03 クララベル夫妻と栗毛の牝馬
ロスティ国の北には魔の森と呼ばれる森がある。
魔素が濃すぎて生き物が住むには困難な場所だったが、それでも過酷な環境で生きる生物がいる。
それが、魔獣と呼ばれる獣であった。
魔獣は、狼や狐といった森に生息しているような動物の姿をしているが、魔力を行使した魔術を扱うことが出来るものもいる。
可愛らしい兎のような姿をしていても、炎を吐かれて黒こげにーーそんなこともあるのだ。
かつて、魔獣は非常に危険な存在として騎士や兵士が討伐に当たっていたものだが、近年の研究で驚くべき生態が明らかになったのを機に保護する方向へ転換された。
マリーの祖母、クララベル夫人の研究論文は、それまで害獣とみなされていた魔獣の存在価値を根底からひっくり返すに値するものだった。
人に恋をした魔獣は、その恋を成就させるために獣人という半人間ーーつまり獣の耳や尾、目といった獣の部分を残した人間のような生き物に変化する。
「恋が成就すると、完全な人間になるそうです。まるでおとぎ話みたいですよね」
分厚い冊子の表紙には『恋する魔獣』というタイトルが記載されている。
それを大事そうに抱きかかえて、マリーと名乗った女性はレーヴに熱く語った。
(どうして、こうなった?)
レーヴは目の前で熱弁をふるうマリーの声をBGMに、朝の出来事から振り返ることにした。
どうしてレーヴがこんな、縁もゆかりもない、その名称すら初耳の魔獣保護団体の施設にいるのかを探るために。
***
今日の目覚めは最悪だった。
学生時代に繰り返されていた面倒な同級生の勘違いによる苛烈なイジメを受けた夢をみたからだ。
わりと高価な軍靴を傷つけられたのは今でも腹立たしい。弁償させれば良かったと今更に思う。
気を取り直そうと、朝ごはんは大好きなパンケーキを焼いた。
お気に入りのシロップは最初の一枚目で使い切ってしまい、二枚目はベーコンと一緒に食べた。
悪くはないがちょっと不満で、でもそれなりに満足して家を出る。
いつものように職場まで運動がてら徒歩で向かう。
お隣の親切な老夫婦に挨拶をして、途中のパン屋で昼食用のサンドイッチを買った。
ライ麦のパンにトマトとチーズとハーブが挟まれたサンドイッチはレーヴがよく買うものである。
3時のおやつ用にパン耳で作ったラスクを買うのも忘れない。
いろんな味があったが、レーヴはシンプルなシュガーバター味を選んだ。
パン屋の紙バッグをゆらゆら揺らしながら、レーヴはのんびりと歩く。
春の陽気は暖かく、気持ちがいい。
楽しそうに飛んでいる蝶を眺めながら、お昼は公園で食べてもいいなぁなんて思っていた時だった。
ガラガラと荒々しい運転で馬車が近づいて来た。
轢かれては堪らないとレーヴは道の端へ寄ったが、走り去ると思っていたこの馬車こそが始まりだったのだと思う。
レーヴのすぐ側で急停車したかと思えば、中から出てきた屈強な男に担がれ、あっという間に馬車の中。
叫ぶ暇もない見事な手腕だと思わず拍手したくなるような素早さだった。
思い出したように抵抗するレーヴの口を塞いだ男は、「悪いようにはしない」と言って鋭い視線を送ってきた。
熊のような男に勝てる気がしなかったレーヴは、逃げる隙を伺うことにして黙った。
道すがら、軍司令部からの『魔獣保護団体へ行かなければどうなるか分かってるな』的な書状を見せられれば、軍事国家・ロスティの国民が一人であるレーヴに拒否することなど出来るはずがなかった。
混乱するレーヴが連れてこられた魔獣保護団体の本部という場所は、古い城を改築したような大きな建物だった。
地下に続く階段からは猛獣の鳴き声というか咆哮のようなものが聞こえてきて、レーヴは「ぴゃっ」と飛び上がる。
勝気そうな見た目に反し、レーヴは意外と臆病なタイプなのだ。
案内された応接間らしき部屋で、ご機嫌取りのように出された菓子も茶もレーヴの好きな店のものであり、なんとなく懐柔しようとしている意図が見え隠れして警戒を解くことも出来ない。
手に取ったが最後、とんでもない任務につかされるのではないだろうか。
レーヴの脳裏に『最後の晩餐』という言葉が浮かんで消えた。
