7.温かいその手を、握り続ける
病室に入ると、雲雀は目を覚ましていた。打撲のせいか、さすがにいきなり起き上がることは難しかったらしい。
「ハル……お母さん……」
「雲雀……」
先に雲雀に寄っていったのはお母さんの方だった。お母さんは何も言わない。ただ雲雀の手を握って、うつむくばかりだった。
「……ごめんなさい、お母さん」
「もういい……謝らなくても」
雲雀のごめんなさいという言葉を、何度も聞いてきた。俺が何度も感じるのだから、お母さんはもっともっと聞いてきただろう。そんな中で、一番悲しさに満ちていた。
「ハル……」
俺はなんて言葉をかければいいのか。いろいろ考えて、迷いに迷った。悩んで結局何も言えずにいると、雲雀が安心したように言った。
「ハルが元気で、よかった」
俺の胸の中がすうっと、新しくて明るい空気に変わるのを感じた。どんよりと曇っていた視界も、たちまちに晴れるような気分。雲雀の言葉はその時の俺にとって、魔法そのものだった。
「雲雀……!」
自分が事故に遭ってしまったことで、俺が塞ぎ込んだりしていないだろうか。雲雀はそうやって、俺の心配をしてくれていたのだ。
「……やっぱり、無理だったのかな、って」
まるで俺と雲雀のお母さんの話を、全部聞いていたような言い方だった。本当に一部は聞こえていたのかもしれない。俺が雲雀のお母さんと話している時、少しだけ周りの会話の音量が小さくなっていた気がするから。
「ハルに助けてもらうようになった時から、いつもハルが隣にいてくれて。たぶんいつの間にか、そうやって並んで歩くのが、当たり前だって思ってた。でも、気づいた……このままずっと一緒にいられる保証はないって。違う大学に行くかもしれないし、違う会社に行くかもしれない。ハルの方が先に死ぬかもしれない。もしそうなったら、私はたぶん、一人で生きていけない。だから」
「……一人で何でもできるようにならなきゃって、思った。そうだよな」
「……」
雲雀がうつむいて、黙り込んでしまう。やっぱりそうだ。もしかすると俺を嫌いになったのかもしれない、その可能性が万が一にもあるかもしれない、と思っていたが、そうではなかった。俺はほっと息をつく。が、安心しきっていいわけではない。
「確かに雲雀の言う通りだ。俺だって、雲雀の隣にずっといたいけど、思い通りにいく保証なんてどこにもない。俺は……絶対に雲雀のことを嫌いにならないし、雲雀も俺のことを嫌いにはならないと思ってる。ちょっと、嫌な言い方だけどな」
それはつまり、俺がずっと雲雀にとって魅力的であり続けなければならないということ。雲雀よりもずっと楽観的に物事を捉えていて、ずっとこのままでいい、くらいにしか思っていなかった俺は、自分で言っておきながらどきりとする。
「ずっと誰かを頼れとは言わない。でも、一人で生きていけるように頑張り続けろとも、言いたくない。雲雀があの時まで一人でできてたことを、もう一度できるようになろうとするのは、応援したい」
「ハル……」
「少しずつ、探していけばいいんだ。俺だって全然誰の助けも借りずにできることなんて、きっと数えるくらいしかない。一人でやってるようで、実は誰かの手を借りてるなんてこと、よくあるだろうし。だから探すのなんて、ホントにゆっくりでいい。そうじゃない時は、いっぱい俺を頼ってほしい」
俺は雲雀のそばに寄って、布団の中の雲雀の手を握る。温かいけどか弱い手。雲雀の手を握ったのなんていつ以来だろう。少なくとも高校に入ってからは初めてだった。わずかな力ではあったが、雲雀も俺の手を握り返してくれた。
「……ハルに頼らないとできないことなんて、数えきれないくらいあるけど」
「そんなの、全く問題ない。雲雀が俺に助けを求めた時に、一度でも嫌な顔したことあったか?」
「……覚えてる限りでは、ない」
「だろ? ……え」
「……ふふ、冗談。ハルはいつもにこにこして、私を助けてくれるから」
