6.一人でできること、できないこと
雲雀が事故に遭った。
それからの記憶は、ひどくあいまいだった。事故が起きて少し経っていたのか、救急車がすぐに来たのは覚えている。運転手の女性と一緒に救急車に乗ったのも記憶にある。しかし次の瞬間には、俺は病室で眠る雲雀の隣にいた。
「雲雀……」
広い道に出るその交差点で、一時停止しようとした車にぶつかった。車が遅かったおかげで、軽い打撲と脳震盪で済んだらしい。意識を失っているが、目を覚ますのも時間の問題だという。
車は悪くない。一時停止に従って止まろうとしていた。むしろ赤信号なのに飛び出した雲雀が悪い。だが、雲雀は信号の色が見えなかった。
俺が一人で抱え込まずに、もっと早く海や綾矢に相談していれば。雲雀と話すのももっと早くなって、雲雀を一人で帰らせることなんてなかっただろう。雲雀だって、今の状態で一人で帰ることがどれだけ危ないか、分かっていないはずはないのだ。
「……ごめん」
眠ったままの雲雀に俺がかけられる言葉は、その程度だった。
雲雀が起きたら、俺に何を言うだろうか。ハルのせいだ、と俺を責めるだろうか。それともこんな目に遭ってもなお、俺のことをかばってくれるのだろうか。今雲雀が目を覚ましたとしたら、どっちもあり得る。
「陽道君」
うつむいて手を握るしかない俺を呼ぶ声がした。厳しい女性の声。声のした方を振り向いて、誰かを確認する。雲雀のお母さんだった。
「……話がしたいの。来てくれる」
「……はい」
俺は雲雀のお母さんの後をついて、ナースステーション前のコモンスペースへ行く。心臓のあたりがきゅうと締め付けられて、ズキズキと痛んだ。
* * *
こうなることは分かっていた。
雲雀が搬送されたこの病院は、雲雀のお母さんの職場だからだ。自分の娘が事故に遭って運ばれてきたなんて話を耳にして、黙っているはずはない。これまでずっと俺や綾矢が一緒に帰っていたのに、それで事故になんて遭うはずがないのに。雲雀が運ばれてきたということはつまり、雲雀が一人で帰っていたということで、俺は雲雀を一人で帰らせた、ということになる。
そして俺は、雲雀のお母さんが苦手だ。苦手というより、あまり話をしたことがないから、どんな人なのかがよく分かっていない。雲雀のお父さんは俺の父さんと同じような立場だから、雲雀の家にご飯を食べに行った時に会うことが多い。俺の父さんと雲雀のお父さんも仲がいい。けれど雲雀のお母さんには、実は何度かしか会ったことがない。俺と雲雀の仲をいぶかしんでいる、と聞いたこともある。
「陽道君」
「はい」
「……どうして、雲雀を一人にしたの」
「……」
いきなりそう尋ねられて、俺は口をつぐんでしまった。雲雀を一人にしてしまったのは、雲雀が自立したい、俺に頼ってばかりではいけないと言ったのに対して、俺が何も言ってやれなかったから。でももっと大元をたどれば、雲雀が薬剤師を目指すのをやめた、と言い出したからだ。そのことを、雲雀のお母さんは知っているのだろうか。
「陽道君が雲雀を一人にするなんて、考えられなかったから。雲雀が陽道君に何かしたのなら、言って」
「……雲雀は、悪くないんです。確かに雲雀は俺に何も言ってこなかったけど……でも、止められなかった俺が、悪いんです」
「……詳しく聞かせて」
単純な話ではなさそうだと、雲雀のお母さんは俺の表情を見て理解してくれた。俺はそのまま、雲雀との間に何があったのかを話す。
「……どうして、あの子は言ってくれなかったのかしらね」
俺の話を一通り聞き終わって、雲雀のお母さんから発せられた言葉。俺はそれで過去の記憶を呼び起こされて、どきりとした。
――どうして、言ってくれなかったの。
それは雲雀の視界が本当に鮮やかさを失って、周りの人に打ち明けなければならないほど追い詰められて、相談した時の言葉。やっとのことで俺に打ち明けて、でも気のせいだとあしらわれて。幼馴染の俺にそう言われて、もう誰にも相談できなくなって。それでも色が見えなくなるのは止まらなくて、いよいよ誰かに相談しないといけなくなって、母親に相談して。そうしてかけられた言葉が、それだった。
