37 いざ、魔の森へ
「まずは任務を遂行するべきだろう。デュークのことは、それからでも大丈夫だ」
「でもっ」
一刻も早く呪いをかけたかったレーヴに、ロディオンはそう言った。
反論しようと口を開くレーヴに、彼はまぁまぁと苦笑いを浮かべる。
「言いたくはないが、盛り上がった若者は止まらないものだろう?両思いになって浮かれた君達が任務を失敗したら、目も当てられない。だから、楽しみは後に取っておきなさい」
レーヴの頰が朱に染まる。ロディオンの言葉にうっかりデュークからされた恥ずかしいアレコレを思い出してしまったからだ。
ついでとばかりにハッピーエンドな自分たちがキスをする妄想が頭を駆け巡る。
(ば、馬鹿馬鹿!今は任務!デュークのことは、あと!)
ブンブンと頭を振り、煩悩を振り落とす。
そうこうしているうちに、準備を終えたデュークがレーヴの前にやって来た。
頭を振るレーヴに、首を傾げている。
レーヴは「なんでもない」とデュークの首筋を撫でた。
「さぁさぁ、二人とも。頑張ってくるのよ!」
にこやかな笑みを浮かべたマリーに、追い立てられるように魔獣保護団体の施設を出る。
呪いについて考える暇もないまま、レーヴは鞍をつけられたデュークに跨っていた。
(できることなら、エカチェリーナにもう一発ぶち込みたかった)
馬上で、レーヴはわなわなと拳を握りしめた。呪いの話で有耶無耶になっていたが、エカチェリーナとの決着はついていないのだ。
(あの子さえいなければ、全て上手くいっていたのに!)
障害はジョージとの一件で十分だった。それなのに、畳み掛けるようにエカチェリーナの妨害があり、拗れに拗れている。
ともあれ、デュークの気持ちが他に移ったわけではないと聞けたことは、レーヴにとって朗報だった。
もしもエカチェリーナの手練手管でデュークが彼女に鞍替えしていたら。そんな最悪のシナリオもあったかもしれない。
レーヴの中で、その可能性はゼロではなかった。
だって、エカチェリーナは美しい。そんじょそこらに居るような村娘とは比べものにならないくらいだ。
性格は物凄く悪いが、男というのは彼女のような美女に弱い者が多い。
レーヴは改めて、デュークの一途な気持ちを愛しく思った。
「あぁ、良かった」
徐々に速度を上げるデュークのたてがみが、風に揺れる。乱れたそれを、レーヴは指先でチョイチョイと直した。
レーヴの声を聞いたのだろう。デュークがほんの一瞬振り返った。
黒々とした彼の目を、レーヴは熱のこもった視線で見返す。するとデュークは取り乱したように足並みを乱れさせた。
(もしかして、動揺してくれた……?)
彼の熱い視線で動揺していたのは、いつだってレーヴの方だった。だけど今は、レーヴが彼を乱している。
それだけのことが、なんだか嬉しい。
「ふふっ」
嬉しくて、心が浮き足立つ。フワフワとした気持ちのまま、どこかに飛び立ってしまいそうだ。
振り落とされないようにしっかりと手綱を握りしめたレーヴは、馬の胴を挟む足に力を入れた。
魔馬の脚は、信じられないくらいに速い。魔獣保護団体の施設から魔の森までは大分あるというのに、あっという間に入り口まで到着してしまった。
あとはこの森を駆け抜け、ディンビエに駐在しているロスティの大使へ書状を届ければ良い。国王へ直接届けるほどの権限は、レーヴにはない。
ただ、気掛かりはある。
デュークは今も、レーヴの気持ちを知らないままだ。
他の男に靡いた女を背に乗せて、いつ消滅するとも知れない体で走っている。
ロディオンは後にしろと言っていたが、本当にそれで良いのだろうか。
(せめて気持ちを伝えるくらいは……良いよね?)
魔の森に入れば、のんびりとはしていられない。少々ロマンチックとはかけ離れている場所だが、やるなら今、この時だろう。
「あの、デューク……」
レーヴはデュークへ止まるように頼もうとした。
けれど、その声は魔の森の奥でギャアギャアと不気味な声を上げながら飛び立つ魔鳥の群れに掻き消される。
レーヴの掴む手綱がほんの少し緩んだのを感じ取って、デュークは脚を止めた。
何かあったのだろうか。そう思うデュークの耳に、森の奥から幾人かの声が聞こえてきた。
彼らはレーヴには聞かせたくないような、荒くれた言葉で喋っている。
所々耳慣れない言葉があるので、ロスティとは違う国の人間だろう。
緊張するデュークに、レーヴも同調するように気を引き締めた。
(森の様子が、おかしい?)