ふと雲雀が俺から目線を外して、にっこりと笑いかける。俺も病室に入ってからほとんど口を開かず、俺たちのやり取りを見守っていた雲雀のお母さんの方を向く。穏やかな笑顔がそこにあった。
「これからも、よろしくお願いします……って、言っていいのかな」
「ああ。任せとけ」
俺がそう言うと、雲雀は安心したように目を閉じた。そのまますうっと、眠りに入ってしまった。
「……ありがとうございます」
温かい雲雀の手を離して、俺は雲雀のお母さんにお礼を言う。雲雀がこうして目の前で事故に遭うのを見たとしても、雲雀のお母さんが俺に問いかけてくれなければ、俺は雲雀に何も言ってやれなかった。頼りたい時は頼ってくれていい、任せとけなんて言葉は、きっと俺一人では出てこなかった。なぜなら今になって、その言葉の重みを実感しているから。
「こちらこそ」
病室を出て、ナースステーションまで戻ってから、俺はそう言葉をかけられた。
俺はしばらくコモンスペースで休憩してから、迎えに来てくれた父さんと一緒に家に帰った。
* * *
一週間経って、雲雀は無事退院した。本当はもっと早く出ることもできたらしいが、大事をとってのことだった。
「ハル。……帰る」
「分かった」
雲雀が退院してから、変わったことがある。それは帰る時、雲雀の方から俺を誘ってくれるようになったということ。まだまだぎこちないが、一緒に帰るかと誘ってくれるだけで、こんなに心が温かくなるのかと驚いていた。
「海はどうする?」
「逆に聞くけど、お前はいいのかよ。明らかに俺が二人の恋路を邪魔することになるけど」
「こ……っ」
俺の隣に立っていた雲雀が、急に俺の後ろに隠れた。腕をつかんでぷるぷると震えている。
「恋路……とか、そういうのじゃない、から……」
「オレは遠慮しとく。せっかくお二人さんの仲が進展したんだからな」
「若い子にウザ絡みするおっさんみたいなこと言うな」
とはいえ、海の言ったことは正しい。前よりも雲雀との距離は、確実に近くなった。海や綾矢以外が思っているほどの近さではないにしても。それは異性の幼馴染という特別な関係の俺たちにとって、たぶんいいことだ。
俺たちは二人で帰り道を歩く。ついこの間までそうやって、隣どうし並んで歩いていたはずなのに、妙に新鮮な気分だった。
「……ハル」
「ん?」
「手……つなぎ、たい」
「ああ。もちろん」
俺は指を絡めるようにして雲雀と手をつなぐ。が、そうすると雲雀が焦った様子で俺を見てきた。
「違う……そこまで、求めてなかった」
「え? ああ……ごめん」
意地悪してやろうとか、そういうつもりは全くなかった。気がつけばそうしていたから、俺は慌てて普通に手をつなぎ直す。
「でも、こっちの方が懐かしいかもな。手つなぐのとかいつぶりだっけ?」
「たぶん、中1の頃。指相撲、した時」
「それを手つないだって言うのかどうかは、微妙だけどな」
確かに懐かしい。あの頃はまだ、雲雀のことを変に異性だと意識することもなかったから、休み時間はそうやって雲雀と遊ぶことも多かった。海と仲良くなってからは、どちらと遊ぶのが楽しいか決めづらくなったが、その時は間違いなく、雲雀といるのが一番楽しかった。
「違う?」
「合ってるような、間違ってるような……ま、いっか」
俺たちの関係をこじれている、と表現するのだとしたら、それは思春期と雲雀の病気が重なったせいだ。もしも雲雀の病気がなかったら、今頃俺たちの距離はもっと近くなっていたはずだから。ただ、その病気があってこそ今の雲雀がある、とも言える。病気なんてない方がいいのには間違いないが、病気にならなかった雲雀を想像するのも、少し怖い。
「あったかいな、雲雀の手」
「そう……?」
「ずっとつないでたい」
「……!?」
今なら何でも言える気がした。雲雀がいちいち反応するのを楽しむ余裕さえあった。
今日は母さんが夜勤で、父さんも少し帰ってくるのが遅くなると聞いていた。こういう時は雲雀の家に行って、一緒にごちそうになることにしている。ご飯が何でも今日はおいしくなりそうだな、と俺は思って、雲雀の手を握る力をほんの少しだけ強くした。