「……っ」
雲雀のお母さんが悪いとは思わない。俺と雲雀のお母さんとで、相談する順番が逆だったとしても、俺は同じことを言っていただろう。どうしてそんな重大なことを一人で抱え込んで、誰にも言おうとしなかったのか。
「雲雀はしゃべってくれないから……何か事情があるのか、それとも思春期で済ませられる話なのか、私には分からなかった」
今の俺になら分かる。怖かったのだ。色が見えなくなったら、どう考えても今後生きていくのに困る。もともと人間は誰かの助けを借りないと生きていけないとは言うけれど、それ以上に頼らざるを得なくなる。しかも頼りっぱなしになって、恩を返すことも難しくなる。色が見えている俺でも、それがどれだけ恐ろしいことか分かる。自分一人で何かを解決しないといけない局面に立たされた時、何もできない自分が容易に想像できてしまうから。まして色が視界から消えてゆくのを日に日に感じていた雲雀は、恐怖で心が押しつぶされそうになっていたことだろう。
「雲雀は色が見えないって言うんだから、陽道君が助けてくれるって言ってるんだから。その優しさに、甘えてもいいと思うのに」
「……雲雀の気持ちも、分かるんです。俺だってたぶん、雲雀と同じように考える。このままずっと俺や他の人を頼っていかないと、生きていけない。目は見えるのに色だけが見えなくなるなんて、いつ治るか分からないし治るのかどうかも分からない。一生付き合っていくことになるかもしれない。だから、一人でできることはないか、探し始めたんです」
「……一人でできることなんて、限られてるでしょ」
雲雀のお母さんの声色が変わった。でも怒っているのではない。何か諦めに近いものが、雲雀のお母さんの背中からは漂っていた。
「世の中の色が全部、何不自由なく見える人間だって、一人でできることは数えるほどしかないの。私の仕事だってそう……同僚のみんなが協力してくれないと、受け持った患者さんが協力してくれないと、仕事が進まない。自分の身の回りのことでさえ、一人だけではできなかったりするのに。色が見えなくなった雲雀が一人でできることなんて、」
「……それ以上言わないでください」
気づけば俺は、そう言っていた。雲雀が一人でできることなんてほとんどない。絶対にそうやって、雲雀のお母さんは言おうとした。そんなことを、言ってほしくなかった。
「きっと正しいんです。雲雀が一人でできることは、もしかしたらないかもしれない。朝起きてご飯を食べて、学校に行って、帰ってきて寝る。それくらいのことならできるかもしれない。でも色が見えなくなる前は普通に一人でできていたことが、できなくなってしまったかもしれない」
「……」
「そんなことはきっと、雲雀も分かっているんです。頑張って一人でできることをもがき探しても、結局何もできないって知ることになるかもしれない。でも、たとえそうだとしても。……雲雀が探そうとするのを止めるのは、やめてもらえませんか」
「……!」
それが俺の、言いたいことだった。確かに雲雀は自立できる方法を探そうとして、自分一人でできることを探そうとして、事故に遭ってしまった。それで俺を責めたくなる気持ちも痛いくらいに分かる。けれど雲雀を諦めさせる理由にはならない。そう信じたかった。
「俺は雲雀と、もっと距離が近くないといけないと思ってます。今はまだ遠いし、いろいろあって近づけずにいるかもしれないですけど。いつかは絶対――」
『今宮さん、ナースコールですー』
その時、真正面にあるナースステーションから、雲雀のお母さんを呼ぶ声が聞こえた。看護師さんは他にもたくさんいる。その中でわざわざ俺と話をしている、雲雀のお母さんを選んだということは。
「雲雀……!」
雲雀のお母さんと俺。病室に向かって立ち上がり、コモンスペースを出たのが同時になった。