40 呪いの代償
夜の草原は、夕とも違う美しさがあった。
煌びやかなロスティの王都にはない、素朴ながらも素晴らしい眺めに、デュークとレーヴは揃って感嘆の息を吐いた。
草原には、誰もいなかった。
まるで世界から切り離されたような闇を、月明かりと星の瞬きが優しく照らす。
デュークから降りたレーヴは、「もう、限界」と言ってその場に寝転がった。
草を撫でる風から守るように、デュークはレーヴの側に座り込む。
(デュークは紳士よねぇ)
馬の姿をしていても、彼は彼だった。いつだってレーヴのことを思いやって行動している。
(私って幸せ者だわ)
よじよじとレーヴはデュークに這い寄った。
格好悪いけれど、もう下半身は限界を越えている。とてもじゃないけれど立っていることが出来る状態じゃなかった。
「星が綺麗だねぇ」
レーヴは馬の広い腹に上半身を預け、空を見上げた。今にも掴めそうなくらい、星が近い。
しばらくそうしていたレーヴだったが、覚悟を決めるように目を閉じた。
深々と息を吐いて、ゆっくりと息を吸う。
草の香りにデュークの匂いが微かに混じっていた。
「ねぇ、デューク。痛かったり、苦しかったり、嫌なことがあったら、逃げてね。私のことなんて、置いて行っていいから。でも、そうじゃなかったら、そこにいて。私の覚悟を、見届けて」
馬のままだというのに、デュークの表情が不審そうに歪む。
目を閉じたままでも感じる心配そうな視線に、レーヴは微笑みを浮かべた。
(あぁ、好きだなぁ)
空気を吸うように、自然にそう思う。
ただただ愛しいという気持ちを込めて、レーヴはまるで結婚の宣誓をするような気持ちで、呪いの言葉を唱えた。
「死が二人を分かつまで、二人の命は繋がれる」
紡がれたレーヴの言葉に、デュークは慌てたように声を上げた。草原に、馬の嗎が響き渡る。
「悪魔オロバスの名の下に、この契約を結ぶ」
詠唱を終えると、レーヴの後ろがぐにゃりと歪んだ。ゆらゆらと、デュークの体を紫色の霧が包み込む。
寄りかかっていたレーヴの体が、草原に転がった。同時に、左胸が焼けるような痛みを覚え、彼女は胎児のように体を丸めた。
「……っ!」
痛みに顔を顰めて、レーヴは草原を転がった。肌の下に焼印を押されているような痛みに、呻き声を上げる。呼吸に胸が上下するだけでも痛むような気がして、レーヴは息をすることを放棄した。
まるで水中に投げ出されたような錯覚を覚えながら、レーヴはひたすら耐えるしかない。
もがきながら、レーヴは怒った。
(聞いてない。こんなに痛いって、聞いてない!こんの、狸ジジイめ!)
正確には狸ではなくカラスだ。しかし、それを突っ込める者はこの場にいない。
ラウムは呪文を唱えるだけで良いと言っていた。まさか、こんなに苦しいなんて思いもしなかった。
やはり、先人の言うことは聞くべきだった。悪魔の呪いは恐ろしいものだと、レーヴは身をもって知らしめられる。
その一方で、呪文が短くて良かったとも思った。術によっては本一冊分の詠唱が必要なものもあると聞く。こんな痛みを抱えながら唱え続けるなんて、どんなにデュークが好きでも出来なかったかもしれない。
「レーヴ!」
どれくらいそうしていたのか。長かったような気もするし、ほんの数秒だったような気もする。
怒鳴り声に、遠退いていた意識が浮上した。
胸の痛みは引き、わずかに熱を持っているようだ。
躊躇いながらゆっくりと深呼吸しても、痛みは感じない。
地面に投げ出していた体が、そっと抱き上げられた。
大事なものを扱う丁寧な手つきに、思わず笑みが浮かぶ。
頭の上から足の先までくまなく観察された。
それから、おもむろに着ていた軍服の胸元を寛げられる。手際が良すぎて、恥ずかしさも感じないくらいだ。
「あぁ……」
見たくないものを見てしまったように、デュークの薄い唇から吐息が漏れた。
デュークの視線を辿り、レーヴも視線を移す。
左胸の心臓の上に、奇妙な痣が浮かんでいるのが見えた。チェスのナイトを模したような刻印だ。赤い肌が痛々しい。
自分のことながら、痛そうだとレーヴは思った。
見た目ほど、痛みはない。ただ、過敏にはなっているようだ。風が肌を撫でる感触が、やけに気になる。
けれど、これくらいで済んで良かったのかもしれない。
魔術を使えないはずのレーヴが、こうして呪いをかけたのだ。きっと、理を大きく逸脱する行為に違いない。
レーヴは生きているし、デュークも生きている。
それだけで、大成功な気がする。
「大丈夫、だよ?」
ゆっくりと手を持ち上げて、デュークの頰を撫でる。
つるりとした、人の肌。
手を滑らせて輪郭を確かめると、髪に埋もれた、今までの彼には無かったものを見つけた。
「はは……出来ちゃった」
