32 魔獣保護団体の騒がしい日①
レーヴをイメージしたようなミルクティー色の薔薇は、日に一度、一輪だけ咲くようになった。
まるでそれはレーヴへの最期の贈り物のように思えて、マリーは薔薇を丁寧にスケッチした。摘み取ることは簡単だが、デュークの身に何かあってはと思うとーー研究者としては失格かもしれないが、出来なかった。
「はぁ……嫌だわ」
今日もしっかりとスケッチし終えたマリーは、窓の外を見つめた。頰に手を当ててため息を吐く姿は、憂いに満ちている。
そんな彼女のそばで、デュークの一部らしい蔦が同意するようにビタンと壁を叩いた。
窓の外、ずっと向こうに見える魔の森はいつも通りに見えた。濃い魔素が、うっすらと紫がかった霧のように森を覆っている。
けれど、どこか異様な空気を孕んでいる気がしてしまうのは、この状況のせいだろうか。
視線を森から城内の中庭へ向けたマリーは、再びため息を吐いた。
「本当に、嫌ねぇ」
マリーの視線の先では、ウォーレンのような体格の良い男たちが中庭で草むしりをしていた。いつもなら、いないはずの人たちだ。
数日前から、魔獣保護団体の施設では屈強な男たちを護衛として雇っている。魔の森を挟んだ隣国、ディンビエが魔獣の被害を受けた報復に魔の森を焼き払う計画を立てているという情報を得たからだ。
「可愛い魔獣に報復なんて……ありえませんわ」
新しい国は歴史も浅く、魔獣のこともよく知られていないのだ。
しかし、ロスティが魔獣を保護するようになったのだって、ここ百年ほどのことである。領土拡大に精を出していたディンビエが、『魔獣の初恋』を知らなくても仕方がない。
ディンビエは、焼き払い、更地になった土地を我が物顔で占領するのだろう。森から逃げた魔獣が、近くの村々を襲うとは思わないのだろうか。
魔獣保護団体の施設は、魔の森のすぐ近くにある。もともとは魔の森に住む魔獣を監視、そして森を出てきた魔獣を殲滅するために置かれた城塞なのだ。魔獣の性質を暴いてからは、保護団体として機能してきた。
その為、この城は国内で一番魔の森に近いところにある。森が焼き払われれば、間違いなく被害は甚大だ。保護した魔獣が暴走しても食い止められるように、そして万が一の場合は移送が出来るように、手伝いとして男たちはここにいる。
とはいえ、現段階では何もすることがなく、暇を持て余した男たちは草むしりをしているというわけだ。
「有難いわねぇ」
さすが、ウォーレンが契約した男たちだ。魔獣に怯えもせず、暇を持て余して草むしりに精を出している。
ここの職員のほとんどは魔獣のことに手一杯で、中庭の雑草を気にかける余裕なんてない。それに加え、隣国が魔獣について未知なせいで大事な魔獣が多数死傷するかもしれない瀬戸際なのである。
「せめて、デュークの恋がうまくいっていれば、もう少し気は楽だったのだけれど」
マリーの言葉に、蔦が申し訳なさそうにヘニャリとした。そんな蔦を、まるで猫の顎でも撫でるようにマリーはこしょこしょと擽る。けれど蔦は相変わらずつれなく、イヤイヤと逃げて行ってしまった。
「相変わらずねぇ」
デュークらしいと言えばデュークらしいのかもしれない。彼は良くも悪くもレーヴだけが特別なのだ。
彼女にだけ、甘ったるい表情を浮かべる。そして、彼女が見ているところでは良い子だ。
無害で紳士で可愛らしいお馬さん。それ以外はどうでもいいという態度は一貫している。
保護したマリーやウォーレンに対しても、多少は態度が軟化しているかなと思う程度。レーヴに誤解されたら堪らないと、女性が触れることを極端に嫌い、マリーでさえ拒絶する。
「……今は蔦ですけれど、ね」
マリーのことなんて、いくらだって拒否したら良い。それでデュークが恋を全うできるなら、彼女はちっとも気にしない。
幼い頃から、ずっと憧れてきたのだ。
見目麗しい獣人が自分に恋をしてくれたら、と思ったこともある。
