工房での矢の生産量を一時的に増やせば魏延将軍の要求する量は計算上確保できることが分かった。あとは崖崩れなどで輸送路の寸断が起こらないことである。
前回桟道が大雨で流された際、代替の輸送路は通行可能であった。ただし代替路は山が険しく牛車が使用できない。物資を人手で運ぶための「木牛」「流馬」と呼ばれる車両を代替路に手配するのが遅れて輸送に遅れが発生したのであった。
そこで代替路の中継地点にある程度の車両を配置しておくことで不測の事態にも対応できるようにすることになった。必要な予算措置について孔明さまの決済を得て手配を進めたのであった。
魏延将軍の元へ使者として出向くのは毎回緊張する。怒鳴られたことも一度ではない。過去にも苦情と弁明のために何度も往復したこともあり自然と気が重くなる。ただし今回はきちんと対応策を練ってあるのでうまく行くはずだ。そう自分に言い聞かせるしかない。
代替の輸送路は二本整備が完了しており、主要の輸送路が断たれても二つの代替路で輸送量は維持できる。また代替路が一本だけになってしまうと七割の輸送量となる。しかし二日ほどの余裕を確保した輸送予定を組んでいるので七割の輸送量でもギリギリ納期を守ることができる見込みだ。三本とも断たれた場合にはどうしようもないが、代替路の一つは主要路から離れているので可能性は低い見込みである。
魏延将軍に一通り輸送部隊の検討案を伝えると、将軍は意外にも機嫌よく
「わかった。よろしく頼む」
と二つ返事で承認してくれた。こちらの案が良かったのだろうか。いや、むしろある幕僚が魏延将軍と楊儀どのの間をいつも取り持っているので、事前に案の概要を伝えて根回しをしてもらったのが功を奏したのかもしれない。
ほっとして拝礼し、下がろうとすると魏延将軍に呼び止められた。
「こういった輸送路の運用を考えるのは貴殿なのかね?」
「必ずしも私からというわけではございません。事務方の皆で案を出し合って練り上げてまいります」
「ふむ。いずれにしても今回くらい具体的に説明されるとこちらも部下たちを安心させることができる。今後も続けてお願いしたいものだ」
「かしこまりました。お役に立てるよう努めたいと思います」
「わしは何も意地悪をしている訳ではないのだぞ。前線も後方も死力を尽くすのが蜀軍の伝統。だが後方の苦労は前線には見えにくい。むしろわしらは後方の悪口を言いがちだな。だからこそ今回のように具体的な工夫が見えると、軍全体の結束につながるものだ」
「ご教授、恐縮です。戻ったら皆にも、楊儀どのにも伝えます」
「まあわしは楊儀は大嫌いだがな。頑固者同士はうまくいかぬのだ。孔明ともだがな」
がははと将軍は野太い声で高笑いする。こちらは愛想笑いをするしかない。孔明さまのことをこのように言及できるのは蜀の国中を探しても今や魏延将軍のみであろう。
「だがこれでもわしは奴の能力は買っておる。曲がりなりにもこの無茶な遠征の輸送を支えているのだからな。貴殿も奴のことをしっかりと支えるように。あとは先ほども申したが後方の状況をもっとわしにも共有するように。よいな?」
深く拝礼して魏延将軍の幕舎から出た。案件が認められ自分も評価されていることは嬉しいはずだ。しかしそれよりもこれからは今まで以上に楊儀どのと魏延将軍の間に入らねばならなくなりそうでむしろ憂鬱であった。
魏延将軍が楊儀どののことを評価しているというのは意外だった。やはりただ勇猛なだけな武将ではない。強烈な個性の中にも、人の心の機微をつかむ細やかさも持ち合わせているようだ。だからこそ部下の心をたばねて精強な部隊に鍛え上げることができるのであろう。果たして自分の上司の楊儀どのはこの名将と今後もなんとかやっていけるのであろうか。心配がつのる。
思わず魏延陣営に長居してしまい、すっかり日が暮れていた。夕暮れの空に星がまたたき始めている。孔明さまも得意とする占星術は自分には全く分からない。しかし夜のとばりが降り切っていないこともあり星々の光は弱く、不安定なものに見えた。秋の始まりを感じさせる涼やかな風と澄み切った空がなぜか身に染みるのであった。
構想中の長編の一部として書いてみました。主人公は長編ではいろいろと脚色しますが、この短編の中では狂言回しとして動いてもらいました。