2.雲雀の夢
色が変になって見える。
雲雀がそう訴えるようになったのは、中学二年生の頃だった。もともと普通に見えていたのが、だんだん色が薄れて見えるようになり、ついには白黒にしか見えなくなったのだと言う。
「気のせいだって。最近ちゃんと寝てるか?」
「寝てるよ。ハルとは違うもん」
初めにそう打ち明けられた時、俺は冗談のように流してしまった。目は見えるのに色だけが見えなくなるなんてことが、あるはずはない。寝不足で体調を崩しているだけだろう。俺はそう思っていた。
「ハル……」
今から思えば、その時無理やりにでも雲雀を病院に連れて行っていれば、何か違ったのかもしれない。雲雀の目が、完全に白黒とその濃淡しか認識できなくなったのは、それからほどなくしてのことだった。
「……ごめんね」
信号が見えずに、赤の状態で雲雀が飛び出したのを、腕をつかんで止めた。初めて雲雀を助けたあの日。雲雀はぼろぼろと涙をこぼして、俺にそう言った。
どのみち手遅れだったと、雲雀は罪を背負わせないように気を遣って俺に言う。まさか色だけが見えなくなるなんてと思った雲雀は、しばらく一人で抱え込んでいた。親より先に俺に相談した時にはすでに、色らしき色はほとんど見えていなかったらしい。だから俺が楽観視して、聞き流したせいではない。相談しなかった自分が悪いのだと。雲雀は俺に、何度もそう言ってくれた。
「……ハル。ハル……?」
「ん……ああ」
雲雀に相談された日、それから横断歩道の前で雲雀の手を引いた日。三年前のことを、いまだに俺は鮮明に覚えている。時々フラッシュバックを起こしては、呆然としてしまう。
「また、あの日のこと?」
「……まあ」
以前の雲雀は、明るくて活発で、誰に対しても優しい、理想の幼馴染だった。少なくとも中学で海に出会って仲良くなるまでは、間違いなく雲雀が一番の友達だった。男だからとか女だからとか、そんなことは俺たちには関係なかった。生まれて病院にいる頃から隣どうしの俺たちは、周りのやっかみを鼻で笑い、適当に流してきた。そうするだけの余裕が、常に俺たちにはあった。
「……ごめんなさい」
「このことで謝るなって、言ってるだろ」
雲雀がそうしてすぐにごめんなさい、と口にするようになったのも、その時からだ。あの日から雲雀はだんだんと、心を閉ざしていった。以前の雲雀は、もうどこにもいない。よく似た別人と入れ替わったんじゃないかと、俺が思うほどに変わってしまった。
「ご飯、作るか」
俺は背中につう、と流れる冷や汗を感じながら、気を紛らわせるようにそう口に出した。晩飯は雲雀の希望でオムライス。今から作り始めれば、ちょうど父さんが帰ってくる頃に出来上がるだろう。
すたすたと俺と一緒に台所まで来て、雲雀も手伝ってくれる。人参やシイタケのような、明らかにまな板と色の濃さが違うものは、雲雀も問題なく認識できる。よくも悪くも、雲雀はこの三年で自分に何ができるか、何ができないかをだいぶ知ったのだ。
「ただいまー」
「おかえり、父さん」
「……おかえりなさい」
「陽道、今日はお前の番か」
「そう」
最後にデミグラスソースをかけようとしたところで、玄関のドアが開いた。父さんが俺と雲雀を交互に見て、それから俺に尋ねてきた。
「もうできるから」
俺がそう呼びかけると、雲雀が俺の席の向かいに座った。スーツから着替え終えた父さんも、俺の隣に座る。
もう長い間、こうして互いの家に行ってご飯を食べている。だから雲雀が俺の父さんと一緒にご飯を食べる時も全く緊張していなさそうだし、俺も雲雀のお父さんと一緒に食べることになっても普段通り振る舞える。家族ぐるみの付き合いをしているからこその光景だ。
「ああ、そうだ。陽道、今度のゴールデンウィーク、やっぱり母さんは仕事らしい」
「そっか……まあ、仕方ないか」