フワフワとした気持ちが、一気に霧散するようだった。レーヴは即座に、森の奥を見るように目を凝らす。
魔の森には初めて来たが、こういうものなのだろうか。
紫色をした霧は気味が悪いし、伸びた木々は老人の手のようで、今にもレーヴを捕まえてしまいそうだ。
勝気な見た目に反して怖がりな彼女は、悪寒を感じて怯えた。
デュークを見れば、彼の耳は忙しなく動いていた。警戒している証拠である。
それを見たレーヴは、先程まで浮き足立っていた自分が恥ずかしくなった。
デュークはこんなにも献身的に頑張っているのに、レーヴときたらいつ彼に告白するかなんて考えていたのだ。
(任務中なのに、こんなに心を乱してどうするの!)
甘ったれた気持ちを叱咤し、レーヴはデュークが見つめる森の奥を注視した。
けれど、ただの人であるレーヴには何も分からない。
「デューク?」
戸惑うレーヴの声を聞きながら、デュークはどうしようかと思案した。
声はどんどんこちらへ向かってきている。もたもたしていたら見つかり兼ねない。
デュークは嘶いた。キュイーンと高い嘶きは、警告の意味を持つ。馬を知るレーヴなら、デュークの警告に気づくはずだ。
案の定、手綱を持つ手に力が入るのが分かった。
デュークはちらりとレーヴを見た。警戒しながらも、デュークを見る目はとても優しい。
あぁ、好きだなぁ。
泣いている顔より、ずっと良い。欲を言えば、笑っている顔が一番だけれど。
寝ている顔も可愛かったと思い出したデュークの視線が、あるものを求めて彷徨った。
目にした彼女の唇は、熟したベリーのように甘そうで、デュークはゴクリと喉を鳴らす。
危機的状況は、馬の姿だと余計に本能が勝るらしい。そんな場面ではないと理性は訴えているのに、デュークはレーヴにキスをしたくてたまらなくなった。
戦地に向かう騎士が好きな女性に守護のキスを貰うのは、生命の危機に際して種の保存ーーつまり性欲が増すからではないか。
咄嗟に下らないことを考えて、湧き上がる欲望を押さえつける。
けれど、その努力は無駄なものだった。どんなにレーヴとキスがしたくても、馬の姿ではどうにもならないからだ。
もどかしさに、デュークは荒い鼻息を吐く。どうして馬の姿なんだとイライラした。
「誰か、こっちに来る……?」
レーヴの声に、デュークはハッとなった。森に意識を向ければ、幾人かの気配がすぐそばまで迫っている。
迷っている暇はなかった。
デュークは魔の森を囲むように生えた生垣のような低木を軽やかに乗り越える。
彼は走った。真っ直ぐ一直線に、ディンビエへ向かって。
大きな木々は、まるで生きているかのようにデュークが通るとその身を揺らし、彼を通した。
木属性の魔術を使う彼に逆らう木など、この森にはない。彼が願えば、そのように動くのだ。
それはまるで、聖書にある一節のような出来事だった。やっているのは、悪魔の名を貰う予定の魔獣ではあるが。
背後を見れば、まるでカーテンを閉めた時のようにジャッと木々が元の位置に戻る。
それは、意図的にデュークとレーヴを隠してくれているようにも見えた。
「ほわぁ……」
レーヴは、間抜けな声を漏らすことしかできなかった。
神懸かり的な現象を起こしながら走り続けるこの馬は、魔獣ではなく神の使いと呼ばれる神獣なのではないかとさえ思う。
デュークはますます速度を上げた。
身を起こしていると風の抵抗が強くて痛いくらいだ。
レーヴは身を屈め、デュークの体に寄り添った。
(決してこれは、甘えているわけじゃない。風の抵抗を和らげるためであって、甘えているわけじゃ……)
そんな言い訳をしながらも、緊張したレーヴの心は安寧を求めてデュークに甘えてしまう。
「はぁ……好き……」
デュークの匂いに安心して、うっかりレーヴの本音が漏れた。けれどデュークは動揺する素振りも見せない。
レーヴを無事にディンビエへ送り届ける。
必死にその任務を言い聞かせながら走るデュークに、彼女の小さな呟きは届かなかったのである。
ビュンビュンと風を切る音が、更に激しさを増す。
レーヴの呟きは、もしかしたら聞こえていたのかもしれない。
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次話は5月10日更新予定です。
次回のキーワードは『赤の海』。
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