3.鋭い親友
「鶴居……それから、あー、粉河。小テの採点頼む」
「「は!? えー……」」
「二人そろって同じ反応をするな。……次のテストは二人で問題考えてくれていいからさ」
「「そっちの方がめんどくさいです」」
それから数日後のこと。六限の数学の授業の後、その日の小テストの採点を俺は頼まれてしまった。一緒にやらされるはめになったのは粉河綾矢という女子だ。俺が海と中学からの仲であるように、綾矢は同じく中学の頃から雲雀の親友。下の名前で呼べるくらいには、俺も仲がいい。
「あー……最悪ー。今日練習なんだってばー」
「練習なんて、十分かそこら遅れても変わらないだろ」
「いや変わる変わる。アップの時間分だから、結構違う」
俺たちのクラス三十六人分の小テストを、ざっくり半分くらいに分ける。担任でもある数学教師が置いていったサインペンを使って、俺たちは採点を始めた。
「……そういえばさ」
「うん」
「雲雀があんまりあんたの話、しなくなったんだけど。何かあったの」
「……」
綾矢と一緒に教室に残ることになった時点で、こうなることは予想できた。雲雀が夢を諦めると言ったあの日から、俺と雲雀の間には明らかに、これまでとはまるで異なる空気が流れていたからだ。雲雀の一番の理解者である綾矢が、気づかないはずはない。
「鋭いな、綾矢は」
「雲雀は分かりやすいから。今日のハルは、ってずっとうるさいくらい言ってたのが、ぱったり止んだから。どう考えても、何かあったでしょ。痴話ゲンカ?」
「痴話ゲンカではない。……何なら、ケンカもしてない」
「じゃあなんで」
「なんでだろうな」
夢が変わることくらいあるだろう。雲雀も薬剤師という夢を諦めただけで、何もせず無気力に生きていく、とまでは言っていない。雲雀の進路なのだから、俺があれこれ口を出す資格はない。それはよく理解しているつもりだから、納得したはずだった。それなのに、俺は何か複雑な思いを抱え込んでいる。
「あんたが雲雀に、何かひどいことを言うとは思えないし。雲雀が怒ったの?」
「それは、違う」
俺は雲雀に打ち明けられたことを、ほとんどそのまま綾矢に伝えた。
「……薬剤師になる夢、か」
「俺が口出しする話じゃないってことは、分かってるつもりなんだけど。雲雀が距離置いてきてる感じもあるし、俺も雲雀になんて声かけたらいいか、分からなくなってる」
「一緒にも帰ってないんだ」
「そう。綾矢は一緒に帰ってるだろ?」
「だね。それでも、あんまりしゃべんなくなったけど」
将来何かなりたいものがあるとか、夢があるとか。それだけで特別なことなんだ、という論説文を、現代文か何かでやった記憶がある。確かに目の前の道が明るく開けているなんて、そんなにいいことはないだろう。でもそんな夢を諦めることの意味も、また俺たちにとっては大きい。雲雀の言葉には、どうしようもないほどの重みがあった。
「あんたは、薬剤師になりたいって思ってんの」
「まあ。まだ二年生が始まったばっかだし、何とも言えないけど。割と小さい頃から、雲雀と言ってるから」
「まだ諦めてはないんだ」
「俺はな」
「……でもさ、雲雀もそんなに簡単に、夢を諦める子じゃないと思う」
「……それは」
「色が見えない薬剤師ってどうなの、って雲雀は言ったわけでしょ。でもそれって変じゃない? それが仮に正しいとしたら、だけどさ。そんなの、三年前には気づいてるはずだから。いくら雲雀が引っ込み思案だって言っても、さすがに三年も同じことで悩んだりしないでしょ」
綾矢の言う通りだった。俺もそのことには気づいていた。けれど、話しかけられなかった。ましてあの理由はおかしい、他に何か言いたいことがあるんだろ、とは言えなかった。
「本当は何考えてんのか、本人に聞くのが一番早い。あたしが聞いてもいいけど?」
「……いや」