告白すると、ウォーレンと結婚するまではもしかしてと魔の森へ通っていた。結婚してからは、祖母のように獣人を保護して、その恋を応援することが夢になった。
だからだろうか。
「彼女には、イライラしてしまいますわ」
あんなに素敵な生き物を選ばないなんて。選ばないだけでなく、責任さえ放棄しているレーヴにマリーは腹が立つ。
苛立ちをぶつけるように、彼女は持っていたペンを握った。手の中で、ガラス製のペンにヒビが入る音がする。
マリーとて、ロスティの国民である。そう、つまりは軍人。この国の一般的な教育は、履修してきている。
研究者には不必要だと無駄に思っていたものだが、意外なところで役に立ちそうだと彼女はニンマリした。
「のこのこやって来たら、返り討ちにしてやりましょう」
インクの漏れそうなガラスペンをハンカチに包み、ポケットにしまう。
そしてマリーは、宙に向かってアッパーを決めるように拳を突き上げた。
「そうだわ。若い彼女に対抗するなら今からしっかり訓練しておかなければ」
フンフンと鼻歌を歌いながら、マリーはお淑やかな足取りで廊下を歩いていく。二階の廊下から外へ出るには、螺旋階段を降りて一階にあるエントランスを抜け、正面玄関から出るのが一番早い。
廊下から螺旋階段へ。この城に来たばかりの頃はこの階段が珍しく、お姫様みたいとウキウキしたものだ。今となってはときめくこともない。ただの階段である。
踊り場まで降りたところで、階下が騒がしくなっていることにマリーは気付いた。思わず、手すりの陰に身を隠す。
なんとなく聞き覚えのあるような声が、エントランスで騒ぎ立てていた。「責任を取らせる」とか「死んで詫びる」とか、物騒なことを言っている。
「一体、何事なのかしら」
そろりと手すりの影から階下を覗く。
エントランスの中央で、一人の男性が土下座していた。その隣で、華奢な少女が男性に頭を押さえつけられる形で土下座を強要されている。
「うーん……誰かしら?」
聞き覚えのある声なのだが、顔が確認できないので特定できない。だいぶ前に聞いたことがあったはずだと記憶を辿るが、声だけでは特定に至らない。
「私の娘は、取り返しのつかないことをした」
朗々とした声は、エントランスの吹き抜けによく響いた。
まるで舞台のワンシーンのようだ。あんまり暇すぎて誰かが芝居でも始めたのだろうか。
「恋する獣人に、デュークに、取り返しのつかないことをしたのだ」
そんなことを呑気に思っていたマリーの耳に、聞き逃せない言葉が飛び込んできた。
デューク。
その名前に、彼女は目を見開く。
大事な、息子のように思っている彼に取り返しのつかないことをした奴がいる。
マリーは身を隠していた手すりからスッと体を起こした。
能面のような無表情を顔に貼り付け、ツカツカと階段を降りて行く。
威風堂々とした様は、まるで女城主のような風格があった。
「あなた。どのような経緯でデュークを害したのか、詳しくお話し下さいませ」
凍えるような視線を向けながら、マリーは男と少女を見下ろした。
顔を上げた男が、マリーを見て一瞬驚いたように目を見開く。そして、彼女の言葉に頷き、言った。
「デュークは今、大変な誤解をしている。この娘、エカチェリーナ・ラウムのせいで」
「お父様が言ったのよ!好きな人には尽くしなさいと!」
カラスの羽の色のような髪色がよく似た親子だ。ロディオン・ラウムとその娘、エカチェリーナ。
声を聞いたことがあるわけだ。ロディオンはかつて祖母が保護し、恋を応援した魔烏の獣人なのだから。
「言ったが、こういう意味ではない!」
ギャンギャンと親子喧嘩をする二人に、マリーは剣呑な視線を向けた。
吹雪が、氷の刃に変わったようだ。鋭さを増した彼女の視線に、二人はハッと息を飲む。
「……お黙りなさい」
マリーの静かな怒りに満ちた声に、二人は口を閉じた。二対の目に、怯えがありありと浮かぶ。
読んで頂き、ありがとうございます。
次話は5月3日更新予定です。
祝日ですが、更新させて頂きます!
次回のキーワードは『薔薇』。
よろしくお願い致します。