訓練学校を卒業して早七年。
運良く早馬部隊に配属され、怪我をすることもなく平和な毎日を過ごしてきた。
軍事大国と恐れられているおかげで大戦はなかったが、もしかしたら妙な通り名を持っているレーヴにやっかいな任務の白羽の矢が立ったのかもしれない。
(十中八九、魔獣がらみなのは確定してるけど)
レーヴ・グリペン、二十五歳。
戦では伝令をいち早く届け、平常時は郵便物を届けることを任とした早馬部隊に所属する彼女には、通り名がある。
その名を聞けば、訓練学校や騎士学校に在籍している者や卒業生ならほぼ確実にレーヴ・グリペンの名を挙げるだろう。
栗色の長い髪を一つに結い上げ、軍で鍛えられた体はムキムキとまではいかないものの他国の一般女性よりは引き締まっている。
だが、本人もちょっとばかりーーいや大分気にしている肉付きの良いお尻はその名前の由来の一因になっているんじゃないかとレーヴは思っている。
栗毛の牝馬ーーそう呼ばれる所以になった出来事は、今も伝説のように語られていた。
軍事パレードに遅刻しそうになった彼女は、それまで駑馬と呼ばれて誰も乗りたがらなかった馬に乗り、近衛騎士が青ざめるほどの速度で走り抜け、パレードに間に合わせた。
それは、無名の一訓練生でしかなかったレーヴに通り名がつくほどの衝撃を人々に与える出来事だったらしい。
その時乗っていた馬が牡であったこと、そして馬の扱いが巧みだということを讃えて、『牡馬を手懐ける栗色の髪を持つ女』という意味で『栗毛の牝馬』と呼ばれているのだった。
断じて、モテる牝馬は栗毛が多いから、レーヴもそうなのだろうとかそういう意味ではない。
馬に詳しい者だとそういう意味に捉える者もいるようだが、そういった面々は好奇心のままにレーヴを訪ねてきて残念な思いをするだけだった。
「恋が成就しない場合はどうなると思いますか?大変残念なことに、塵となって消えてしまうのです」
「はぁ」
魔獣やその相手が王子や姫だったら、子供が喜ぶおとぎ話になるだろう。
最後はキスして、末永く幸せにーーハッピーエンドが定番だ。
塵となって儚く消える、バッドエンドは少々大人向けの童話だろうか。
だが、それと自分とどう関係があるのか。
見た目は正直、中の下。
清潔感はあるが、化粧も服も興味なし。
軍服以外はシンプルなシャツにこれまたシンプルなパンツを合わせたスタイルか、ざっくりしたリネンのワンピースを着るくらいで飾り気もない。
冬になれば祖母お手製のパッとしない毛糸の帽子やマフラーを使い出すので余計に酷くなる。
そうなってくると少々デザインが可愛らしい早馬部隊専用の軍服が一番可愛い格好に見えてくる。
早馬部隊の制服は貴族の乗馬服をモデルにしたデザインで、可愛いと評判が良いのだ。
深緑色のぴったりとしたジャケットに同色の乗馬用ズボン、それを覆い隠すように長尺のスカートを合わせた女性用の軍服はレーヴには勿体ないとよく言われる。
そんなレーヴの興味は専ら食に向かっている。
休日ともなれば早朝からせっせと小麦粉を捏ねまわし、パンを焼くのが趣味。
白い粉を服につけたまま外を歩くことだってよくある。
そんなわけだから、レーヴは恋愛市場において異性のターゲットに選ばれることなどなかった。
お姫様になることを放棄している彼女の恋人はパンであり、王子様との出会いやロマンスには期待していなかった。
(うーん……分からん)
一通り回想してみて思うのは、夢見の悪さは何かの予兆だったのかもしれないということだ。
そういえば、数年前も朝からついていない日があったと思い返して、それはあの軍事パレードの日だったと思い出してなんとも言えない気持ちになった。
あの時はたまたま幸運を掴む結果になったが、今回はどうだろうか。
そう何度もどんでん返しが起こるとも思えず、レーヴは持ったままだったパン屋の紙バッグをくしゃりと握りしめた。
魔獣保護団体がレーヴにどんな用があるのか定かではない。
魔獣やら獣人やらの知識は『存在する』ということくらいで、今聞かされている内容は初耳である。