これは俺と雲雀の問題だ。このことに綾矢が絡んでいるとは思えない。自分自身の問題か、他人が関係あっても俺だろう。だから、俺が聞かないといけない。
「ま、雲雀のことで悩んでるならあたしを頼ってくれていいよ。あたしには分かっても、あんたには分かんない雲雀の悩みとか、あるかもしれないし。女の子特有の、とかね」
採点おーわり、と言って、綾矢が立ち上がった。今回の小テストは確かに、採点が楽だ。が、俺はまだ終わっていなかった。雲雀のことにすっかり気を取られていた。
「貸して、あんたが終わんないとあたしも部活行けないし」
「ん、ああ」
「そんなに雲雀が気になるなら、さっさと話せばいいじゃん」
「……それは、そうなんだけど」
「あたしだから何かあったのかな、って思ったけど。あたしと淵垣以外は、あんたたちが付き合ってるって思ってるんだから。あんまり話さないでいたら、別れたのかと思って雲雀に言い寄る男子とかいそう」
「それは、困る」
「じゃあ、何とかしないと」
俺と雲雀がなぜ付き合っていないのか、俺たち自身も分かっていない。確かに付き合っていてもおかしくない距離感だとは、俺も思う。
「あんたは雲雀のことが好きなんでしょ?」
「もちろん」
「で、雲雀もあんたのことを、誰より大切に思ってる。何で付き合ってないの」
友達以上恋人未満、という表現がある。俺と雲雀の関係を表すならそれなのかもしれない、と思う。俺たちの間には確実に、友達以上の何かがある。だが友達と恋人のちょうど中間地点なのかと問われれば、それもまた違う気がする。
「雲雀が奥手っていうのは分かる。昔から、そこは変わんないし。あの子からあんたに告白するのは、想像できない」
「……そうかもな」
綾矢は、雲雀の中学の頃からの友達。それはつまり、昔の雲雀を知っているということ。今の雲雀からは考えられないほど明るくて、前向きだった雲雀を。だからこそ、俺と雲雀の仲を心配してくれているのだ。
「……はあ、採点終わり。先生のとこ持って行って。あたし部活行ってくる」
「了解」
「よろしくー」
綾矢はさっさと荷物をまとめて出て行ってしまい、俺一人が教室に残された。ぱらぱら、と軽く採点漏れがないか確認してから、荷物を持って職員室に向かった。
「おー、鶴居。終わったか」
「はい」
「ちなみに次の小テストの問題、作る気は?」
「ないです」
「そうかあ」
「部活入ってないので、採点なら別にいいですけど。問題まで考えるのはちょっと」
「そんな真面目くさって言われると、余計に頼めないな」
「まだ頼もうとしてたんですか……」
この先生は一年生の頃から数学担当だが、いつもこんな感じだ。このラフさが生徒にウケているというのもあるようだが、俺はさすがに緩すぎるとも思う。このまま三年生まで担当になったとして、受験は大丈夫なのだろうか。
「そうだ、鶴居」
「はい?」
職員室を後にしようとした俺を、ふと先生が呼び止めた。
「今宮だが、最近変わったことはないか」
「雲雀、ですか」
「今パッと点数悪いやつを引っこ抜いたんだが、その中に今宮が入ってる。いつも見てる限り、半分も取れないことはないだろ」
「……そう、ですね」
「お前が来る直前に粉河が来てな。今宮の話を鶴居にしてくれって言われたもんだから」
「あいつ……」
綾矢が心配してくれるのはいいが、なかなかに回りくどい。別に俺と雲雀の仲を先生に知られたくないとか、そういうわけではないが、場合によっては説明しないといけない。普通に面倒だ。
「まあ、親御さんからも今宮の話は聞いているから。気にかけてやってくれ」
「はい。……分かってます」
「じゃ。採点、助かった」
先生がひらひらと手を振った。それを合図に俺は軽く礼をして、今度こそ職員室を出る。そして入口で立っていた人に、危うくぶつかりそうになった。
「っとと。……雲雀?」
「ハル……」
雲雀は何かあると、すぐ顔に出る。雲雀の顔は俺と先生の話を全部聞いていました、と言っていた。