俺と雲雀の母さんは二人とも、大学病院で看護師をやっている。近くに他に大きな病院がないこともあって、まとまった休みはなかなか取れない。ゴールデンウィークは家でゴロゴロする、というのにはもう慣れた。
「今宮さんのところは? 何か聞いてるか」
「いえ……特に。でも、うちの母も、仕事になると思います」
「そうだろうな」
母さんが仕事をしているのに、呑気に旅行に行くのは気が引ける。それに、家にいて母さんを出迎える人がいなくなってしまう。そういう理由で、父さんも家でゆっくり過ごす。母さんは別にいいから行きたいところに行ってくれ、と毎年言っている。が、母さんがおびただしい数の患者さんを相手にして、へとへとになって帰ってきたところを出迎えると、ほっとした顔をするのだ。
「ごちそうさま。ちょっと奥の部屋で、本を読むから。風呂が空いたら呼んでくれ」
「分かった」
「分かりました」
父さんは読書好きで、こうしてご飯が終わるなり奥の部屋に引っ込む、というのはいつものことだった。
「……」
「……」
そして、父さんがいなくなって俺と雲雀の二人きりになった途端に沈黙が訪れるのも、またいつものことだった。
「雲雀」
「……ん」
「風呂、先入るか」
「……うん」
俺と俺の父さんと、雲雀。この三人になった時は、まず雲雀に入らせるようにしている。男どもが入った後にお湯に浸からせるのは、申し訳ないからだ。
「じゃ、お湯見てくる」
「待って」
久しぶりに、雲雀が強い語調で俺を呼んだ気がした。
「ん?」
「その……言わなきゃいけないことが、あって」
俺の心臓がどきん、と跳ね上がった。さっき一人で宿題をやっていた時、覚えた違和感。それがもう一度襲ってくる。雲雀が今から俺に言うことは、どう転んでもよくない知らせだ。もしもいい知らせなら、こんなに聞きたくないなんて思わないはずだから。
「……ああ」
それでも、俺は聞く。それが両親の次に雲雀のそばにいる者としての、責務だと思うから。雲雀が何か思いつめているなら、せめて話を聞くくらいはしなければならないと、思っているから。
「……私、ね。薬剤師目指すの、やめようと思ってる」
俺は目の前がすう、と暗くなってゆくのを感じた。
それは、雲雀がずっと心に抱き続けてきた夢。いっぱい人と話して、薬を出すというところから、誰かの役に立ちたい。そんな雲雀の思いが、なくなってしまったことを意味する。
「……なんで、」
「似合わないな、って。だって色も見えない薬剤師さんに、お薬出されたい? 私は、思わない。だから」
「そんなに、」
簡単に夢を諦めるな。
昔の雲雀が同じことを言っていれば、俺は即座にそう返していただろう。だが、今の俺にはそうは言えなかった。言おうとして、はっと息をのんでしまった。
「……諦めた、とかじゃなくて。そんなに前向きじゃないの……きっと、私が薬剤師さんになれたとしても、苦労ばかりするだろうから。たぶん、後悔することになると思う。もう、後悔はしたくないから」
「待てよ、でも……」
雲雀は俺の引き止めもむなしく、立ち上がってすたすたと浴室の方へ行ってしまう。思いつめているのとは程遠い、晴れやかな表情をしていた。
「雲雀……」
あの日あの時、他の誰でもいいから、視界が変になっているのを打ち明けられていれば。雲雀は何度もそう思い、後悔の念にさいなまれたのだろう。もう後悔なんてたくさんだ、という雲雀の気持ちは痛いほど分かる。俺が雲雀でも、きっと同じように考えるだろう。
それなのに、俺の心はひどく痛んでいた。一緒に薬剤師さんになろう、お薬の物知り博士になろう。幼稚園の頃に雲雀と交わした約束を、俺はいまだに鮮明に覚えている。そのきらきらした夢が今、音を立てて崩れた。
「俺は……どうするのが、正解なんだ」
俺は風呂から上がり、隣の今宮家へと戻っていく雲雀を、黙って見送ることしかできなかった。