「国としても、強靭な肉体と人間離れした力を持つ彼らは貴重なので、魔獣保護団体が保護し、見事恋を成就させることは国をあげて助力すべき大事なことなのです。見事獣人から人間になった方々は、どの方も軍の上層部に名を連ねているんですよ」
「なるほどー」
なんてことだろう。
元魔獣で元獣人で現人間が軍の上層部にはうようよしているのか。
希少な種と言え、ここは大国である。土地が広ければそれだけ存在する確率も上がるのかもしれない。
ロスティは軍事大国なので、血統よりも個々の能力が出世の鍵となる。
人間離れした能力を持つというならば、取り立てるのは当たり前のことだ。
かというレーヴも大した家柄でもないのに王都の端に居を構え、都会暮らしを満喫出来ている。
栗毛の牝馬でなかったら、今頃は家族同様、地方で畑仕事をしていたかもしれない。
ほわほわと穏やかな声で熱心に語られ続けても、レーヴは自分に関係があるとは思えなかった。
生まれてこの方、獣人どころか魔獣も見たことがないのである。
見た目も大したことがないので、色仕掛けで魔獣を籠絡して獣人化を促すとか、そんな高度なことは到底無理な相談だ。
そういうのはレーヴではなく、可憐な乙女か麗しい美女が相応しい。
生返事のような声しか返さないレーヴに、マリーは内心焦っていた。
今回、マリーがレーヴを呼びつけたのは重要な任務があるからだった。
力説しすぎて乾いた喉をお茶で潤し、マリーはそれでねと切り出す。
「獣人になった子が、いるの」
(だからなんだというのだろう)
レーヴは、神妙な顔で見つめてくるマリーの顔を見つめ返した。
マリーのハシバミ色の目が、スッと鋭く眇められる。
おっとりとした雰囲気は霧散し、有無を言わせない空気が場に漂う。
ビシィとレーヴを指差して、マリーは言った。
「あなた、責任取りなさいな」
(うん、意味がわからない)
なんとなく察するが、信じられないというか、信じたくない。
まさか自分じゃないよねとレーヴは指を避けるようにスススっと座席をずらしてみたが、指は彼女に合わせて動いてくる。
(どういうこと?)
首を傾げて唸ること数秒。
レーヴは対人向けの爽やかな笑みを浮かべてこう言った。
「私、ブスなんですけど」
実に潔い台詞だ。
思わずマリーがふふっと笑う。
再び柔らかな表情を浮かべると、気を取り直すようにティーカップに口をつけた。
レーヴは、目の前にいる研究員よりも遥かに劣る容姿だと自信を持って言える。
見られないほどではないものの、ブスのくせに化粧もしないし、性格だって良くはない。良くしようとも思わない。
自分は自分、このままでいい。
そんな、女子的にも人間的にも向上心のないレーヴのどこに惚れたというのだ。
「大丈夫、相手は美形ですから」
(意味不明!)
ますます不審だ。獣人とはいえ美形が、中の下のレーヴにーー
「あなたに恋をした魔獣がいます。名前は、デューク」
「デューク」
深い森をイメージするような名前だ。なんとなく黒々とした獣を想像させる。
「不本意かもしれませんが、あなたに拒否権はありません。これは命令で、任務です」
嫌な予感は当たるものだ。どんでん返しは望めそうもない。
「彼に残された時間がどれほどあるかは分かりませんが、その想いに応えるにしろ拒否するにしろ、最期まで面倒をみなくてはいけません。あなたには、その責任があるのですから」
最悪だ。
いつ消えるか分からない男を押し付けられた。
相手は元魔獣の獣人さん。得体が知れない。
その上、レーヴに恋をしているらしい。ますます怪しい。
「明日からデュークをあなたの家へ通わせます。いいですね?」
いいですねもなにも、これは命令で任務なら頷くしかない。
拒否すれば軍の規則に則って処罰が下される。
「了解しました」
レーヴは素早く立ち上がり、敬礼する。
果たして自分が恋などすることが出来るのだろうか。
淡い恋心を抱いたことはあれど、自身を変えるほどの情熱は経験したことがない。
(それでも、命令ならやるしかない)
彼に恋をするのか、それとも看取ることになるのか。
どうなることやらとレーヴは嘆息した。
読んで頂き、ありがとうございます。
次話の更新は3月22日を予定しています。
次回のキーワードは『初対面』。
よろしくお願い致します。