むぎゅむぎゅと見つけたものを摘む。肌色をしたそれは、どう見てもレーヴの持つものと同じに見える。
「馬鹿!なにが、出来ちゃった、だ!一体誰に聞いた?こんな、死ぬかもしれない……禁呪だぞ⁈」
デュークは見たことがないくらい怒っているようだ。紳士らしさのかけらもない。
言葉遣いも余裕がないし、粗野さが滲んでいる。
「怒ってるデュークも、好きだなぁ」
「なに呑気なこと言ってる!」
「だって、好きなんだもの」
ヘラリと力なく笑えば、デュークの目が更に吊り上がった。馬なのに、狐みたいだ。
「だからって、こんな……」
ヘラヘラと笑い続けるレーヴに、デュークの怒りも続かない。
だんだんとその目からは怒り消え、涙が浮かぶ。
「大丈夫だよ、デューク。痛かったけど……大丈夫。生きてる」
証明するように頰を撫でたら、縋るように手を握られる。
デュークの手は、震えていた。
「生きてるって……どうして君はそんな……僕のことなんて、放っておけば良かったんだ」
「あのままじゃあ、死んじゃうでしょ?」
「それでも良かった」
「私が呼んだら、出てきたくせに」
「だって、君の願いはなんでも叶えてあげたい」
「じゃあ、生きて欲しいっていう願いも叶えてよ」
ニヤリと笑って見せれば、デュークはポカンとしていた。
信じられないと見開かれた目から、涙が溢れる。
「……君は!どうして!せっかく僕が紳士らしく潔く身を引いたのに、どうしてそうなんだ!頑張って紳士らしくしているのに、君がそうだから、僕は、僕は……」
デュークは、悔しそうだ。泣きながら、怒っている。
レーヴはそれを眺めながら、嬉しさを噛み締めていた。
大人っぽくて子供っぽいと思っていた。けれどまさか努力して紳士らしくしているとは思ってもみなくて、思わぬ告白に胸がキュンとする。
(可愛い……)
撫で回して、頬ずりしたいくらいだ。
それくらい、デュークが可愛くて仕方がない。
「はは……頑張ってたんだ?」
「頑張ってたよ!僕なりに、精一杯!なのに、君が!」
「えっと、ごめんね?」
人になったデュークは獣人の時よりも感情豊かになったらしい。
泣きながら怒るという器用な感情表現をしながら、レーヴにひしっとしがみついてくる。
「謝って済む問題じゃないでしょ!」
感情豊かすぎて、レーヴは少々戸惑うくらいだ。嫌いじゃないけれど、ギャップが激しすぎて順応しきれない。
「君ときたら、僕をお姫様か何かと勘違いしていない?男なんだよ、男!良い格好させてよ!ピンチに駆けつけてなんとかしちゃうとか、王子様のすることだろう⁈カッコよくて、惚れ直すじゃないか!」
「えっと、ありがとう?」
デュークがどうして怒っているのか、レーヴには今ひとつよく分からなかった。
だって、彼の言っていることは滅茶苦茶だ。紳士らしくしていたのにレーヴがそれを邪魔すると言いたいのだろうが、締めくくりが“惚れ直す”ではなんとも締まらない。
あわあわとしながら、なんとか穏便に済ませようとレーヴは口を開いた。
「えっと、責任は取るから。だから、機嫌直して。ね?」
「本当?じゃあ、遠慮なく」
泣いていたのが嘘のように、デュークはケロリと答えた。
レーヴに押し付けていた顔には、涙のあとすら見当たらない。
(やられた……)
ルンルンと鼻歌を歌いながらレーヴを抱き上げるデュークに、彼女は腑に落ちないと唇をへの字にしてジトリと睨んだ。
そんな唇に「可愛い」と呟いて、デュークは遠慮なく唇を寄せる。
触れ合った唇に、レーヴは顔を真っ赤にした。
ファーストキスだったのに、ロマンチックな雰囲気のかけらもない状態でサラリと済ますなんて酷い。
レーヴにだって、ファーストキスには夢や希望くらい、あるのだ。
「は、は、初めてなのにっ」
涙目で睨みながら詰るレーヴに、デュークは更なる追撃を投下した。
「大丈夫だよ、初めてじゃないから。それに……これからもっとすごいことするからね」
語尾にハートでもつきそうなくらい、色気たっぷりな声だった。
ゾワゾワと腰を直撃する謎の感覚に、レーヴは疑問符を浮かべながら「え、え」と困惑することしか出来ない。
「え、待って。ねぇ、待って⁈」
「大丈夫、大丈夫。怖くないよー」
「展開が、早すぎる!お願いだから、ゆっくり、ゆっくり、ね?ね?」
「はぁぁぁ……可愛い。レーヴ、可愛い。やっと触れた。馬の姿の時は散々お預けされて、もう、限界。存分に君を堪能させてもらうよ」
焦らされまくった元魔馬は、止まらない。
レーヴは覚えておくべきだったのだ。
牝馬の発情に促されて、牡馬も発情するということを。
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次話は5月15日更新予定です。
次回のキーワードは『馬と薔薇』。
よろしくお願い致します。




